それから数日後の事である。その日は珍しく仁ノ助と言い争いになることがなく、誠八郎の機嫌はかなり良かった。
 軽やかな足取りで飼育小屋に向かうと、生き物達がざわめいていた。それにおやと思い狼達の小屋を見渡すと、カミュの姿がない。
 それに何があったのか感づいた誠八郎は、またかという気持ちを抑え肩を落とした。

(文次郎が泣いてんのか……)

 主に同級生の食満留三郎に泣かされている文次郎は、カミュが来て以来時々小屋の外に出して泣きつくようになっていた。今回もまた、飼育小屋の裏の方でカミュにしがみつき泣いているだろうと当たりをつけ、気付かれないよう気配を消してそっと向かう。
 文次郎は誰かの前で声を上げて泣くことをしない、唯一カミュの前だけで声を上げて泣くのだ。誠八郎がいると気付けば必死で涙を堪えるに違いない。
 小屋の裏側に向かうと、ボソボソと話す声が聞こえてきた。文次郎がカミュに話し掛けているのかと、そっと覗き込む。

「……っ!?」

 覗き込み、そこにいた者に声を上げそうになった。咄嗟に手で口を覆い、顔を引っ込め見間違いだと首を横に振る。

(いるはずがないいるはずがない、あいつがここにいるはずない!)

 バクバクと鳴る心臓を押さえ、息を整えてからもう一度覗き込む。

「武器を大量に買い込むと、戦の準備をしていると思われる……ということですか?」
「そうだ。そして各委員会への予算が高すぎると、それだけの金が学園にあると思われることになる」
「成る程。確かにお金がたくさんあると思われると、狙われやすくなりますよね」
「そういうことだ。何故低予算でなければならないか、もう分かったな?」
「はい! 今までの贅沢を戒める為、そして敵の目を欺く為ですね!」

 そこには誠八郎の予想通り、文次郎とカミュがいた。だが文次郎は泣いておらず、隣にいる六年と熱心に何かを話している。
 その六年生に、誠八郎の口から魂が抜けそうになる。

(見間違いじゃねえ! なんでいるんだよ浜仁ノ助!)

 普段は会計室にいる仁ノ助が、何故か飼育小屋の裏側にいる。そして珍しいことに、彼にしては饒舌に文次郎に何かを話している。
 羨ましいような悔しいような、微妙な気持ちに誠八郎は際悩まされる。この場合どちらか一方ではなく、どちらに対してだ。
 親しげに話す二人に、誠八郎は出るか出まいか迷った。今日は悪態をつくことが無かったが、もしかすると文次郎の前で悪癖が出るかもしれないという不安に襲われる。
 どうしようと思わず頭を抱えると、有り難うございましたと文次郎が元気よく礼を言うのが聞こえた。こっそり見れば、カミュを従え反対側から小屋の方に戻っていっている。

(俺も戻ろう……)

 仁ノ助は文次郎を見送っている為、誠八郎に背を向けていた。勿体ない気もしたが、余計なことを言ってこれ以上嫌われたくないのでそっと踵を返す。

「櫻坂誠八郎」

 それを止めるかのようにして、名を呼ばれた。思わず足を止め、考える間もなく「何だ」と返す。
 意を決して出れば、仁ノ助はこちらを見ていた。身体の奥底まで見られているような鋭い視線にクラリと目眩が起きる。

「今の一年生の名は、潮江文次郎であっているか」
「あっ、ああ。俺の可愛い後輩だ、手出すなよ」
「……泣き虫だと聞いていたが」
「噂通り、文次郎はかなりの泣き虫だ。ここにいるってことは見たんだろ?」

 逆に問い返せば、仁ノ助は口を閉ざした。視線をずらし小屋の壁を――文次郎がいるであろう場所を見る。

「あれを泣き虫と評した奴は、何も分かっていないな」
「……はあ?」
「あれの涙は強くなる為のものだ。涙を流した分だけ、あいつは強くなる」
「……お前何言ってんだ?」

