「おばちゃーん?」 皿を持って来た食堂は無人でガランとしていた。何時もなら明日の朝食の仕込みの為いるおばちゃんの不在に、伸一郎は首を傾げつつもカウンターに皿を置く。 (文ちゃんのとこ戻ろ) ここで待っていても仕方ないので、幼馴染みの元に戻ることにした。 踵を返し食堂を出る。その時#鼻を擽る甘い匂いが漂っていることに気付いた。甘味の匂いではなく、どちらかと言えば香の匂いに近い。 伸一郎はフラフラと匂いの方へ足を進めた。それにあれと不思議に思っても、足は止まろうとしない。 「……ん?」 気付くと見知らぬ場所に出ていた。くの一教室の領域なのか、綺麗に整えられた花壇が美しい庭らしき所である。 伸一郎は花壇に近寄り、匂いの出がそこであることに気付いた。まだ蕾だというのにここまで匂うとは、花が咲いたらどうなるのだろうかと一種の呆れが過る。 しゃがみ込み、蕾に触れる。桃色のそれは伸一郎の手に擦り寄るようにして揺れ動いた。 「今晩は」 不意に後ろから声をかけられた。立ち上がり振り向けば、見知らぬ女が如雨露を片手に微笑みながら立っていた。着ている服は南蛮のものだろうか、天女と呼ばれている少女が着ていた物と良く似ている。 くの一教室の先生だろうか、と伸一郎は首を傾げた。くのたまとはそれなりに交流はあるが、教師とは一部の方としかない。 女は笑みを絶やさず伸一郎の隣に並んだ。如雨露を傾け、蕾に水をかける。 「この子達はね、頻繁に水をあげないと枯れてしまうのよ」 「そうなんっすか」 「ええ、だから夜もこうしてあげに来るの」 話し掛けられ、流されるまま伸一郎は相槌を打つ。 水を浴びた蕾がキラキラと輝いているように見えた。まだ咲かないのは不思議な程ぷっくらと膨らんでいる。 「この子達、花を咲かすと甘い蜜を垂らすのよ。とっても甘い蜜をね」 「へー、だから甘い匂いがするんですね」 「……あら、この香り分かる?」 「食堂にまで漂ってましたよ」 「……そう」 フッと女の笑みが深くなった。伸一郎を見上げ、目を猫のように細める。 「貴方は面白い子ね」 「そっすかー?」 「ええ、とっても面白い子。だから、この子達が欲しくなったら貴方にあげるわ」 「それは嬉しいっすねー。あっ、俺友人待たしてんでこれで失礼します」 内心いらねえと思いつつも、伸一郎は女に向けて頭を下げた。そのまま踵を返し、その場を立ち去ろうとする。 「この子達の名前、知ってるかしら?」 背中にかけられた声に、伸一郎は顔だけ振り向いた。女は相変わらず笑みを浮かべている。 「この子達、――って言うのよ」 愛しい我が子を呼ぶ母親のように愛情の篭る声で紡がれたその花の名前を、伸一郎は聞いたことが無く。覚えておきます、と心にもないことを言って今度こそその場を立ち去った。 遠くなる伸一郎の背中を見ながら、ンフフと女は笑う。ゆらゆらと蕾達が、風が吹いていないにも関わらず左右に揺れ動いていた。 20121120 prev 栞を挟む next [目次 表紙 main TOP] ![]() |