家政夫になるまで
サッカーボールのメッセージ


 工藤邸に通う様になって早三日。すっかり家政夫が身に着いた文次郎は今日も朝から元気よく、工藤邸の掃除に勤しんでいた。
「おはよう、文次郎さん」
「おはよう、哀」
 門の外を掃いていると、ランドセルを背負った哀が挨拶をしてきた。こうして見れば小学生に見えるのにもと思いつつも返事を返せば、そのまま通り過ぎることなく足を止めた。どうやら文次郎と話をしていくつもりらしい。
「毎日ご苦労様。お陰で見違えたわ、『お化け屋敷』が立派なお屋敷になって」
 哀の視線が工藤邸の庭に向く。雑草で覆い繁っていた庭は文次郎が一日かけ雑草抜きをし、花壇に花を植え、ごみ処理をした為幾分か元の綺麗な庭を戻り戻していた。しかし所詮素人が行ったもの、立派な庭とは到底言えない。しかし荒れていた庭を知っている哀には十分蘇ったように映るらしく、素直に感心された。
「それで、工藤君はどう?」
「昨晩自分の部屋を掃除したみたいだな、掃除機が出しっぱなしになっていた」
 今朝工藤邸に入った瞬間、確かに仕舞ったはずの掃除機が廊下に置かれているのを見た時、文次郎は一瞬工藤夫妻がロスから帰って来たのかと思った。
 それは新一が掃除を行った結果だと分かったのは、リビングに置かれたメッセージを読んだ時。
 文次郎から始まったメッセージのやり取りは、三日経った今も続いていた。
(まさかあれで本当に掃除するとはなぁ)
 メッセージの内容を思い出し、文次郎は肩を降ろす。
 売り言葉に買い言葉。次第に二人の間から互いを気遣う気持ちは無くなり、文次郎も遠慮が消え本来の頑固さを表し、新一も我儘を前面に押し出すようになった。新一が掃除をするに至ったのはその中でのやり取りが原因で、掃除機を何時かけるか否かの応答で生まれた。
 だが二人がメッセージのやり取りをしている事を知らない――文次郎は言うタイミングを失っていた――哀には余程衝撃的だったらしく、ピシリと可哀想な程に固まった。
「工藤、君が……?」
「ああ、多分な」
「……信じられない、あの工藤君が……」
 手紙からも窺える我儘っぷりを知っているのか、哀が胡乱げな眼差しを向けてくる。文次郎ですら信じられないので、仕方ないだろうとは思うが小学生にあるまじき冷たい目は中々きつい。
「あー、部屋に侵入されるとでも思ったんじゃねぇか?」
「……まぁ、いいわ。本当に彼が掃除したなら、喜ぶことだし」
 まるで哀の方が年上の様である。さしずめしっかり者の姉みたいな妹と、手のかかる弟みたいな兄か。想像して文次郎は思わず真顔になる――何故だかとてもしっくりきた。
「他に何かあった?」
「相変わらず食べないが、コーヒーは飲んでいるみたいだぜ」
 流石に流し台に捨てられることは無くなったが、案の定手は付けられていない。その代り、哀の勧めで買ってきたコーヒーは日に日に減っており、飲んだ後のカップが洗えとばかりに流し台でその存在を主張するようになった。
「確かに胃は心配だが……良かったな」
 飲んでもらえて、と言外に告げると哀は無言で頷いた。その頬には軽く朱が走っており、むずむずと口角が動いている。
 彼女は必死に何ができるのか探していたのだ、彼のために選んだコーヒーを飲んでもらえて嬉しいに決まっている。それを素直に表に出さない辺り、子どもらしくないが彼女らしいと言えよう。
「ねえ、文次郎さん」
「ん?」
「待つのって、本当難しいのね」
「だろ?」
「でも、悪くないわ」
 ほんのりと笑う哀に、文次郎も薄く笑い返す。
「俺も、そう思う」
 こうして応えてくれる瞬間が、幸せだから。
 どんなに辛くても、待っていようと思えてくる。
「あっ、いけない。もう行かないと……」
「いってらっしゃい」
「行って来ます」
 ずっと待ち続けている恋人は、どんなに待っても返してくれないけれど。



