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悪夢からの逃亡



 潮江文次郎が工藤邸の家政夫になってからというものの、工藤新一は驚異的なスピードで回復を見せていた。未だ外の世界に出ることは出来ないが、文次郎という『他者』の存在を受け入れたのは彼にとても良い影響を与えている。
「新一、眠たいのか?」
「んー……」
 新一の一日はまず、文次郎の声で始まる。
 深い眠りの日もあれば浅い眠りの日もあるが、どちらであろうと文次郎の声は新一を現の世界へと誘う。耳に心地よい低音の声に含まれた広大な海の様に包み込む慈愛の包容力は、ゆり籠のようで。それを知る者は恐らく新一だけ。新一だけが聞くことのできる、文次郎の特別な声。
「新一」
『江戸川君』
 ――その特別な声に重なり聞こえてくるのは、誰の声だろうか。
 文次郎の声をかき消すそれは、新一を深い眠りに連れて行くもの。
『コナン君』
 一人の声ではない。二人、三人、それ以上。特定するのは難しい程に、様々な声が呼んでいる。
『江戸川』
 気持ち悪い。新一は振り払う様に首を振る。
 しかし雑音にしか聞こえない声は耳から離れていかない、そればかりかどんどんと近付いてくる。
『コナン』
 新一は知っている。この声が誘う先にあるものを。
 行きたくないと必死に抗うも、声は新一を捕え離さない。
『名探偵』
 そうして連れて行かされるのだ、深く暗い、裏切りしかない悪夢へと。
 文次郎、と力の限り叫ぼうとし。
 新一の意識は黒く塗りつぶされた。


▽△▽△▽△▽△▽△▽△



「――コナン君っ! もう朝よ、起きなさーい」
 聞きなれ過ぎた声が夢から覚めるよう促してくる。寝起きが悪い事に定評がある新一がハッとして目を開ければ、見慣れてはいたものの自室の天上ではないものが飛び込んできた。飛び起きるようにして身体を起こせば、これまた見慣れてはいるものの自室ではない部屋。
「コナン君、どうしたの?」
 ひょっこりと幼馴染の毛利蘭が扉から顔を出した。その目が遥か高く感じるところにあり、新一は気付いた。
 これは、夢であると。解毒剤を飲んでおらず、江戸川コナンとして毛利家で暮らしていた頃の。
「ううん、なんでもない。おはよう、蘭姉ちゃん」
 口が勝手に動く。このことにはもう驚かない。
 この夢を見るのは初めてではない。工藤新一に戻ってからというものの毎日のように見ていた、文次郎が来てからは見なくなっていたので気付くのが遅れたが。
 ああ、またこれを見なければならないのか。
 勝手に動きパジャマから服に着替える己の身体。行くなと訴えても止まることは無い。
 これは、単なる夢ではない。
 悪夢と言う名の過去だ。
 工藤新一の未来を目茶苦茶にした、希望を絶望に塗り替え奈落に落とされる己をあざ笑う悪夢なのだ。
 着替え終わった己の身体が部屋の扉へと向かう。ここを出ていくことは、地獄へ自ら落ちていくのと等しい。そうと分かっていても、ただ見ている事しか出来ない。
 小さな手がドアノブに触れ、扉を開ける。
 そして――新一、否、コナンの意識は黒く塗りつぶされた。



