その匂いは、どこかで嗅いだことがあるものだった。
 学園に充満しているものではない。それよりもどこか苦く、決して強くないもの。
 どこから、と目を開けて体を見下ろし、懐から漂っていることに気付く。

「……恋歌」
「なに?」
「懐に入っている物、取ってくれないか?」
「武器持ってるの?」
「いや……武器じゃねぇが、今の俺には必要なものだ」

 そもそも隠し持っていた武器は全て没収された。それだけが残されていたのは、気まぐれか、はたまた持っていても仕方ないと判断されたからか。
 恋歌がそろりと近寄り、懐に手を伸ばす。触れられた場所から震えが走ったが、文次郎は歯をくいしばって耐える。

「……これ、何?」
「ある意味、薬みたいなものだ」

 恋歌が取り出した物は、懐紙。その中にくるまれている、潰された饅頭。
 ――伸一郎が残していた、蜜入り饅頭だ。

「それを、蜜の部分を俺に」
「食べて、大丈夫なの?」
「腹を壊した方がマシだ」

 これを食べれば、少なくとも恋歌に感じるこの不快感は消え去るはず。その代わり正気を失うかもしれないが、今の恋歌なら大丈夫かもしれない、と根拠のない予想も立てる。
 何より、今のこの状況で恋歌と協力出来ない方が厳しいことになる。リスクを冒してでも、やらなければならないことがある。
 恋歌が潰れた饅頭を手に持ち、文次郎の口へと運ぶ。一口食べれば、途端甘く、そしてどこかほろ苦い味が口中に広がった。
 それは体中に染みわたり、文次郎から不快感を取り除いていく。

『愛して』

 ――そして、か細い声が、耳の奥に反響した。

「――……もう、大丈夫だ」
「本当だ、顔色良くなった」

 青ざめていた顔が血色を取り戻したことに、恋歌はホッと息を吐く。
 その様子を見て、文次郎は目を細めた。

(この声は、こいつからなのか……?)

 愛してほしい、と控えめに訴えてくる声は、かつてこの蜜に苦しめられていた時には聞こえなかったもの。あの時は同級生や後輩のこえばかりが届いていたが、もしかすると、恋歌も今の様にずっと叫んでいたのかもしれない。

『愛して』

 この想いを、奴らは利用したのだろうか。
 この想いを、少女はずっと抱えていたのか。

『愛して』

 なぜ、この声が己に聞こえるのか。彼女が真に愛を求める相手は、一体――。

「文次郎、これからどうするの?」
「……ああ、そうだな」

 思考の波に攫われかけたところを、恋歌の声が引っ張り上げた。
 今はそれを考える時じゃないと頭を振って追い出し、思考を切り替える。

「取りあえず、脱出はあいつがここに来てからだな」
「あいつって?」
「俺の、幼馴染」

 今は、どうやってこの事態を乗り切るか。しっかり対策を立てなければならない。
 なぜならそれを一緒に行うのが、この天女なのだから。

2017/02/25
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