 この一週間はひたすら工藤家に尽くすと決めた文次郎は、バイトも全て急遽休み、大岳教授にも出て来られない旨を伝えた。元より大学は夏休みで集中講義も重なっていないので、大岳教授に大袈裟に悲しまれること以外に支障はない。バイト先にも工藤家のことは伏せて簡潔に引きこもりの世話をすることになったと説明すれば、何故か激励され気にするなと休ませてくれた。
 一週間の休みは瞬く間に知り合い中に広まり、文次郎の携帯は引っ切り無しに遊びの誘いを受信した。その度に別のバイトをしているからと説明するのだが、冗談だと思われているのか頻繁にかかってくる。時々留三郎からも連絡が来るのだが、彼女の家に泊まるやら家に連れ込むから帰って来るな等の浮気絡みのものなので、携帯は鞄の奥に仕舞われる様になった。
 ともかく工藤邸に集中することが出来る様になった文次郎は、家にいる時間帯を決めそれ以外は庭の掃除などをやり、ひたすら工藤邸の掃除に徹した。時間帯を決めたのは、新一の生活リズムをなるべく壊さない様にするためである。家の中にいなければ彼も大丈夫らしく、文次郎が庭の掃除をしている間に何度も下りてきているらしい。
 朝の哀とのやり取りの後、庭掃除に励んでいた文次郎が昼食作りの時間になり工藤邸に入れば、リビングには既に彼からのメッセージがあった。
 一種の楽しみとなっているそれを手に取り読み、文次郎は目を見開く。
「『面倒だから掃除は任せる、俺の部屋も』って……、これ、入っていいってことか?」
 今までになかった展開に文次郎は柄にもなく焦った。今まで彼の安全領域である部屋に入ろうとしなかったのは彼がそれを望んだのもあるが、一番はお互いの距離を保つためである。
 契約期間は一週間。文次郎が彼の役に立てるのはごく僅か。今は良くても後々悪化させるかもしれない。
(参ったな……、大岳教授に相談してみるか)
 ひとまず今日は入らないことにした。新しい紙に返事を書いて、彼からのメッセージをポケットに仕舞いキッチンに向かう。
 思いがけない彼からの接近に戸惑っていた文次郎は気付かなかった。

 じっと、階段の陰に隠れてこちらを見ている存在に。
 リビングを出た瞬間、入れ替わるようにして中に入っていったことに。

(やっぱ売られた喧嘩を買ったのがまずかったか? うん、まずいよな。踏み込んだのは俺の方じゃねえか)
 魔法瓶の中身を捨てて洗い、いったん横に置いておく。鍋の中身も同じように捨てようとした時――ガンッと、突然頭に衝撃が走った。
 余りにも突然すぎるそれに文次郎は声なき悲鳴をあげて蹲る。地味に痛いそれにジワリと滲む目の端に、コロコロと転がるサッカーボールが映った。間違いなく原因であろうそれに、文次郎は我も忘れて「ゴラァ!」と鬼の形相を浮かべて振り返る。
「何すんだ新一!」
 オカルト現象なら話は別だが、この家で文次郎にサッカーボールを当てることが出来るのはただ一人。思わず君付けするのを忘れて叫んだ文次郎はサッカーボールを持って立ち上がり、玄関ホールに向かって走る。
 追いかけてきたのを悟ったのか、バタバタと勢いよく階段を駆け上る音が響いた。文次郎も追いかけて階段を上ろうとし、寸での所で思いとどまることに成功する。
「――ちょっと待て、なんで新一が……?」
 可笑しいそれに、急上昇していた怒りのメーターが降下していく。
 なぜ、彼は文次郎が家の中にいる間に部屋を出て、そればかりか一階に下りてきたのだろうか。
 もしやと思いリビングに向かい、書いたばかりの書置きを探す。しかしメッセージが書かれたそれはどこにもなく、新一が上に持って上がったことが推測出来る。
 一体彼は何をしたかったのだろうか。何となく手の中にあるボールを回しながら考えていた文次郎は、ふとサッカーボールに文字が書かれていることに気付いた。
 そこに書かれていた言葉に、文次郎は目を見開き、ついでゆっくりと深く息を吐く。