「――蘭ちゃん!」
「青子ちゃん?」
 場面が変わり、休日の昼。蘭と二人で買い物に行った帰りに昼食を食べようと店を探している時に、彼女は現れた。
 蘭によく似た容貌をしているが、彼女の方が幼く愛らしさを覗かしている。
 薄らと上気させた頬、蘭を見る欲を孕んだ瞳、あのねと話しかける声は甲高くどこか甘ったるい。
 全身で蘭を好きだと訴える彼女に、コナンは一種の不安を覚えた。
 彼女は一体誰なのだろう、どうして蘭をそんな目でみるのだろう。
「蘭姉ちゃん……」
 怖い、そう思った。凶器を持つ犯人を前にしても微動だにしないコナンが、犯罪者でもなんでもないただの少女に恐怖を覚えたのだ。
 キュッと蘭の手を握る。彼女が離れて行かない様に、少女の方を見ない様に強く、強く。
「あっ、コナン君は初めてだったよね?」
 幼馴染の目がこちらを向く。それでも晴れない不安は胸の中に巣くっていく。
「こちらは中森青子ちゃん。私の友達よ」
「青子です! 宜しくね、コナン君?」
「……うん、よろしく。青子姉ちゃん」
 怖い、怖い、怖い。彼女が怖い。
 ――蘭が取られそうで、怖い。
 蘭の目が再び青子を見る。その目の色に、意識は黒く塗りつぶされた。



「――あっ、青子ちゃん? あのね、今度の休みなんだけど……」
 いつの間にか毛利事務所に帰ってきていた。ソファーに座り携帯で話す蘭の隣で、コナンは不安そうに見上げている。
 どうして彼女は、毎日のように青子と言う少女と電話をしているのだろう。
 どうして彼女は、工藤新一からの電話を遠ざけるようになったのだろう。
 いつの間にか日課になっていた彼女への電話が、何時もなら嬉しそうにとられるそれが、昨日は用があるからと直ぐに切られた。何時もなら気に留めないそれ。しかしその用が青子との電話だと知り、コナンの不安はより一層大きくなった。
「蘭姉ちゃん……」
「なあに? コナン君」
 電話が終わり少し寂しそうな蘭。工藤新一との電話が終わった後見せていたその表情を、最近は青子との電話が終わった後に見せるようになった。
「どうして、新一兄ちゃんの……」
「新一? 新一がどうかしたの?」
「……ううん、なんでもない」
 どうして、どうして、どうして。
 そんな疑問をコナンが聞ける訳もなく。無理やり言葉を飲み込んだ衝撃に、意識が黒く塗りつぶされた。



「確かにあなたの場合、『江戸川コナン』の存在の方が強くなっている気がするわね」
 幼馴染が消え、相棒が隣にいる。気付けばランドセルを背負った帰り道。前の方で少年探偵団の三人が騒いでいる。
 一体どんな話をしていたのだろうか。どうして哀はこんなことをいうのだろうか。固まるコナンの方を見ず、哀は淡々と言葉を続ける。
「『江戸川コナン』として生きれば生きる程、『工藤新一』という存在は薄れていく。もしもこのまま時が過ぎれば、『工藤新一』は完全に過去の人間となるでしょうね、……『宮野志保』もまた、同じように」
「おれ、は……」
「それでもいいんじゃない? 『工藤新一』を捨てて『江戸川コナン』として再出発するのも、一つの選択よ」
 足が、止まった。
 哀の言葉がぐるぐると回る――どうして彼女は、『工藤新一』の存在を否定するのだろうか。
 否、否定はしていない。だがコナンにとってそれは否定と同意義だった。
 コナンが必死に頑張っているのは、黒の組織と戦う第一の理由は元の身体に戻るためだ。誰のためにでもない、幼馴染の毛利蘭の為に、彼女の隣に戻る為に。
 それなのに、彼女はその理由を捨てろと言うのだろうか。今までのコナンの全てを、否定しろと言っているのだろうか。
 頭が痛い。気持ち悪い。吐き気もする。
 足を止めたコナンを、哀が振り返る。目が合った瞬間、意識が黒く塗りつぶされた。