 手放しとも言える称賛に、誠八郎は耳を疑った。仁ノ助は答えず、ポツリと小さな声で呟く。

「潮江文次郎、もう少し早く会えていれば、我が委員会に入れていたものを」

 その言葉に、今度こそ誠八郎は固まった。
 仁ノ助はそれ以上何も言わず踵を返した。何の為に来たのか理由を聞けないまま、黙ってその背中を見送る。

「どういう、意味だよ……」

 仁ノ助の言葉を脳裏で再生し、握り拳を作る。ジワリと滲み出てくる黒い感情が果たして誰に向けてなのか、誠八郎には分からなかった。


 仁ノ助の言葉が頭から離れず、その日の委員会活動は散々なものだった。何時もなら文次郎へ過剰なスキンシップをするというのに、一切文次郎に触れようとしなかった為、後輩達は何かあったのかと心配してきた。その中でも一番友成が心配してきたのだが、誠八郎はそれどことではなかった。
 今日はもう帰ってくださいと飼育小屋を追い出され自室に戻され、然し何もすることなくただ自室の天井を見上げていた。その代わりに、グルグルと脳内で仁ノ助の言葉が回っている。

(あいつは、文次郎の何に気付いたんだ……?)

 潮江文次郎は、何かに特化している訳でも無い普通の一年生である。彼の周りにいる子供達は『天才』と呼ばれてはいるが、文次郎の評価は『凡人』だ。
 それは誠八郎も思っていたことであった。確かにカミュという特別な存在に好かれてはいるものの、それは単に彼が保護したからであろう。もしも保護したのが誠八郎だったならば、あそこまで懐いているはずがない。

(あいつは、文次郎に何か才能があるのを見抜いたのか……?)

 だが仁ノ助は、その文次郎を委員会に入れたいと言った。
 地獄の会計委員会を立ち上げる際に今までいた委員を全員辞めさせたが、彼は誰かを選ぶということはしなかった。今いる会計委員は皆、自ら望んで委員会入りした者達である。
 その仁ノ助が入れたいと言った。今まで無頓着だった彼が、目に明らかな感情を乗せて欲しいと宣ったのだ。

(俺達の知らない、気付けない文次郎の才能を、あいつは……)

 ジワジワと滲み出る感情。嫉妬と分かるそれは、だが誰に向けているなのかは分からない。
 ギリッと唇を噛み締めた時、部屋の障子が開いた。

「櫻坂誠八郎、話しがある」
「……仁?」

 部屋に入って来た仁ノ助に、思わず誠八郎は昔のように愛称で呼んでしまった。仁ノ助はそれに何ら反応も示さず、障子を閉め誠八郎の前に座る。

「単刀直入に言おう、俺は潮江文次郎を我が委員会に入れたい。俺に譲ってくれまいか?」
「……えらく直球で急な話しだな」

 今まで悩んでいたことを直球で切り出したことに、誠八郎は思わず苦笑を浮かべた。仁ノ助は珍しく目を細め、饒舌に話し出す。

「委員会活動の時に、徳ヱ門と林蔵から文次郎について聞いた。あれが不正な評価を受けていることが、我慢ならなくなった」
「不正か? 俺はその通りだと思うぞ。潮江文次郎に忍びの才能はない」
「――俺は潮江文次郎こそが、俺の目指す忍びになれると思っている」

 三禁を守り、正心を志す男の言葉に、誠八郎は誰に嫉妬していたのか、この時漸く気付いた。
 深く息を吐き手で顔を覆う。

「仁ノ助、俺は文次郎を心から大切にしている。あれは俺の可愛い後輩だ、目に入れても痛くない寧ろ入れたい位だ」
「……知っている」
「だから教えてくれ、お前には文次郎はどんな風に映っている? 俺に文次郎を手放してもいいと思う程の理由があるのか?」

 それは、懇願にも似た問い掛けだった。文次郎を手放したくないという気持ちと、文次郎の才能を伸ばしたいという気持ちに挟まれた誠八郎が仁ノ助に向けた、助けを求める叫びでもあった。
 仁ノ助は目を落とし、自らの手を見つめる。

「櫻坂誠八郎、お前を説得出来る理由を俺は持っていない。これは俺の我が儘に過ぎないからだ」
「我が儘?」
「潮江文次郎は忍の原石だ。俺はそれをこの手で磨いてみたい」
「原、石……」
「そうだ。あいつの中には、誰にも劣らない才能が潜んでいる。俺はそれをこの手で開花してやりたい、いや、開花するのを間近で見て見たい――その欲望を、抑えることが出来なかった」