「自分のしたことから逃げるなってことか」
 ガリガリと頭を掻き、サッカーボールを持ちながらキッチンではなく物置に向かう。
「『今すぐ部屋の掃除しに来い』か、それくらい紙に書けよな」
 彼からのメッセージに応えるために。


 コンコン、と部屋の扉をノックする。緊張で手が汗ばんでいるが、気に欠ける余裕などない。ここは開かずの間である新一の部屋。文次郎の行動ひとつでどちらにも転がる、非常に危険な場所なのだから。
 ドン、と扉に何かが当たる音が響く。入れという合図なのだろう、文次郎は意を決してドアノブに手をかける。
「失礼する」
 中は意外にも狭かった。否、一般家庭と比較すれば十分広いのだが、工藤邸で考えればどの部屋よりも狭い。中には若者らしくパソコンや机が並んでおり、予想と反して本棚がひしめいていなかった。図書室と呼んでもいい程の書斎があるからだろうか。
 脱ぎっぱなしの服が床に無造作に放り出されている。部屋の隅には積み重ねられた本の山が出来上がっていた。空気も淀んでおり、カーテンが閉められっぱなしのせいか昼間なのに暗い。机の上にも本が積み重ねられている。パソコンは複数台持っているらしく、机の上に本の山を避けるようにして二台のノートパソコンが開かれていた。うち一台の電源はスリープモードだ。ゴミ箱の中も溢れ返っている。
 部屋の主である新一は、その部屋のベッドの上にいた。壁に寄り掛かるようにして体育座りしており、股の間に枕をはさんで抱きしめて顔を埋めている。傍には点滴の道具があり、新一の腕とは繋がっていなかった。何時から外しているのか非常に気になる所である。
 中に入ろうとし、コロコロと野球ボールが足元を転がっていることに気付いた。これを投げたのだろうか、ボールには文次郎でも知っているプロ野球選手のサインが書かれている。
(これは、想像以上だった……)
 文次郎はポリポリと頭を掻いた。新一の部屋がではない。初めて工藤邸に来た時からこの部屋が一番危ないと危惧していたので想像の範囲内。文次郎の想像を超えたのは、工藤新一自身だった。
(こりゃ、哀達が躍起になるわけだ)
 工藤新一は、細かった。健康的な細さではなく病的なまでの、骨と皮だけと言っても過言でもない細さ。寧ろ薄いと言った方がいいかもしれない。肌も病的なまでに白い。やつれているのが一目でわかる。
 甘かった、と文次郎は後悔した。工藤夫妻が慌てていなかったので病院に頼るほどではないと思っていたが、これは即入院レベルの危険度だ。待っていては死んでしまう。そう思わせる程に新一は昔の面影が無い。
 今すぐ引き返して救急車を呼ぶべきか。そう考えだした時、新一がゆっくりと顔を上げた。
(……ああ、なるほどな……)
 向けられた目に、文次郎は息を吐いた。そして何故工藤夫妻が医者ではなく家政夫を求めたのか悟り、ゆっくりと目を閉じる。
 工藤新一の目には、光があった。それはかつてテレビで見た者ではない、近づくものすべてを排除しようとする、全ての存在を拒絶しようとする強い意志が浮かぶもの。
(……心を、守りたかったのか……)
 無理やり病院に連れて行くのは可能だろう。しかしそうすれば、工藤新一の心が死んでしまう。体が元気になっても、彼は元には戻れない。
 それなら、と工藤夫妻は思ったのだろうか。彼の体力が持つギリギリまで待って、彼が自ら出てきてくれるのを。それでも出てきてくれる様子が無かったから、文次郎という発破材を望んだのか。
(……俺に、出来ることは……)
 今の文次郎にできる事。どうして彼が部屋に招き入れてくれたのか。ぐるぐると回る思考を一旦止めて目を開け、今度こそ部屋の中に一歩足を踏み入れる。
「まずは換気からだな、お前がどう思おうと掃除している間は窓を開けるぞ」
 ズカズカと真っ直ぐに部屋を突き進み、カーテンを乱暴に開けて窓を開ける。途端入ってくる涼しく新鮮な空気に、新一の目が細められた。