『別にええんちゃう? ちっこいままでも工藤は工藤やし』
 いつの間にか耳に当てていた電話から、コテコテの関西弁が聞こえてきた。誰もいない毛利事務所で一人コナンは窓から外を眺めている。
『元の姿に戻れんでも、お前はオレのライバルや!』
 カラカラと笑う服部平次の声に、だがコナンの中の疑問は膨れ上がる。
 どうして彼は、絶対に元に戻れと言ってくれないのだろう。
 どうして彼も、『江戸川コナン』のままでもいいと言うのだろう。
『工藤新一』はどうでもいいのだろうか。かつて世間を賑わせた高校生探偵がこの世から永久に消えても構いはしないのだろうか。
 否、彼にとっての工藤は『江戸川コナン』のことを指しているのかもしれない。
 何故なら彼は工藤新一の姿よりも、江戸川コナンの姿でより多く関わっているのだから。
 そもそもこの姿でもライバル同士でいれると彼は思っているのだろうか。
 少年探偵団にとって服部は、コナンの師匠だ。
 蘭も服部の幼馴染である遠山和葉も、蘭の父親である毛利小五郎も、仲のいい兄弟の様にしか見ていない。
 『江戸川コナン』では服部平次と対等に接することが出来ないことに、彼は気付いていないのか。
 電話の向こうで名前を呼ばれる。それに答えようとして、意識が黒く塗りつぶされた。



「コナン君、あのね、私青子ちゃんと付き合うことになったの!」
 ほんのりと顔を赤らめて嬉しそうに言う幼馴染が目の前にいる。
 告げられた言葉に絶望しか感じないが、だが江戸川コナンはただ「おめでとう!」としかいうことが出来ない。
「有り難う、コナン君」
 ああ、なんて幸せそうな表情なのだろうか。
 何時も泣かせてばかりの己と違い、中森青子という少女は離れていても蘭を笑顔にできるのか。
 偽りの姿で傍に居ても、涙を流させる己とは違って。
「でも、蘭姉ちゃん、新一兄ちゃんは? 新一兄ちゃんは、どうするの?」
「新一には電話でちゃんと言うつもり。前の告白の返事になっちゃうけど……きっと新一なら、分かってくれると思うから」
 そんなことない、工藤新一は嫉妬深く執着心が強い生き物だ。
 今だってこんなにも胸が張り裂けそうに痛い。涙を流し彼女が離れて行かないよう強く抱きしめたい位怒りを覚えている。
 どうして、少女を選んだのだ。
 どうして、こんなにも簡単に心移りが出来るのか。
 あんなにも、想っていてくれていたではないか。まだ想いを告げる前、勝手な勘違いから暴走したことだってあったではないか。
 どうして、どうして。
「ボクもそう思うよ、新一兄ちゃんは蘭姉ちゃんの幸せが一番だから!」
 どうして、今の己は工藤新一ではなく江戸川コナンなのだろう。
 意識が黒く塗りつぶされていく。



「どうして貴方は、『工藤新一』なのでしょうか」
 空は黒く染まり、大きな満月が照らしている。風になびく白いマントに、顔を隠すモノクル。白いシルクハットに白いスーツは、怪盗キッドの戦闘服。
 いつの間にか怪盗と対峙していたコナンは、言われた言葉に目を見開いた。
「貴方が本当に『江戸川コナン』だったら良かったのに。そうしたらきっと……」
 そこで言葉を切った怪盗は、隠れていない方の目にコナンを映す。
「『工藤新一』に戻らなければいい、このまま『江戸川コナン』として生きろよ」
 ――初めての断言だった。初めて、本当の意味で『工藤新一』の存在が否定された。
 その衝撃はあまりに強く、コナンは胸を抑え唇を噛み締める。
 どうして怪盗は、真実を否定するのだろうか。
 同じ偽りの姿で生きる同士、その辛さも分かっているはずなのに。
 どうして。どうして。
 今まで怪盗との対決は、工藤新一として挑んできたつもりだった。怪盗の現場だけだった、表だって自分自身の力が認められてもいいのは。事件現場は何時も誰かを隠れ蓑にした、確かに大人が周りに居ない時は推理を披露するが、何時だって少し頭の切れる子どもでいなければならなかった。怪盗の現場でのみ、彼に対抗できる存在と認められる。
怪盗だけが、江戸川コナンを工藤新一探偵として行動させてくれていたのに。
「『工藤新一』なんか、俺のものにならないお前なんかいらない!」
 どうして、どうして。
 どうして誰も、『工藤新一』を必要としてくれないのだろう。
 滲んだ視界に、意識が黒く塗りつぶされる。



