【第六話】 六年長屋の自室で、伸一郎は一人時間が経つのを待っていた。 夕食時に食堂を駆け巡った、文次郎負傷の噂。仙蔵と留三郎が直ぐさま医務室へと走っていくのを、伸一郎はただ見ていた、見ていることしか出来なかった。 (学園への帰り道、四年の田村に突如として男が襲いかかり、それに気付いた文ちゃんが庇い負傷。傷を負いながらも男を捕らえ、現在男は教師による尋問を受けている……) 呆然とする中で舞い込んだ噂を整理し、息を吐く。 あのほのぼのとした朝の出来事が遠い昔のように感じる。あの時文次郎の誘いに乗っていれば、彼は傷付かなかったのではという遅い後悔に、ギリッと胸が痛んだ。 (今、医務室に行ったら駄目だ。あいつの友人達がいる……) 文次郎がいるであろう医務室に駆け出したい衝撃を抑え、唇を噛み締める。幼馴染みである己がなぜ友人達に遠慮しないといけないのか、と今までのことを棚に上げ理不尽にもそう思った。 他人の振りをしていたことが恨めしい。文次郎の危機に側に入れなかったことが悔しい。苦しむ文次郎を支えてあげれないことが悲しい。 「文ちゃん……」 無意識に零れ出た愛称は、誰にも聞き取られることなく宙に消えるはずだった。 「呼んだか?」 聞こえてきた声に、へっと伸一郎は目を丸くする。 瞬きをした次の瞬間、目の前に医務室にいるはずの幼馴染みが現れた。私服ではなく制服に着替えており、腕や額に包帯が巻かれている。 ヒュッと息を飲み、文ちゃんと掠れた声で呼ぶ。おうと答える文次郎は、何時もと変わらない笑みを浮かべている。 「なん、で……」 「鍛練に行こうとしたら伊作達に止められてな、休めと煩かったから逃げて来たんだ」 「いや休もうね!? 休まないといけないよね!? 怪我したんだろ!?」 「かすり傷だ、問題ない」 「問題ありまくりだろ!」 ドヤ顔で主張する文次郎に思わずつっこむ。途端ムスッとする幼馴染みに、伸一郎は目眩を感じた。 それでもグリグリと蟀谷を指で解し、正座をして文次郎と向き合う。 「何で鍛練に行きたがるか訳を説明しろ」 「……俺は一日でも休むことは出来ん、鍛練あるのみだからだ」 「幼馴染みをナメるな。それは建前に過ぎねえだろ」 答えるまでに間があったので、伸一郎は本音が別にあると踏む。正直者の彼がこうして言い淀む時は、本音を隠し建前を探しているのが殆どだからだ。 今回その通りだったのか、文次郎は顔をしかめそっぽを向いた。 文次郎、と愛称ではなく名前で呼ぶ。 「俺はお前が心配なんだ。だから頼む、無茶しないでくれ」 「……見舞いに来んかったくせに」 「それについては謝る」 「……」 「文次郎」 唇を固く結び閉ざす幼馴染みを懇願するかのように呼ぶ。それに根負けしたのか、文次郎は唇を緩めた。 「責任を、感じさせたくないんだ」 「責任?」 「この怪我は、俺の鍛練不足のせいだ。三木ヱ門達のせいじゃねえ」 目を泳がせ言いにくそうにする文次郎に、伸一郎は唖然とする。余りの理由に喉がカラカラに渇いた気がした。 「おまっ、怪我負ったのあいつら庇ったからだろ!」 「俺がもっと強ければ、怪我を負うこともなかったはずだ」 「だからって……!」 「それに、俺が何時も通りにしておけばあいつらも安心するだろう?」 「……っ!」 怒りに似た感情で、目の前がチカチカと赤く点滅した気がした。何か言おうとしても、息のみで声は出て来ない。 (つまりこいつは、全部の責任を一人で負って、後輩達に心配かけないよう無茶することを選んで……!) 懐にいれる数は極端に少ないが、一度入れれば甘やかす傾向にある幼馴染み。特に委員会の後輩達のことを、心から大切に思っている。 その大切な子供達を傷付けない為、自身を傷付けようとしているのか。 「馬鹿じゃ、ねえの……?」 ようやく出た言葉に、文次郎は顔をしかめた。気にせず腕を掴み引き寄せ、肩に額を当てる。 「だったら俺は、どうなるんだよ。お前を心配している俺は、どうなるんだよ……!」 「どうも、普通に……」 「幼馴染みが無茶しようとしているのを見て、普通にしてられっかよ!」 「伸一郎……」 「何でだよ! 何でお前はそうやって、自己犠牲しかしようとしねえんだよ! 俺が傷付かねえとでも思ってんのか!?」 顔を見ないで言った叫びに、文次郎が息を飲んだ。次いで、ふざけるなと低い声が部屋に響き渡る。 「お前だって、そうだろうが」 「はっ……?」 「お前こそ! お前に他人扱いされて、俺が傷付いてねえとでも思ってんのかよ!?」 悲痛な声に顔を上げる。 文次郎は泣き出しそうでいて、それでいて怒りの表情を浮かべていた。グラグラと揺れ動いている左右形の違う目は今にもこぼれ落ちそうで、伸一郎は目を見開く。 「文ちゃん……」 思わず伸ばした手は、幼馴染みの手によって叩き落とされた。それにチカリと視界が点滅する。 「最初に拒んだのはお前の方だ、伸一郎」 音もなく立ち上がった文次郎は、伸一郎を一瞥することなく天井裏へと消えて行った。途端感じられなくなる気配に、全身から力が抜けペタンとへたれこむ。 頬を冷たい何かが横切った。それが何なのか、伸一郎には分からなかった。 20121029 prev 栞を挟む next [目次 表紙 main TOP] ![]() |