『助けて』

 消えることがない、呪いのような声。伸一郎の声には不思議と重ならないが、それでも文次郎の心を蝕んでいく。
 ああ、然し今なら。文次郎は胸を張って言える。

(助けてほしいのはこっちだ……!)

 根っこ入り饅頭は、今まで食べたことがない、否、この世の物とは思えないほどの不味さだったのだから。
 逆流しそうになるそれを必死に口を押えて堪える。体中から汗が吹き出し、目の前がチカチカと点滅する。

「潮江先輩!?」
「文ちゃん!?」

 孫兵と伸一郎の焦った声が聞こえる。何故同じものを食べたはずなのに伸一郎は平気そうにしているのか、そう疑問に思える余裕もなく、文次郎は必死に喉を動かす。
 食べたくない。けれど食べなければならない。
 決死の思いで飲み込み、全てが体の中に納まった時――文次郎はその場に倒れた。

「不味い……」
「そんなに!?」
「ええっ!? 見た目の割に味なかったぜ!?」

 口の中に残る余韻が非常に苦しい。水、と呻くと孫兵が竹筒を差し出した。
 礼を言って受け取り、一気に仰ぐ。水と一緒に不快なものを体の奥へと流しこめば、幾分かすっきりとした。心なしか頭の中も靄が取り払われているような気がする。

「すまないな、伊賀崎。助かった」
「いいえ。でもそんなに美味しくないんですね……」
「この世の物とは思えない味だった。そもそも食べ物の味がしなかった」
「あの文ちゃんにそこまで言わせるなんて……そして同じものを食べたはずの俺が何ともないなんて……!」
「お前味覚死んでんじゃね?」
「いやー!」

 叫ぶ伸一郎を放っておき、文次郎はカミュと向き合う。再びお座りしていた狼は、じっと文次郎を見つめていた。

「どうだ、俺は元に戻っているか?」

 コクン、とカミュが頷く。そうかと文次郎は頷こうとし――ふと、静かなことに気付いた。
 あれ、と耳を触る。あれほど消えることがなかった声が――助けを求める声が、聞こえない。

「あ、れ……?」
「文ちゃん」

 それだけではない。最近の記憶が一気に押し寄せてくる。まるで何かに封じられていたかのように、今まで思い出しもしなかった――気にも留めなかった記憶の数々が。

『伸、君……』
 ――幼馴染との忍務が終わり帰ってきた日。己は学園長室で、何かに気付いた。
鼻を劈く酷く甘い香り。その中でも平気そうな幼馴染の姿。
 ――気持ち悪さに頭の中が朦朧となり、しゃがみ込んだ時に浮かんだ疑問。
頭が朦朧としたことを、その原因を忘れてしまったことへの。

『……っ、先生』
 ――教師達と同じ黒い忍び服に身を包んだ、見慣れぬ男。
 実技教科の担任などではない。彼を、男を、今まで学園で見たことは一度もない。
 ――男が箒を持っているのは何故か。
 見たことがないのに、どうして何時も持っていると、刀のように扱うことを知っているのか。
 ――お友達を待たせていると男は背中を押した。
 待たせてなんかない、伸一郎は戻ってくると言っていた。そもそもなぜ、あの時文次郎が伸一郎と一緒に居たことを男が知っている?

 浮かんで、消えて、はじけ飛んで。
 泡のように次々と浮かぶ記憶の数々に、ああと文次郎は気付く。

 記憶を操作されていたのは伸一郎の方ではない――己の方だと。

2017/02/05
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