ザァアと、小さな粒子が擦れ合う音が聞こえた。嗅ぎ慣れた潮の匂いが風に混じり鼻を擽る。 そっと文次郎は目を開けた。飛び込んできたものは、愛する海の光景。地元に帰らなければ見れないそれに、数回瞬きする。 不意に足を冷たい水が包んだ。見れば、幼い頃伸一郎と駆け回り遊んだ浜辺に裸足で立っており、寄せる波が足元まで来ている。 「『人形』にここまで追いやられたか」 耳を、低音の声が震わした。 その刹那、世界が回り出す。海が空に、空が海に。砂浜が雲に。雲が砂浜に。 「ここに長居してはいけない。さあ、帰るがいい」 回る世界に、目を閉じる。頭を温かい何かが撫でた気がした。 文ちゃん、と耳によく馴染んでいる声に呼ばれる。ふるりと睫毛を震わせ目を開けると、幼馴染みと目が合った。柔らかく微笑まれ、文次郎を安堵の感情が包み込む。 「伸一郎……」 ほうと息を吐く。頭を撫でている手が心地好く、再び目を閉じる。 するりと伸一郎の手が頬を撫でた。それが妙に擽ったくて、目を閉じたまま笑う。 「伸一郎」 「ん?」 「夢をな、見たんだ」 「夢?」 「海の夢だ。お前と共に駆け回った浜辺に立っていた」 「おう、それで?」 「誰かの声が聞こえた、顔は見とらん。ただな」 「ただ?」 「お前の声に、似ていたんだ」 そう言い目を開けると、伸一郎は嬉しそうに顔を綻ばせた。そっかそっかと頷き、頬を撫でていた手を再び頭に乗せる。 「そいつ、何て言ったんだ?」 「覚えとらん」 「覚えとけよー」 「お前が覚えとけ」 「俺夢ん中入れねーし」 「気合いで何とかしろ」 「何という無茶振り」 クツクツと笑う声に、文次郎も同じように笑う。 久しぶりの穏やかな空気に、文次郎に眠気がやって来る。今ここで寝たら最高に気持ちいいだろう、そう思い目を閉じた文次郎の耳に、咳ばらいする音が届いた。 「そこの二人、いちゃつくのなら後にしてくれ」 「……っ、なっ!」 仙蔵の声が聞こえ、文次郎の意識が覚醒した。慌てて身を起こし周りを見ると、仙蔵と三木ヱ門、長次が気まずそうにしていた。 寝起きとは言え完全に油断し、そればかりかあの緩い空気を見られたことに羞恥心が沸き、うひゃあと奇妙な悲鳴を上げる。 「伸一郎! どういうことだこれは!」 「文ちゃんが気絶して倒れたから、善法寺のいる部屋に連れてきたのです、まる」 「おっ、俺が気絶?」 「文ちゃん、覚えてないのー?」 あれと首を傾げる伸一郎に、文次郎も傾げる。 その刹那、記憶が弾け洪水のように襲ってきた。食堂で少女――恋歌に会い恐怖心に囚われ身動き出来なくなった所を、伸一郎に助けられたこと。そのまま食堂から連れ出されたところまでは覚えているが、そこで記憶が途切れている。恐らくここで気絶したのだろう。 同時に恋歌に感じた恐怖心も戻ってき、ぶるりと身体を震わせる。 「おっ、思い出した……。そうだ、あの女から伸一郎に助けてもらって……」 あのまま恋歌に触られていたらと思うとゾッとする。それこそ気絶だけではすまなかったかもしれない。 思わず文次郎は伸一郎の服を掴んだ。伸一郎は宥めるように文次郎の頭を撫でる。 「大丈夫だよ、文ちゃん。俺が守ってやるからさ」 「……っ、すまない」 「いーのいーの、あんなに拒絶反応が出る位なんだし仕方ねーよ」 「伸一郎は……」 「気持ち悪いとは思うけど、拒絶反応は出てねーから」 「……助かる」 ニカッと笑う伸一郎に、申し訳なさを感じつつも文次郎は甘えることにした。正直に言ってもう一度会いたいとは思わない、脊髄反射の域で恋歌を避けてしまうだろう。 それを見ていた仙蔵が、ふむと意外そうにする。 