家政夫になるまで
初めての工藤邸


 何がどうしてこうなった。
 ポカンと口をあけ豪邸を見上げ、文次郎は今見ている物が全て夢であることを願った。しかし神というものは無情なもので、手の中にある鍵の冷たさが現実であると知らせて来る。
 現実逃避という手段をとった脳は、しかしそれに失敗し昨夜の出来事を引っ張り出してしまった。


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「私たちの息子は家に引きこもり……いや、君の言葉を借りれば今『休憩中』なんだ」
 奇跡を起こしてほしいなどと小説家らしいといえばらしい言い回しに呆然としていた文次郎は、はあと気の抜けた返事しか返せなかった。それを気にすることなく、優作は話しを進めていく。
「引きこもっているだけなら良かったんだが、先の大きな戦いのせいで極度の人間不信になっていて、誰とも会うことも話すことも出来ない。唯一メールだけが通信手段なのだが、やはり親としては心配でね」
「……」
「おまけにご飯も一切口にせず、薬と点滴に頼り切っている」
「……点滴は自分で?」
「一週間に三回、彼女に頼んで玄関に置いてもらっている。だが中には入れない」
「それ以上中に入れば彼に拒絶されるの」
 週三回で配達をしているらしい哀の言葉に、文次郎は益々訝しがる。
「そのような状況で、なぜ俺に『家政夫』を? 赤の他人である俺が家に入ることの方が新一君も怯えると思うんですが」
「いや、君なら大丈夫。そこは保証するよ」
 どこに根拠があるか分からない保証をされても、文次郎は首を縦に振ることは出来ない。話を聞く限り今新一に必要なのは医療関係者であり、カウンセリングと言う意味なら大岳教授の方が最適である。どう考えても人選ミスだ。
 しかし優作たちは聞く耳を持たない。
「まずは一週間だけでいい。勿論給料も払う。一週間後、改めて返事を聞かせてほしい」
「はあ……、まあ一週間だけでしたら……」
 押し切られる形で頷いた文次郎に、四人が安堵の表情を浮かべた。

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 そうして次の日の早朝から早速働くことになった文次郎は、駐車場の存在を聞いてなかった為再び徒歩で出向くことになった。昨夜家に帰るとやはり留三郎はいなかったので一先ず書置きだけは残してきたが、恐らくそれを彼が見ることは無いだろう。
「つうか何で俺だけなんだよ……」
 私たちは入れないから、と鍵だけ渡された文次郎は深く息を吐き、意を決して差込口に鍵を指した。カチャンと音が鳴り、恐る恐る立派な扉を開ける。
「お邪魔します……」
 中は外観と同じ中世を連想させる豪華な造りになっていた。庶民の家にこんなにも広い玄関ホールなど早々無い。玄関の隅に段ボールが数個置かれており、それぞれに『点滴』『薬』『食材』『消耗品』と箱の中身が書かれている。文次郎は一先ず食材と書かれている段ボールの箱の中身を開けた。前もってこの段ボールの存在は知らされており、取り敢えず今日はこの中の食材を使ってほしいと頼まれていたからである。
 中の食材は鮮度は落ちていても、腐ってはいなかった。靴を脱ぎスリッパを拝借し、よいしょと持ち上げホールに入る。
「ええと、右がリビングで、確か左がダイニングキッチン……」
 昨夜見せられた家の間取りを思い出しながら他人の家を詮索する。工藤夫妻の一人息子にしてこの家の家主は二階の自室に引きこもっているらしいので、偶然鉢合わせするということはないだろう。因みに彼には文次郎の来訪をメールで知らせているらしいので、不審者として通報されることは無い。
 ここ一般家庭とは到底思えない――工藤家は一般家庭でないので当然だが――キッチンに段ボールを置く。一通り道具は揃っているのを確認して回り、文次郎はあることに気付く。
「このキッチン、哀が言った通り全く使われてねえな」
 異様なほど綺麗なキッチンの汚れは埃だけ。しばらくの間誰かが使った痕跡はなかった。自分は今住んでいるキッチンを思い出す。留三郎の彼女が使いやすいように整えられたキッチンは非常に息苦しく、文次郎が勝手に使ってはいけない雰囲気があった。それとは打って変わり、このキッチンは誰かに使ってもらうのを待ち望んでいる様に見えた。誰の特徴も出ていないそこは、文次郎にはひどく新鮮で。
「……取り敢えず、スープでいいか」
 取り敢えず作ってみようという気にさせたのだった。


 恐らく胃が弱っていると思われるので、飲みやすいさっぱりしたスープを二人分作った後、文次郎はひとり分を魔法瓶にいれ、鍋に蓋をした。魔法瓶に入れたのは階段下に置いておくためであり、もう一人分鍋の中に残したままなのはもしもの為の用意。
「あとは掃除と、洗濯物か。一階に何があるか見て回って、必要なものを買い出しに行かねえと」
 馬鹿広い家に引きこもっている一人息子は掃除をしていないらしく、やけに埃っぽかった。お試し一週間だけとはいえ、責任感が強い文次郎に見て見ぬふりなど出来ない。自分にできる事は力の限りするのがアルバイトのモットー。一週間だけでも給料は払ってくれるらしいので、それに似合う分の働きはしておきたい。
「まずは換気からするか」
 腕まくりをし、掃除機を探しに行く。上にいるだろう一人息子に対する遠慮は、ほこりまみれの廊下を見て綺麗に吹き飛んでいた。


 全部屋の窓を開けて回った文次郎は、洗濯かごに放り込まれていた物を全て洗濯し――どうやら洗濯や風呂は自分で行っていたらしい――、洗濯機が止まるまで風呂掃除。止まった後は庭に出て洗濯物を干し、再び部屋の掃除に戻った。棚の上やシャンデリアなどの埃を拭いて回り、最後の仕上げとして掃除機をかけて回る。
 一通り目のつく箇所の掃除を終えた頃にはすでに朝九時を回っており、慌てて文次郎は大学に行く準備をする。
「っと、その前に。やっぱ一応挨拶は必要だよな」
 鞄の中からルーズリーフを取出し、さらさらと挨拶文を書いていく。宛先は勿論一人息子の新一で、一階に下りてきている事は判明しているのでリビングのテーブルに置いておく。
 バタバタとしつつも外に行き、玄関の鍵を閉める。鍵は隣に住む博士が預かってくれるらしいので、急いで隣に回った。工藤夫妻はそのまま持っていて構わないと言ってくれたが、たった一週間しかこないのに持っていても息子は不安だろうからと丁寧に断った。
 個性的な外観の家のチャイムを鳴らすと、バタバタと足音が響いてきた。ついで鍵が開けられ、中から博士の養女である哀が顔を出す。
「おはよう、哀。これ、工藤さん家の鍵」
「……おはようございます。本当に来たのね」
 やや呆れたように言った哀は鍵を受け取り、肩をすくめて見せた。小学生には見えない大人びた言動に文次郎も年下相手ではなく歳の近い人という感覚で接してしまう。
「今日は大学に行くの?」
「ああ。昼までには戻って来れると思うから」
「……第一感想はどう? なにかある?」
 首を傾げながら、しかし警戒心たっぷりに聞かれた問いかけに、文次郎は間髪入れずに答える。
「引きこもっていても掃除くらいはしろと説教しそうになった」
「……」
「あんな埃塗れの部屋に居たら病気になってもおかしくないからな。帰ってきたら、掃除の続きをするつもりだ」
「……そう、掃除……」
「あと、庭の手入れって勝手にしてもいいか聞いていてくれないか? 折角綺麗な庭なのに雑草だらけで勿体ないから、俺で出来るところまでしておきたいって。駐車してもいいかも聞いてくれると助かる」
「……庭……」
「食料の買い出しにもいかねえと。冷蔵庫の中が地獄みたいだった」
「……食料……」
 憤慨する文次郎の言葉に、哀は何故か呆然としていた。おうむ返しの様に文次郎の言葉の一部を繰り返し、額に手を当てゆっくりと息を吐く。
「……引きこもっている彼に対してそんなことを真っ先に言うの、多分貴方だけね……」
「えっ?」
「……今日は私達も予定無いの。買い出しに付き合うから、終わったら連絡して頂戴」
 なんでもない、と話を変えた哀を不思議がりつつも、文次郎は追及せずそれに乗っかる。連絡先は昨日の内に交換してあるので、今慌てて渡す必要もない。
「助かるよ。買わないといけないものが多くてさ」
「……因みに何を買うつもりなの?」
「掃除用具」
 きっぱりと言い切った文次郎に、哀はまた息を吐いた。



「貴方の趣味って掃除なの?」
 大岳教授に今朝の事を報告ついでに彼の研究室も掃除した後、文次郎は博士に連絡をして迎えに来てもらい共に買い出しに出かけた。
 食品以外も買うため大型デパートに来たのだが、テキパキと掃除用具を選んでいく文次郎に、哀が呆れたように声をかける。
「いや、でもあの家は掃除しねえと身体にも悪いからな」
「体の心配をするなら、引きこもりを治そうとは思わないの?」
「心が弱っているから引きこもっているのに、無理に外に出すわけにはいかねえだろ」
 床の拭き掃除用具を見つけたので、それを手に取りながら哀の質問に答える。目は用具に向いているため、彼女がどんな表情を浮かべているのか分からない。
「身体の傷は目に見えるが、心の傷は目に見えない。だから傷の具合がどんなものなのか、どこまで癒えているのか、勝手に推測することしか出来ない。けど、今新一君は引きこもりという形で心の傷を見せている――俺にできるのは、彼の居場所を犯さないことだけさ」
「……なら、私が彼にできる事は、何なのかしらね」
「いや、もう十分しているだろ」
 想像していなかったことを言われたので思わず振り向くと、少女は驚いたように目を見開いていた。何に対して驚いていたかは判らないが、文次郎はしゃがみ彼女の視線に合わせる。
「新一君の為に段ボールを運んで、心配して、今俺と一緒に買い出ししている。ほら、沢山しているじゃねぇか」
「……そんなこと、でいいの?」
「いいに決まっている。俺なんか掃除だぞ、掃除。哀がいなかったら、新一君は今頃部屋で餓死していたかもしれねぇんだからさ」
 手に持っていた用具を置き、グシャグシャと彼女の頭を撫でる。懐いてくれる後輩にしているそれに哀は驚き逃げようとしたが、その前に文次郎は手を離す。
「何も出来ないって思っていたら、本当に何も出来なくなる。何かできる事を探して、がむしゃらに動いてみろよ。そうすりゃ何か一つ出来ることが見つかるはずさ」
 置いていた掃除用具を再び取って別の物を探しに行こうとし、「あっ」と再び振り向く。
「それともう一つ、誰にでも出来るが、難しいことがある」
「……なに?」
「『待つ』ことさ。簡単そうに見えて、実はとっても難しい曲者だ」
 目に見えないものを待つというものは難しい。特に心の傷は簡単に癒えるものではなく、焦っていては余計に傷つけてしまう。
「俺も、待つのは嫌いだ」
 一瞬脳裏に浮かんだ留三郎の顔。待ち合わせ場所で何時まで経っても来ない彼を待つ時の空虚感。
(それでも待つ俺は、大ばか者なんだろうな……)
 余計なことを思いだしたと首を振り、止めていた足を動かす。
 その時丁度別のコーナーを見ていた博士が名前を呼んできたので、そちらに意識を向ける。
 だから文次郎は気付かなかった。後ろで哀が泣きそうに、しかし羨ましそうに文次郎を見つめていたことに。
「文次郎君、君が探していたものを見つけて来たぞ」
「ありがとうございます、博士。後は食料品だけですね」
 横に広い博士はニッと人懐こい笑みを浮かべた後、ふと何かを思い出し眉を下げた。
「新一君は食べないから、今はまだ必要ない気もするんじゃが……」
「ああ、いいんです。俺が作りたいから作っているだけですから」
 パタパタと顔の前で手を振る。元より食べてくれないことは分かっているので作る必要はないのだが、あのキッチンを見るとどうしても作りたくなってしまうのだ。新一が無理して食べる必要はないと、あのメモにも書いてある。
「俺、作れるだけで嬉しいんですよ」
 食べてもらえないことにはもう慣れた。留三郎に初めて何か作った時、彼がどんな反応をしたのか覚えていない。それに比べて最初から食べないと意思表示している新一の方が気は楽なものだ。
「まあ他人の家のキッチンをお借りしている訳ですし、その人が食べられそうなものを作らせていただきますけど」
「ふうむ……勿体ないのう」
「なら、残った物は持って行きましょうか? 味の保証は出来ませんけど」
「あら、いい考えね」
 適当に思いついたことを冗談で言うと、予想外に哀の賛成が得られた。
「貴方の作る料理がどんなものか、一度食べてみたいわ」
「なら、また昼にスープ作るから、それ持って行くか」
「楽しみじゃのう」
「あまり期待しないでくださいね」
 苦笑を浮かべ、しかし久しぶりに食べてくれると言ってくれる人がいたことが嬉しく、文次郎は足取り軽く食品コーナー、に行く前にまず今手元にある掃除用具を買うためにレジに向かった。



 博士の車に送ってもらい着いた工藤邸。現在の時刻は昼過ぎ。運びきれない分の主に掃除道具類の荷物は後で文次郎が取りに行くからとそのまま車の中。両手に食材を持った文次郎は、再び工藤邸の中に入った。
 場所は覚えたので真っ直ぐにキッチンに向かい、買ってきたものを仕舞っていく。ようやく冷蔵庫の中がまともになり、調味料類も生まれ変わった。これでもし新一が何か食べたくなっても、食中毒になる心配は今の所ないだろう。
「あとこれも、と」
 買う予定はなかったが、哀に勧められて買ってきたコーヒーも目につきやすいところに置く。なんでも新一はコーヒー中毒者らしく、引きこもってからもこれだけは飲んでいるらしい。文次郎はそこまで好きじゃないので、高校生なのに凄いなと素直に感心した。
 次にすることは昼食つくりである。家を出る前に階段下に置いた魔法瓶はキッチンのシンクに置かれており、中身は流された跡があった。別段それに傷付く訳でもなく、鍋の中に残っていたのも捨て、新しく作り直す。
 今度もスープだが、今度は種類が違う。調味料類も多く買ってきたので、新しいメニューに挑戦できるようになった。今度は四人分作り、また一人分を魔法瓶に入れ、隣に持って行くために別の鍋に二人分移す。残った一人分は朝と同じくそのまま。
 一通り終わったので、文次郎はリビングに向かった。そこのテーブルには朝と変わらずルーズリーフがあったのでそのまま捨てようと思い、しかしそこに文字が追加されていることに気付きおおと少し驚く。
(返事をしてきたか、律儀なものだな)
 そこには文次郎に対する返信が書かれていた。間違いなく新一のものだろう、もし彼の他に誰もこの家にいなければ、の話だが。父から話は聞いている事、食べないから作らなくていい事、掃除に対する感謝の言葉があり、想像していたより排他的でないことが分かった。
(丁寧な言い回しだが、こちらを苛立たせるのを目的とした攻撃的な文章……こいつも望んでいない、ということか。だが、礼を言う辺り素直と言うかなんというか、憎めねえなぁこれ)
 クスリと笑い、捨てずに畳んでポケットの中にしまう。新しく用意した紙にまたメッセージを書き、同じようにリビングの上に置いた。
(一先ずこれで話し合うことは出来る。今からまた出入りすると警戒するだろうから、掃除は明日に回して、夜を待つか)
 次返事が来るかわからない。だが伝えたいことは一通り書いたので、なくても問題はない。
「おっとっ、忘れていた」
 隣の家に行こうと鍋を取りに行こうとし、ふと大事なことを書き忘れていたことを思いだした。追伸と言う形で書き足し、今度こそ鍋を持って工藤邸を出る。工藤家の門を閉めようとした時、ふと文次郎は視線を感じて上を見上げた。
 固く閉じられた二階の窓。うち一つの部屋の全てを遮断するカーテンが、文次郎が顔を上げると同時に閉められた。揺れるカーテンに、文次郎の口角が上がる。
(俺が怒って出ていくとでも思っていたのか? なら残念だったな)
 カシャンと門を閉め、文次郎はひらりと二階の部屋に向けて手を振った。またな、と声に出さず口だけ動かす。
(俺は自他ともに認める負けず嫌いなんだよ)
 出ていくよう喧嘩を売られたなら、することはただ一つ。
 意地でも一週間通うのみ。
 小さな笑みを抑えられぬまま、文次郎は隣人宅へと足を向けた。



「あら、美味しい」
「さっぱりしていて飲みやすいのう」
 工藤邸で作って持ってきたスープを一口飲んだ哀と博士の感想に、文次郎は薄らと頬を赤らめはにかんだ。作るだけで満足だと言ったが、やはり美味しいと言ってもらえると嬉しくなる。
「でも少し濃いわね。私はこれくらいが丁度いいけど、工藤君にはもう少し薄味がいいと思うわ」
「薄味か……。分かった、参考にする。また味見してくれると助かるんだが」
「貴方は濃いのが好みなの?」
「味の濃淡は問わない」
「……つまり、好き嫌いは無いってこと?」
「腐れ縁たちには舌が死んでいると言われている。出されたものは食べているだけなんだがなぁ」
 どんなに見た目が食べ物でなくても、出されたものは完食。それが潮江家の決まりである。因みにこの決まりが出来たのは文次郎の母親が大の料理が苦手で作れば見た目が大惨事になり、しかし愛妻家の父親が残すのを許さないためだ。
 その決まりを家の外を真面目に守っているだけなのだが、一々説明するのは面倒なので省いているといつの間にかゲデモノ趣味認定されてしまった。哀もそう思ったらしく人外を見る目を文次郎に向けている。
「よくそれで作れるわね」
「そうか?」
「……貴方の舌ってどうなっているのかしら」
 その瞬間、ゾワリと文次郎の背筋に悪寒が走った。身に危険を知らせるそれに、文次郎は気付く。
 少女の目が腐れ縁のマッドサイエンティストと同じ、研究対象として見てくるものであると。
 彼女に逆らってはならない。本能的にそう悟った文次郎は素早く彼女から間合いを取った。それに哀の目が更に楽しそうに輝いたので、思わず身震いする。
 無言の攻防に終止符を打ったのは、二人のうちのどちらかではなく見守っていた博士だった。
「これこれ、哀君。脅かしたらいかんぞ」
「あら博士、私脅かしたつもりなんてないわよ? ただ気になっただけ」
「それが脅かしてんだよ……」
「何か言った?」
「いえ、何も」
 ボソリと呟いた声は、耳聡い少女に届いていた。慌てて誤魔化し、博士も空気を呼んで話題を変える。
「ところで文次郎君は、この後どうするつもりなんじゃ?」
「あー……、バイト先に今週休むって連絡します」
「なんのバイト?」
「居酒屋とコンビニ、休日は商店街の八百屋、時々他の店の手伝いを少々」
 夏休みの間の昼は主に大岳教授に振り回されているので、バイトのできる時間は限られていた。コンビニは夜間で週四回、居酒屋は週三回。どちらもバイトの中では古株になっている。商店街の八百屋は文次郎が高校時代からずっとバイトをしている為辞めるに辞めれず、無理を言って休日の日中だけ行かせてもらっている。以前は更に別のバイトを入れていたのだが、厳選して現在この三つを掛け持ちしていた。
「今日はコンビニのバイトなんで行けますけど、流石に残りは無理ですから」
 コンビニのバイトは夜間なのでやれないことはないが、居酒屋と八百屋は時間帯に無理がある。突然の休みになってしまうが、新一に喧嘩を売られた手前引くつもりは無い。
(辞めさせられたらその時はその時だな。また別のバイト探すか)
 あの家でバイトをしているのは文次郎だけ。家賃が払えないという状況になるのだけは避けなければならない。この一週間の予定を頭の中で組み立てていると、ボソリと哀が呟いたのが聞こえてきた。
「……多分、休みの連絡じゃなくて、辞める連絡になるわね……」
「はっ? 一週間だけなのになんでだ?」
「みすみすあの人達が逃すとは思えないから……私は期待してないけど」
 付け足された言葉に博士が慌てたが、文次郎は大して気にしない。それよりも一週間という約束が反古される可能性の方が重大だった。
「おいおい、俺は一週間だけだから引き受けたんだぞ。それ以上は新一君に負担がかかるじゃねぇか」
「その新一君が貴方を手放さない可能性も無きにあらず、ということよ。多分この一週間であなたに興味を持たせようという算段ね」
「……いや、無理だろ」
 手紙での挑発を思い出し、文次郎は苦笑いを浮かべた。一日目にして喧嘩を売られた――正しくは『売った』だが、文次郎にはその意識が無かったためあくまで『売られた』になる――というのに、関係が良くなっていくとは思えない。
 ポケットの中に入れてある紙が重たく感じ、文次郎は二人にばれないよう息を吐いた。



 そのまま昼食を御馳走になり、哀から新一の好みや性格などを聞き、博士の発明品を見せてもらったりとしていると、いつの間にか工藤邸に戻る時間になっていた。
 博士の車から買ってきた残りの道具を取って再び工藤邸の門をくぐる。隣で二人が心配そうに見ていたが、新一に見られるのを警戒してか直ぐに家に戻って行った。
 鍵を開け、中に入る。本日三回目のそれに朝感じた緊張は欠片もない。掃除用具が仕舞われていた物置に買ってきたものを押し込んだ後、文次郎はまずリビングに向かった。返事があるか確認するためである。
 テーブルの上には昼間と同じく紙が置かれており、そこにはメッセージの返事があった。掃除はこちらの判断に委ね、二階は自室以外なら勝手にしてもいい事。同じように書かれた追伸は、窓から見た感想のようなもの。文面から丁寧さはごっそり抜け落ちており、怒りすら感じられる。
(挑発されれば乗ってくると。若いなぁ)
 クスリと笑みをこぼし、またポケットに仕舞う。夜は夜でやらなければならないことも多いが、面倒臭さは感じなかった。


2015/02/06 pixiv
2015/02/20 加筆修正
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