『私、もう新一なんか待たない!』
 雨が降る中、空の涙に全身ずぶ濡れになりながら、幼馴染に拒絶された。
 スマホを握り締める手が震えている。蝶ネクタイがポタリと地面に落ちた。下は水溜りで、ピチャンと音が響く。
『新一なんか、新一なんか、帰ってこなくていいんだから!』
 プツリと切れる電話。ピーピーと通話終了を知らせる音に、コナンはだらしなく腕を下ろす。
 どうして、どうして、どうして。
 誰もが教えてくれない答え。見つけることが出来ない真実。
 どうして、どうして、どうして。
 誰もが遠まわしに言う答え。初めて見つけたくないと思った真実。
 どうして、どうして、どうして。
 ――『工藤新一』は、必要ないから。
 ――『江戸川コナン』が、必要だから。
 意識が黒く塗りつぶされる。



「――これが、私からの最後の願いよ」
 燃え盛る炎に周りが包まれる。急速に失われていく酸素と、肌を刺すような熱に息が荒くなる。このままいれば間違いなく炎に飲み込まれることになるだろう、しかし足はこの場から動かない。
「その代わりに、この薬を貴方にあげる」
 同じように炎の壁に閉じ込められているのに、目の前の女の、ベルモットの顔に汗は浮かんでいない。心の底から嬉しそうに幸せそうに笑い、コナンに向けて手を差し出す。
 その中にあるのは、コナンの身体を蝕む毒の解毒剤。とうとう相棒でさえ完成させることのできなかった、この世でたった一つの薬。
 これを飲めば、元の姿に戻れるだろう。
 然し、工藤新一に帰る場所などない。誰も待っていないあの日常は、最早コナンにとっても無意味なもの。『工藤新一』を望まない者達など、『江戸川コナン』に必要ない。
「私は『工藤新一』を望むわ、それじゃダメかしら?」
 『工藤新一』を唯一愛する『江戸川コナン』の耳に、悪魔の囁きが呟かれる。
 ベルモットは『工藤新一』を望んでいる。誰もが見捨てた過去の探偵に断罪されることを、敵でありながら味方であった彼女は望んでいるのだ。
 それにゾワリと身体が歓喜に震え上がる。ベルモットは今己を見ているという真実が、何よりも愛しく感じてならない。
「さあ、この薬を受け取って頂戴」
 促されるままに、薬を受け取る。
 己を求めてくれるベルモットの願いを、ただ叶えてあげたい一心で。
「それを飲んで、私の胸に打ち込んで――シルバーブレッドを!」
 炎の勢いが増す。
 視界が赤く塗りつぶされた。



「工藤! 出てこんか工藤!」
「新一! お願い、話を聞いて!」
「工藤君、気付かなくてごめんなさい!」
「名探偵、どうか誤解を解かさせてください!」
 様々な声が聞こえてくる。膝に埋めていた顔を上げればそこは自室だった。己の身体を見れば元の姿に戻っている――前と同じ健康体とは言えないが。
 ドンドンとならされる扉に身体を抱きしめて縮こまる。今の新一にとって外は脅威に他らない。
 黒の組織壊滅後、工藤新一は江戸川コナンのカモフラージュとして表に出されることになった。これ以外にも様々な思惑があるのだが、新一にとっての理由はこれだけで十分だ。
 居場所を失った工藤新一とは違い、江戸川コナンは大勢に望まれている。もしも江戸川コナンの存在が明らかになれば、その大勢が危険に見舞われることになる。そんなことになるくらいなら、独りぼっちになった工藤新一の方が都合いい。
 全ての声を遮断するように耳を塞ぐ。
 彼らの声は工藤新一を断罪する声だ。江戸川コナンを殺した己を、彼らは憎んでいるのだから。
「新一」
 ふと、柔らかな低音に名前を呼ばれた。塞いでいるにも関わらず耳に届いた声に、新一は伏せていた顔を上げる。
「新一」
 激しくたたかれていた扉は、静けさを取り戻していた。声はその扉の向こう側から聞こえてくる。
「新一」
 一体この声は、誰の声だろう。立ち上がり、ドアに手を触れる。もっと声を聞きたいと耳を押し付ける。
「新一」
 スッと、扉が消えた。差し延ばされた手が目の前に現れる。
 見覚えのあるそれに、新一は安心した表情を浮かべた――名前を呼んでいたのは、彼だ。
「新一」
 やっと、現実からの迎えが来た。新一はその手に飛びつき――明るい世界に飛び込んだ。



▽△▽△▽△▽△▽△▽△


「新一!」
 鋭く名前を呼ばれ、新一は飛び起きた。なんだと文次郎を見れば、ホッと安堵の息を吐かれる。
「大丈夫か?」
「何が?」
「うなされていたぞ、悪夢でも見ていたのか?」
 隣に座った文次郎に頭を撫でられる。新一は目を細めそれを受け入れようとし、ふとここが自室でないことに気付いた。
 昼間文次郎と過ごすリビングのソファー。見える時計の針は三時を指している。
「……オレ、寝ていたのか」
「二時間ちょっとな」
 覚醒した頭が状況を整理し、新一はソファーで転寝をしてそのまま眠りの世界に入っていったことに気付いた。来ている服が汗を吸い込みびっしょりしている。その気持ち悪さに顔をしかめると、文次郎は苦笑して立ち上がった。
「汗でも流して来い、着替えは用意してやるから」
「待って、後で入るから!」
 離れて行こうとする文次郎を慌てて引き止める。今は一人になりたくなかった。
「新一?」
 不思議そうに呼ぶ声に、新一は目を閉じ文次郎の腰に腕を回す。顔をすり寄せれば柔軟剤の匂いがした。ほんの少しだけ汗臭い。
 文次郎は何かを察したのか黙って新一の好きなようにさせてくれた。頭を撫でる感触に落ち着くようになったのは、何時頃だったろうか。
「文次郎」
「なんだ?」
 呼びかければ答えてくれる声。このやり取りに安心するようになったのも、何時頃だったろうか。
「俺、裏切られたって思ったんだ」
 何時頃でもいい。この胸に巣くう不安が取り除けられるなら、何だっていい。
「そういう意味で言ったんじゃないって、冷静になれば分かるのに、俺を気遣う言葉だって受け取ればよかったのに、あの時の俺には否定しているようにしか聞こえなかった」
 江戸川コナンとして生活していたあの頃、毛利蘭は宝物であり日常の象徴だった。それは依存にも似た激しい執着心を伴うもので、そんな彼女が己から離れていきかけていることが苦痛でならなかった――『工藤新一』が見捨てられた感覚に、陥っていたのだ。
 それを自覚していなかったコナンは哀や服部に蘭の事を相談し、あの言葉をかけられた。
 二人も蘭の心が新一から離れていっていることに気付いていたのだろう、そしてそれにコナンが落ち込んでいることも。二人はコナンが元に戻りたい一番の理由に蘭の存在があることを知っていたからこそ、その理由が無くなりかけていることに動揺している、そう勘違いしたのだ。
 コナンはただ、『工藤新一』が必要とされたかった。しかし、二人はそうと気付かなかった。そのすれ違いが、コナンの、新一の心を大きく抉った。
 蘭もそうだった。最後に交わした電話は、タイミング悪くキッドに拒絶された後にかかってきた為、感情に任せて口論になってしまったのだ。本当はあそこまで言うつもりは無かったのだろう、怒りに任せての言葉だったのだろう。それでも、蘭からの拒絶に新一の心は砕け散った。
「ボロボロになった俺に、ベルモットの言葉は救いの様に聞こえた」
「ベルモット?」
「俺が殺した、死なせたくなかった女。組織の一員で、被害者でもあった奴だ」
 黒の組織のアジトに乗り込み、ボスと対峙して勝利しFBIにその身柄を渡し、闘いに幕を下ろそうとした時にベルモットは姿を現した――時限爆弾という恋人を連れて。
 爆発していくアジト。逃げ惑う共に戦った者達。コナンは彼らの為に道を割り出し必死に外へと逃がし、気付いた時には炎に周りを囲まれながらベルモットと二人きりになっていた。
 恐らく彼女は最初からそのつもりだったのだろう、コナンを見て彼女は鮮やかに笑ったのだから。
 そして、持ちかけてきたのだ――自分を殺してくれと。
 ベルモットは組織の被害者でもあった。そんな彼女の特殊な事情が世間に公表されれば、この悪夢は再び別の愚かな者の手によって繰り返されてしまうからと。
 それはコナンにも言える事だった。コナンだけでなく、他にもいる悪魔の薬の被害者も、その存在を表に出してはいけない。ただコナン達は所謂勝者側であり、ベルモットは敗者側であるという決定的な違いがあった。
 捕まれば最後。どれだけ真実を隠しても、何時の日か誰かが必ずそれを暴いてしまう。
 それならばいっそのこと、ベルモットとして死のうと、自ら証拠隠滅をすると彼女は言ったのだ。
 当然コナンは断ろうとし――今までの己を振り返って言葉が出なかった。
 ここに来るまでにコナンは数人の命を自ら奪った。あれだけ殺しはしないと豪語していた己が、あっさりと殺しをしてしまったのだ。
 今更理想を貫いてどうなる、そう悪魔が心の中で囁いた。
 その囁きに便乗するようにして、彼女は言ったのだ。何よりも望む言葉をいとも簡単に。それでコナンは堕ちた。あの瞬間、コナンと新一はベルモットを愛したのだ。
 探偵としてのプライドを捨ててもいい程に、この先汚名を被ってもいい程に。ただ、彼女の望みを叶えてあげられずにまた裏切られるのが怖かった。
「ベルモットの薬で元の姿に戻った俺は、あいつの望み通り銃の引き金を引いた。最後にあいつは『有り難う』と笑った」
「……」
「今まで見た中で、あの時の笑顔程美しかったものは無かった。美しいままベルモットは炎の中に消えて行って、俺も後を追おうとして――助けに来た赤井さんに、連れ戻された」
 どうして死なせてくれないのだ、と元の姿に戻ったコナンは、新一は叫んだ。
 工藤新一を必要としてくれたベルモットはもういない。彼女と共に死ぬことが幸せで、何よりも望むことだった。
「そして俺は病院に搬送され、『江戸川コナン』のカモフラージュとして『工藤新一』を表に出すことを認めた。父さん達には反対されたけど、あの時の俺はそうすることで誰かが殺しに来てくれるんじゃないかって、期待していたんだ」
 だが誰も新一を殺しに来てはくれなかった。そして日本に戻されこの家に帰って来た新一は、殺してくれる人などいないことに気付いた。
 そうすると、次は裏切られる恐怖を覚えるようになった。入れ替わりでやって来る江戸川コナンの知り合いたちが元に戻った己を、『工藤新一』を責め立てている様に思えて、拒絶反応を起こした。
 そして新一は家に引きこもるようになった。父の知り合いだと言う医者が定期的にやって来るものの、新一の徹底的な拒絶に全員長続きしなかった。
(だけど、文次郎が来てくれた)
 そんな中現れたのは、医者でもなくカウンセラーでもない、家政夫の文次郎だった。
 文次郎は今までの医者とは違い、新一に外に出るよう強制しなかった。ただそこにいて、新一が出てくるのを静かに待っていた。
 元来好奇心旺盛な新一が文次郎に興味を持つのは早かった。好奇心を満たそうと、どうせ長続きしないと高をくくって接触を図り――転がるようにして文次郎に堕ちていった。
(こいつが悪い。こいつが、こんなにも安心できるのが悪いんだ)
 策士、策に溺れるとはこういうことを言うのだろう。
 想像もしていなかった彼の包容力の心地よさは底なし沼の様で、新一は自らそれに飛び込んで行ったもののようだ。
 正直文次郎の、浮気を繰り返す癖をして独占欲の強い恋人の気持ちは分かる気がする。否、浮気をする気持ちは全く理解できないししたくもないが、彼を独占したいという気持ちは新一にもある。
(あー、なんか俺、依存体質だったのかも。最初は蘭に、次はベルモット、今は文次郎)
 顔を押し付けたままフフッと笑う。それに気づいた文次郎が頭を撫でていた手を止め、どうしたと問いかけてきた。
「いや、俺は文次郎に殺されたようなものだなって思えてさ」
「……ああ、確かにお前の命は俺が握っているようなものだ」
「なら文次郎は、俺がずっと待っていた人ってことだな」
「こんな熊みたいな男で期待外れだったろ?」
「期待以上にいい男だよ、お前は。惚れそうだ」
「止めてくれ、俺は同時に二人を愛せる程器用じゃないんだ」
「じゃあ俺を愛せよ」
「愛しているさ、じゃねぇと家政夫なんざやってねぇよ」
 簡単にくれる愛の言葉。しかしそこに色欲は一切含まれていない。
 こういった所が恐ろしいと思う。彼は不純なものが含まれていなければ、いとも簡単に言葉に出し行動で示すことが出来るのだ。今までよく勘違いする者がいなかったと感心さえする。
「俺も好きだー」
「はいはい。俺の事が好きならさっさと汗流して来い」
 グリグリと顔を押し付けると、やんわりと引きはがされる。それに顔を膨らませれば、両手で挟まれポシュンと潰される。
「レモンパイ、食べたいだろ?」
「えっ、作ったのか!?」
「おう、三時のおやつにしようぜ」
「する! 待ってろ、直ぐ浴びてくるから!」
 文次郎の作る物は何でも美味しい。最初の感動が今も尚残るスープ類は格別だが、最近の新一のお気に入りは俺の作るお菓子類だ。中でも好物のレポンパイは今まで食べた中で一番美味しいと断言出来るほど、新一の味覚にあっているので堪らない。
 これは急いで汗を流してこなければならない。新一はソファーから飛び降り浴室へと急いだ。後ろから「あんま急ぐなよ」と声をかけれるが答えはノー。今の新一の頭の中はレモンパイ一色だ。
「……あれ?」
 汗を含んだ服を洗濯機の中に放り投げる。
 最近洗面所には毎日異なる種類の一輪の花が飾られており、本日は赤チューリップだ。可愛らしいそれを指で突いてから浴室に入ろうとし、ふと気付く。
 自分がどんな夢を見ていたのかすっかり忘れてしまっていることに。
「……まっ、いいか」
 悪夢だった気はするのだが、内容はもううろ覚え。だが大丈夫だろう、文次郎がいればどんな悪夢を見てもまたここに連れてきてくれるのだから。
「新一、髪もしっかり洗って来いよ」
「はーい」
 それよりも今はレモンパイだ。






 浴室に飛んで行った新一の背中を見送り、文次郎は深く息を吐いた。頭をガシガシと掻き、参ったなと呟く。
「ベルモットの死の真相をここで聞くことになるとは……」
 新一が悪夢を見たのは今日が初めてではない。彼は忘れている様だが、昨日も昼寝をして悪夢に魘されていた。
 悪夢に魘される彼は決まって、最後に涙を流す。それが現実世界に戻せという合図。そうして起こせば、彼は決まって悪夢の内容について話すのだ。
 その話は毎回変わり、最初の頃はひたすら責め立てるものだったが、何時しか冷静に分析するものになっていた。話の内容に出てくる者も毎回変わり、一番多いのが幼馴染の毛利蘭、次点で隣人の灰原哀と西の高校生探偵服部平次。警察やFBI、少年探偵団、工藤夫妻、同級生などの話もあった。
 今回は彼が殺したと言うベルモットについて。彼女については工藤夫妻から聞いていた――工藤新一が彼女の死に何らかの関わりを持っているが、真相が判明していないと。誰も新一に聞くことが出来なかったのだと説明された。何時か話すと思うから、判明したら教えてほしいとも頼まれた。
 だが、己が他人に告げ口していい内容ではない。これは新一が自ら話すのを待った方がいいだろう。
 最近新一は悪夢を見たことさえ忘れるので、己が口を噤んでいればいいだけの話だ。
「……しかし、今回も出なかったな、例の『怪盗』の話」
 文次郎は哀からある程度新一の引きこもりの原因となった人たちの話を聞いていた。その中に怪盗キッドの存在もあり、最初は驚いた。ただ、彼はどう関係しているかは哀にも分からない。新一がひきこもるようになってから、度々家の近くで白い鳥の姿を見かけるからもしかしたら、と思ったらしい。因みにこの時に、己が家政夫としていく前から定期的に医者やカウンセラーが来ていたことを聞かされた。どうりで他人である己なら大丈夫だと断言した訳である。
 文次郎は始めそこまで怪盗の存在を重要視していなかった。だが、新一が「怪盗が初めて工藤新一の存在をハッキリ否定した」と言ったことで、考えを改めた。
 ――恐らくこの引きこもりの原因は、毛利蘭と怪盗キッドにある。
 毛利蘭は言わずもがな。怪盗は彼にとって本当の意味での裏切りだったのだろう。
 だが、文次郎は新一が考えている様に怪盗が彼を嫌っているとは思えない。そう思わせるだけの事を、怪盗は毎日見せている。
「……今日もしっかり届いていたしなぁ」
 毎朝工藤邸のポストに入っている一輪の花。添えられているのは白いカード。描かれているのはキッドのマークに、三つの×印。
 本日の花は赤チューリップだった。その他にも白バラ、赤バラ、ブーケンビリア、ブルースター、その他諸々。沢山の種類の花が届けられたが、共通点は花言葉の意味。
 送られてくる花の秘められた言葉は、『愛』もしくは『謝罪』に関するものだった。因みにチューリップの全体の花言葉は『思いやり』だが、赤色になると『愛の告白』になる。西洋では『真実の愛』『私を信じて』などの意味で知られていると聞く。
 余りにも花が毎日のように届けられるので試しに調べてみた文次郎は、この共通点に気付き愕然とした。意味はないのかもしれないが、もし意味があるとしたら、何やらものすごく面倒な勘違いと擦れ違いが起きている気がしてならない。
 考えるだけで恐ろしくなるので、文次郎はこれを黙っていることにした。ただ花に罪はないので最初は玄関に飾っていたが、当の本人が玄関に近寄らないので洗面所に飾ることにした。リビングやキッチンには彼の両親から届けられる花が飾られている。因みにメッセージカードは空の缶ケースに丁重に仕舞っている。
 恐らく、今の新一に怪盗の事を考える余裕はない。怪盗には申し訳ないが、新一に余裕ができるまで待っていてもらうことにする。
「文次郎、レモンパイ!」
「その前に髪を乾かさんかバカタレィ!」
 ――否、この分だとあまり待たせなくてもいいかもしれない。
 適当に拭いてバスタオル一枚という殆ど真っ裸に近い状態で出てきた新一を見て、文次郎は深く息を吐いた。


2015/02/12 pixiv
2015/02/25 加筆修正
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