「よし、一先ずこれでいいだろ」
 見違えるように綺麗になった新一の部屋に、文次郎は額の汗をぬぐった。
 取り敢えず掃除から始めた文次郎だったが、これが曲者だった。掃除機だけでは足りない床の汚れに拭き掃除道具を装備し、積み重ねられた本の山は一端廊下に出した後種類分けして本棚に仕舞いこみ、布団も無理やり剥がして干したり、洗濯物を仕分けしたりと、やることが多すぎて手が止まらなかった。お陰で今も洗濯機が回っている。
 黙々と作業している内に時間は経っていたらしく、空は茜色になっていた。下校する子ども達の姿もちらほら窓から見えてくる。
 新一はというと、変わらずベッドの上で座っていた。しかしずっと文次郎を目で追い、時々「その本は書斎の」などと小声で仕舞う場所を教えてくれた。文次郎が聞いた訳では無かったのだが、流石は世界の名探偵と言った所だろう。ちょっとした仕草や表情から何を考えているのか読み取ってくる。
「新一、取り敢えず今日はここまでにするからな」
「……有り難う」
 小声で礼を言ってくる新一に、文次郎は「どう致しまして」と返した。目と身体は窓の外を向いており、窓枠に寄り掛かり見える景色に目を細める。
「さっきまで何ともなかったのに、こんな時間だと分かると腹減ってくるな」
「……今日は、何作るんだ?」
「どうすっかな。何にも決めてねぇや」
「……見ていても、いいか?」
 おや、と文次郎は視線を新一に戻した。彼の中で一体何が起きたのだろうか。部屋に招き入れたといい、ジリジリと距離を詰められている気がする。
 しかし、断る権利は文次郎にない。あくまで家政夫とその雇い主の息子。彼がそれを望むのだったら、文次郎はそれに応えるだけだ。
「見ていて楽しいもんじゃねえけど、好きにしろよ」
「……変な物いれてないかの監視だ、バーロー」
「そうきたか」
 窓枠に預けていた身体を起こし、新一に手を差し伸べる。
「支えるくらいはできっけど、いるか?」
 新一は一瞬体を震わし、文次郎と手を交互に見た。返事を辛抱強く待っていると、彼の痩せて骨ばった手が動いた。
 チョン、と指先が文次郎の手を触れる。数回感触を確かめるように触れた後、恐々としながらも握り締められる。
(ほっせぇな、力入れると折れそうだ)
 肉はどこに行ったのだろうかと心配になる位皮と骨の手を、慎重に力加減に気を付けて握り返す。
「ゆっくりでいい」
「……」
「倒れそうになったら、受け止めてやるから」
 ゆっくりとベッドから立ち上がる新一のペースに合わせて、引っ張り過ぎないよう気を付けて前を行く。
 部屋の扉を開け、先に出ると握りしめている手に僅かに力が入った。それに応えるようにして少しだけ力をこめる。
「階段までは、自分の足で歩けよ」
「……階段くらい下りられる」
 息を止めて一歩。部屋の外に足を踏み出す。両足が部屋の外に出た時、新一は止めていた息を大きく吐き出した。


「よし、キャベツと卵のスープの完成だ」
「……これだけ?」
「これだけ」
 新一曰く監視の元行われた、本日の誰にも食べられる予定の無い夕食のメニュー。新一用に作っているのでこれにてクッキングタイムは終了である。
 エプロンを外せば、新一が横から興味深そうに鍋を覗き込んできた。スンと匂いを嗅ぎ、不思議そうに首を傾げる。
「さっき捨てたスープと違うのか?」
「そりゃあ、違うスープ作っているし」
「なんで?」
「……なんで、って」
 問いかけられ、文次郎は困惑した。質問の意図が分からないのでどう返答すればいいのか分からない。新一も文次郎の反応に困惑の表情を浮かべる。
「だってこれ、俺に作ったんだろ?」
「いや、作りたいから作っただけだ。まあお前が食べるならと考えてはいるが」
「なら、同じのでいいだろ」
「同じのだったら飽きるだろ、それとも毎日同じスープでもいいのか?」
 そうだったら凄いことである。流石の文次郎も毎日同じのは少々辛い、食べない選択肢はないが。
 文次郎の返答と問いかけに、新一は呆れた目を向けてきた。それにむっとして顔をしかめると、これみよがしに息を吐かれる。
「やっぱお前、変な奴。食べない奴に毎日違うスープ作るなんて、手間なだけだろ」
「だから、作りたいから作っているだけだって言っているだろ」
「じゃあ自分の分は?」
「ここの食材はお前用。俺が勝手に使っていい訳ねぇだろうが」
「……堅物で真面目人間」
「ああ、それよく言われる」
 様々な意味を込めて言われ続けてきた言葉は、今や文次郎の代名詞。自身でさえ認める堅物ぶりは軍人を連想させるとまで言われる程だ。
 新一が黙り込んだので、スープを入れようと籠の中に入れていた魔法瓶に手を伸ばす。
「あっ、待って!」
 然しその手を、新一が掴んで止めて見せた。
 突然のそれに文次郎は目を丸くし、どうしたんだと首を傾げる。
 無意識だったのか、自分の行動に驚いている新一は直ぐに手を離し、顔の前で両手を合わせた。モゴモゴと口の中で言葉を濁らせ、窺う様に文次郎を見上げる――所謂上目遣いに、一瞬文次郎の脳は停止した。新一程のレベルの美形になると、性別を凌駕した威力を持つらしい。流石は元大女優の血を引く息子なだけある、浮気はするくせして嫉妬深い恋人がいる手前、それ以上に発展することは無いが。
「あの、さ……」
 留三郎にやられてもむかつくだけなのにと意識が別の方向に向かっていた文次郎は、新一の言葉で目の前の現実に戻ってきた。頭の中でかっこつける留三郎の顔を消去する。
「どうした?」
「……、たい」
「ん?」
「……一口、だけ、食べ、たい……」
 蚊の鳴くような声で言われた言葉に、文次郎はキョトンとした。彼が何を言ったのか、脳が理解するのを拒んだからだ。
 それでもジワジワと彼の言葉の意味が脳に浸透していき、食べたいと言われたと理解した時には、無意識に手に持っていたお玉を差し出していた。
「ん」
「……あり、がと」
 お玉を受け取られ、文次郎は我に返る。いやそれじゃなくて、と慌てて止めようとし、だが新一の顔を見て言葉を飲み込んだ。
 新一は真剣な表情で鍋と向き合っていた。お玉を持つ手は震えており、目は今にも泣きそうに揺れ動いている。それでも、新一は逃げようとしていなかった。逃げたい気持ちを必死に抑え、食べるという行為と向き合っている。
 本当なら止めるべきなのだろう。しかし新一の決意に押され、文次郎は黙ってそれを見守ることにした。
 鍋の中にお玉が入り、ほんの少しだけすくい上げる。具も入っていない汁だけのそれに、新一の手の震えは大きくなっていく。
「……いた、だき、ます……」
 覚悟を決め、新一は固く目を閉じお玉に口を寄せる。ひび割れた唇にスープが流れていいき、唇を潤す。こくりと喉が動き、新一の目が大きく見開かれた。
「美味しい……」
 震える声で言われた言葉に、文次郎の目も大きく見開かれた。新一はそれに気付かず、目を輝かせてお玉を見つめている。
「文次郎、これすっげぇ美味しいな! こんな美味いの初めてだ!」
 先程までの泣きそうな表情が嘘の様に笑顔になった新一は文次郎を振り向いた。小さな子どものようにはしゃぐ彼を、文次郎は呆然と見つめる。
「なあ、もっと食べていいか? ちゃんと皿に移すからさ」
「あっ、ああ……」
「文次郎も一緒に食べようぜ、二人分作っているんだろ?」
 ほらほら、と背中を押され食器棚から皿を取るよう要求される。文次郎は促されるまま食器棚から二人分の皿を取り出し、その食器の冷たさに今目の前の事が夢でないことを悟る。
(幻聴でも、幻覚でもない、夢でもないってことは……現実……)
 新一に皿を渡すと、嬉々としてスープを注ぎ始めた。フンフンと鼻歌を歌いご機嫌な様子に、文次郎は現実であることも悟り。
「……――っ!!」
「っ、文次郎!?」
 手で顔を覆って勢いよくその場に蹲った。
 突然のそれに新一がギョッとして手を止める。勿論顔を隠している文次郎にそれが見えるはずもなく、大きく息を吸って「うわあぁ」と情けない声を出す。
 文次郎の顔は可哀想なほどに真っ赤になっていた。耳や首まで鮮やかな赤、体中の血が沸騰しているのではないかと思う位熱い、あまりの熱さに目尻に涙が浮かんでいる。
(畜生、ばかみてぇ、本当馬鹿みてぇ……)
 文次郎、と心配する新一の手が頭に触れる。そのまま滑り手に手を添えられ、顔を覗き込まれるのを気配で感じた。
「文次郎、茹で蛸みたいに真っ赤だな」
「うるせぇ、誰のせいだと思ってんだ……!」
「何だ、そんなに嬉しかったのか?」
 からかうような口調に、文次郎は奥歯を噛み締める。ここまで振り回されとっくの昔にメーターをぶち切っていた脳に、正常な判断を求めることは出来ない。強靭な理性が破壊された今、文次郎を突き動かすのは自身のありのままの感情。
「仕方ねぇだろ! そんなに喜んでもらえるって、思ってなかったんだよこっちは!」
「……」
「ちっくしょう、あーもう、嬉しすぎて訳わかんねぇ……!」
 美味しい、との言葉は哀や博士にも言ってもらった。かつて振舞った家族や腐れ縁たちにも言われたことはあった。しかし、新一のその言葉は文次郎を揺さぶった。心の底から美味しいと感じていると分かる声に、その表情に、文次郎は大きな喜びを感じた。
 こんなにも、嬉しいことだったのか。自分が作った物を美味しいと食べてもらえるのは。こんなにも、全身が震えあがる程の喜びを感じることが出来るのか。
「作って、良かった……」
 こんなにも、幸せに包まれることができるのか。
 留三郎相手でも感じたことのない幸せに、文次郎の目尻から滴が一滴流れ落ちる。嬉しさのあまり涙が出るのは久しぶりだ。前に流したのは何時だか覚えていないが、留三郎関連だった気がする。
(留三郎もこれくらい喜んでくれれば、少しは素直に……いや、それはそれで気持ち悪いな、うん。まずいって言われた方がマシだ)
 思わず留三郎の喜ぶ姿を想像し、文次郎の目から涙が引っ込んだ。ついでに赤らみも引いていく。そもそも留三郎に手料理を振舞ったのは一年も前で、今思い出したがその時も大喧嘩に発展したはずだった。原因は確か「文次郎にしては美味いんじゃね? まあ俺の方がもっと美味しく作れるけど」という留三郎の第一声。
(……どっちにしろ喧嘩になるか、俺等の場合……)
 恋人同士になる前の関係は犬猿の仲。付き合う様になってからも喧嘩は絶えることなく、些細なことで衝突しあった。唯一喧嘩の原因になっていないのは、留三郎の浮気だろう。
(……俺も新一みたいに素直になれれば……)
 留三郎の事を考えれば幸せな気分も吹き飛び憂鬱な気分になる。深く息を吐こうとし、だがぐいと顔を無理やり上げられた。突然のことに目を丸くする文次郎の目に、新一の顔が間近で映る。
「誰のこと考えてんだよ」
「……はい?」
「……いや、悪い、なんでもない。早く食べようぜ。久しぶりに腹減った」
 いつの間にか挟まれていた両頬を離され、新一の顔が離れていく。ポカンとしながらそれを見送った文次郎は、我に返り慌てて立ち上がり、新一からお玉とスプーンを取り上げる。
「俺がする。お前は待っていろ、それか運べ」
「これくらい出来る」
「これは俺の仕事。お前の仕事は食べる事」
「……変なところで真面目だな」
「温め直すってことで納得しろ」
 火をかけ直し、鍋の中をかき混ぜる。先程消し去っていた幸福感が再び戻ってき、文次郎は新一に笑いかける。
「熱いのは平気か?」
「勿論!」
 にっこり笑う新一の笑顔に、文次郎は眩しそうに目を細めた。


2015/02/06 pixiv
2015/02/21 加筆修正
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