「松平の言うとおり、まさか文次郎があれに対して拒絶反応を起こしていたとはな……」 「……すまなかった、文次郎……」 「お前が謝るこたねえよ、長次。俺が鍛練不足だったせいだ」 送り出したことを後悔する長次に、気にするなと文次郎は笑いかける。だが口よりも饒舌な目を向けられ、うっと言葉につまる。 長次の目は訴えていた。何を恋歌から感じ取り怯えたのかと。 「……文次郎……」 「……分かった、全部話す」 根負けし、文次郎は息を吐いた。話そうと口を開けようとし、ふと人が少ないことに気付く。 「ちょっと待て、伊作達はどこにいる? ここは三年の長屋なんだろう?」 「伊作達は食堂のおばちゃんに握り飯を作ってもらいに行っている。他は各々用事がありここを離れているが、じきに戻って来る」 答えたのは仙蔵だった。食堂という言葉に顔をしかめたが、長次がモソッと大丈夫だと言う。 「……鉢屋に変装させてもらっている……」 「鉢屋にか、なら大丈夫かもしれんな」 変装の名人である鉢屋の手腕にかかれば、恋歌も伊作達だとは見抜けないかもしれない。その手があったかと感心し、ふと三木ヱ門がそわそわしていることに気付いた。 頻りに文次郎と伸一郎を交互に見、何か聞きたげな表情を浮かべている。 それで文次郎は、三木ヱ門に伸一郎のことを紹介していなかったことに気付いた。折角なので紹介することにする。 「三木ヱ門、こいつは俺の幼馴染みの松平伸一郎だ」 「おっ、幼馴染み、ですか」 「どーも、六年は組委員会無所属、座学よりも実技が好きだけどそれ以上に文ちゃんとの鍛練が好きな松平伸一郎でーす。気軽に松平先輩と呼ぶがいい」 「どこが気軽にだ」 「俺を伸一郎と呼んでいいのは女の子と文ちゃんだけだから」 「……伸君は?」 「文ちゃんだけ」 「……バカタレ」 少し嬉しかったのは秘密である。 ぷいとそっぽを向く文次郎とエヘヘと花を飛ばす伸一郎を見比べ、三木ヱ門は頻りに頷いた。居住まいを直し、伸一郎の方を向く。 「四年ろ組会計委員会所属の田村三木ヱ門です。漸くお二方の関係を知ることが出来ました」 「……あれ、もしかして俺のこと知ってた?」 「はい。何度か潮江先輩のお手伝いをしているのを見たことがありましたので」 以前から気になっていたのです、と続けた三木ヱ門を見、伸一郎は数回瞬きをした。そして文次郎に半目を向ける。 「俺、気配したら教えろって言ったよな?」 「徹夜で疲れて気付けなかったんだ」 「うん、そっかー。で、本音は?」 「何時までも他人の振りをするお前に対する嫌がらせ」 ケロッとして言うと、伸一郎は畳の上に突っ伏した。それに三木ヱ門は目を丸くし、仙蔵が愉快そうに笑いを噛み殺す。 「何だ文次郎、しっかりと嫌がらせをしていたのか」 「当然だ。俺は理不尽な仕打ちを黙って受けるつもりはない」 「それでこそ文次郎だ。ぷぷっ、ざまあないな松平よ」 「うっせー黙れこの野郎!」 余程仙蔵と相性が悪いのか、他の人に言われても聞き流すような悪態に伸一郎は噛み付いた。そのままギャーギャーと二人で言い争いを始める。 その凄まじいそれに、三木ヱ門が呆然としながらポツリと呟く。 「食満先輩と喧嘩している時の潮江先輩にそっくりですね……」 「ん、そうか?」 「……何時も、傍にいただけはある……」 以前団子屋で会った時に伸一郎との関係を教えた長次の言葉に、文次郎はニッと笑う。 「あいつは俺の自慢の幼馴染みだからな」 胸を張り自慢げな文次郎に、長次と三木ヱ門は数拍黙った後小さく吹き出すようにして笑った。 20121114 prev 栞を挟む next [目次 表紙 main TOP] ![]() |