 握りしめては開く。それを繰り返していた仁ノ助はもう一度「譲ってほしい」と頼んだ。
 一体あの短い邂逅の中で彼に何が起きたのか、誠八郎には予想もつかない。だがこれ程までに仁ノ助を動かす何かが文次郎の中に眠っていることだけは分かった。
 ゆっくりと息を吐き、燻る感情も一緒に吐き出す。

「だから嫌いなんだよ、お前のそういうとこ。ふざけんなよ、俺の方が文次郎と長くいたのに、たった一回会っただけで見抜くなんて、ああムカつく」
「……」
「何が原石だ、何が才能だ。俺は、文次郎にそんな才能あるなんて思ってない、考えもしなかった」
「……」
「ああ、くそったれ。畜生……」

 拳を握り締め、顔を俯かせる。

「そこまで言われたら、手放すしかねえじゃねえか」

 吐き出した言葉に、仁ノ助は僅かに目を見開いた。誠八郎は顔を上げ睨みつけ、怒濤のように畳み掛ける。

「本当は手放したくねえ! 俺だって先輩なんだ、文次郎に才能があるならそれを伸ばしてやりてえよ! けどな、俺には分かんねえ、お前が見抜いたことが俺には分かんねえんだ! だったら、だったらお前に任すしかねえじゃねえか!」
「誠八郎……」
「何で見抜くんだよ、何で俺から文次郎奪うんだよ畜生! このバカ! バカ仁ノ助! お前なんか、お前なんか一生嫌われ役に徹していればいいんだバーカ!」

 勢いのまま悪態をつき、誠八郎は仁ノ助に背を向けた。溢れ出そうになる涙を堪え、「バカ仁」と呟く。

「文次郎に嫌われたらお前のせいだからな、見捨てられたとか言われたら俺生きていけない……」
「……」
「どう文次郎に言えばいいんだよ畜生、バカ仁ノ助……」

 グズグズと文句を垂らすが、誠八郎の中で文次郎を会計委員会に移籍させることは決まっていた。
 元よりこれは、負け戦だったのだ。誠八郎に仁ノ助の『我が儘』を跳ね退けること等無理なのだから。

(これが惚れた弱みなのかよ畜生。いや勿論文次郎の才能を潰したくないのもあるけど、我が儘だなんて言われたら断れるわけねえだろ……)

 六年間同室で、ずっと見てきた。滅多に、いや初めてかもしれない仁ノ助の『我が儘』に打ち勝つ方法を、誠八郎は知らない。
 うううっ、と耐え切れず涙を流していると、仁ノ助の手が肩に置かれた。すまない、と申し訳なさそうに囁かれる。

「すまない、誠八」

 誠八、と昔呼ばれていた愛称に、誠八郎の心臓が一気に跳ねた。途端現金にも引っ込む涙に呆れさえも浮かぶ。

「お前は文次郎を会計室に向かわせるだけでいい、理由は適当につけろ。……汚れ役は俺が背負う、お前は俺を非難しろ。そうすれば文次郎も、お前に見捨てられたと思わないだろう」
「どうする、つもりだよ」
「強制移籍させる。俺が無理矢理お前から文次郎を奪う、そう思わさせればいい」
「おっ、おまっ、本気かよ!? そしたらお前が……っ!」
「これは俺の我が儘だ。嫌われても仕方ない……覚悟の上だ」

 思わぬ言葉に振り向けば、仁ノ助は目に固い意志を浮かべていた。彼が地獄の会計委員会を発足させた時と同じ目を。
 それが誰の為になのか、考えなくても誠八郎は分かった。一気に顔に熱が集まり、畜生と叫ぶ。

「何だよ仁のバカバカバーカ! 何時も何時もお前は、お前は……っ!」

 ああ、これだから止まらないのだ。これだから、諦めきれない。

「お前なんか、大嫌いだーっ!」

 彼を想う気持ちが鎮まらないのだ。

20130216
prev 栞を挟む next
[目次 表紙 main TOP]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -