家政夫になるまで
プロローグ


「文次郎君、君に紹介したい仕事があるんだよ」
 東都大学心理学部。潮江文次郎はそこに三年生であり、所属するゼミの大岳信之教授のお気に入りだった。四十代の大岳教授は顔立ちが整っているため大変女性受けが良く、教授の中でも発言力を持つと噂されている心理学部の長とも言える存在。その長に可愛がられる文次郎は一部からやっかみを受けているが、良くしてくれる大岳教授に恩を感じよく懐いていたため、そういった目を気にすることなく頻繁に研究室を訪れていた。それは夏休みに入っても変わらず、本日に至っては教授の方からのお呼び出し。
 またボランティアの話だろうかと思い出向いた文次郎は、想像していなかったそれに不思議そうに首を傾げた。
「仕事、ですか?」
「まあアルバイトみたいなものかな。私の友人が家政夫を探していてね」
「はあ……」
「確か自炊していただろう? 掃除も見ての通り得意だし」
 室内を見渡ながら大岳が頷く。確かに去年までこの部屋は資料や本で乱雑していた。それを全て片づけたのが文次郎であり、それ以降も掃除をしては綺麗さを保っている。
 だが、文次郎は眉間に皺を寄せた。尊敬する教授の好意を無駄にしないよう慎重に言葉を選ぶ。
「確かに自炊はしていますが味の保証はありませんし、家政夫という仕事ができる程掃除が出来る訳では……」
「大丈夫、文次郎君なら出来るさ。今日早速会ってもらいたくてね、夜七時に米花センタービル前に来てくれるかい? そこの展望レストランで食事をする約束なんだ」
 どうやら拒否権はないらしい。有無を言わさないそれに文次郎は判りましたと肩を落とした。
  


 潮江文次郎は大学一年生の間は実家から離れ兄と二人暮らししており、その兄が社会人になり引っ越していき念願の一人暮らしになるかと思いきや、代わりに別の人物が転がり込んできた為今も二人暮らしをしている。家賃は文次郎しかバイトをしていない為当然のように文次郎持ち。実家からの仕送りはあるにはあるが、同居人の金使いが荒いため節約を心がけている。
 しかし、二年生のクリスマスを境に、文次郎の暮らしは一変した。

「ただいまー」
 誰もいない部屋の戸を開け、靴をそろえてから中に入る。同居人も同じ男なのだがやけに可愛らしい小物が目立つリビングを素通りし自室に入れば、シンプルに統一された味気ない空間が広がった。ホッと一息をついてから、スーツに着替える。直接言われていないが面接を行うはずなので、正装していかなければ教授の顔に泥を塗ることになる。
「あー……、車で行って大丈夫か聞いてなかった。酒飲むかな……一応徒歩で行くか」
 立ち姿鏡で全身を確認する。目の下に鎮座する墨より黒い隈がどのような印象をもたれるかが不安だが、今更隠しようも取りようもない。鏡の中の己の不機嫌そうな顔と睨めっこをしていると、玄関の方から「ただいまー」という声が響いてきた。
 久しぶりに聞くそれに、文次郎は数回瞬きをした後自室から出る。
「留三郎、なんだ、こっちに来たのか」
「なんだよその言い方、帰ってきちゃ悪いか」
 リビングに行けば、やけに疲れた顔をした同居人――食満留三郎が入ってきた。鞄を放り出しソファーにずっしりと座り、深く息を吐いている。
 留三郎とは腐れ縁で幼稚園からの付き合いである。彼の他にももう四人ほど腐れ縁がいるが、文次郎との縁が一番濃いのはこの男だろう。
「今日も帰ってこないと思っていただけだ」
「恋人に対して出迎える言葉がそれかよ」
 ――留三郎は、中学時代から続く恋仲なのだから。
 始まりは留三郎の方からだった。全くその気の無い文次郎を、周囲を巻き込んで交際させるに至った。同居も「恋人同士で同棲は当然だろ!」という本人の野望のため。初めから考えていたと後になって聞いた時文次郎は頭を抱えたものだった。
 その同棲を考えるまでに惚れぬいている恋人からの冷たい言葉に留三郎は膨れっ面になる。だが文次郎は「本当の事だろう」と言って取り合わない。
「彼女はどうした。あんまりこっちに帰ってくると、寂しがるんじゃないのか?」
 留三郎は眉を顰め唸り、だが何も否定しなかった。
 留三郎は文次郎に心底惚れぬいている。だが同時に、厄介な悪癖を抱えているのも事実だった。
 その悪癖とは、所謂浮気。
 留三郎は文次郎の他にもう一人、恋人と呼べる女が存在する。
「今あいつは関係ねぇだろ」
「関係あるに決まっているだろ。ここは俺の家だってのに、お前がほいほい連れ込むからいつの間にか彼女の私物で溢れ返っているじゃねぇか」
 ほらこれなんか、と文次郎が指差したのか可愛らしいビーズクッション。文次郎にも留三郎にも乙女趣味はないため、彼女が持ち込んだ物だと一目でわかる。クッションだけでなく、その他細々したものや食器類、日常品、挙句の果てには彼女の予備の服までこの家には常備されている。二人暮らしではなく三人暮らしになりかけているが、留三郎とその彼女は滅多にこの家に来ないので実質文次郎の一人暮らしだ。
 実質一人暮らししているというのに、恋人の浮気相手の私物で溢れ返っている家というのは、何とも複雑な感情にさせるものである。
「何時でもいいから持って帰らせろよ。いっそのことお前が彼女の家に移り住めばいい」
「だーかーらー、俺の恋人は文次郎だけだっての! あいつは単なるカモフラージュ!」
 かなり本気で言った言葉に、留三郎はふざけんなと声を荒げる。
 留三郎曰く、浮気は男同士で付き合う上のカモフラージュに過ぎない。本気で好きなのは文次郎だけだが、世間の目を考えてわざと女の子と付き合っているらしい。
 そのカモフラージュの相手の家に殆ど住み着き、彼女を恋人の家に連れ込み、挙句の果てには体の関係を持つのが言い訳になるのかと言おうとし、文次郎は言葉を飲み込んだ。
 この男にもうどんな言葉も通じないことは、高校の時に思い知っている。
「……今日は俺も出かけるから、夜は適当に食えよ」
 代わりに事務的なことを告げれば、留三郎は文次郎がスーツを着ていることに初めて気付いたのか目を見開いた。
「どっか行くのか?」
「アルバイトをすることになったんだ。今夜はその面接」
 淡々と事情を説明すれば、留三郎は眉をひそめた。文次郎が大学に入った当初からアルバイトを掛け持ちしていたことに難色を示していたので、今回も内心反対なのだろう。本人曰く一緒にいる時間が減るからと言っているが、文次郎のバイトは基本夜間である。更に同居するようになってアルバイトを減らしたにも関わらず、一緒にいる時間はそれまで以上に減っていることに気付いているのだろうか。
 気付いていて難色を示していたら、それはそれで殴りたいが。
「変なのじゃねぇだろうな」
「家政夫だとよ」
「家政夫? お前がぁ?」
 すっとんだ声に、文次郎も内心同意した。
 熊みたいだと形容詞される己が家政夫だなんて、世も末である。
「大岳教授の紹介だからな、無下に出来ねぇだろ」
「俺お前の教授嫌い。絶対気あるだろ」
「……一回り違うおっさんに何言ってんだ」
「押し倒されたら全力で抵抗しろよ。お前を抱いていいのは俺だけなんだから」
「はいはい。そういうお前は女の子を抱いているけどな」
「お前が一番だ!」
 いい加減聞き飽きた言い訳の台詞を聞き流し、文次郎は玄関に向かう。距離はあるが、今から出れば十分間に合うので歩きでいい。タクシーは最終手段に取っておく。
「戸締りはちゃんとしろよ」
「わーってる! お前は俺のお袋か!」
 お前に捨てられる寸前の恋人だよ、と返そうとし、寸での所で飲み込む。
「じゃあな」
「あっ、ちょっと待て」
 玄関から出ようとすると、留三郎が慌てて近寄ってくる。何を考えているのか分かった文次郎は黙って目を閉じた。暗くなる視界の中で唇に触れてくる久々の感触。触れるだけで終わったそれは首筋に下り、強く吸いついてきた。文次郎は目を開け、抗議の目を向ける。
「付けんなバカタレ」
「虫よけ。襟で隠せる場所だからいいだろ?」
 そう言った問題ではない。だが抗議すれば口論に発展する事が目に見えていたため、睨み付けるだけに留める。
「いってくる」
「おう、いってらっしゃい」
 久しぶりに言葉が返ってきた。しかし、帰ってきた時の挨拶に対する返事はないだろう。文次郎はしっかりと見た。家に誰もいないと分かった瞬間、留三郎が彼女に連絡を取りだしたのを。
「……さっさと別れたいって言えば済む話なのにな……」
 己か相手にか、どちらにでも取れる言葉を呟き、文次郎は一つ息を吐いてからホテルへと向かった。


2015/02/06 pixiv
2015/02/19 加筆修正
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