■混沌事情■
□カンケイ事変□



常態の新一にとって、『敵前逃亡』なんてのは、冗談ではない屈辱的行動である。
趣味じゃない、と気楽に言うレベルでなくて、自身がそんな真似をすることを許せない、というプライドに掛かる話である。
それなのに、今現在絶賛逃亡中の工藤新一は、己の行動を恥じるでもなく、文字通りたった一人の人間から逃れようと住み慣れた街中を駆け回っていた。
地の利はある。
だが、追いかける人間もまた、おそらくこの辺りについては詳しいのではないかと思われた。油断は出来ない。そもそも体力的には結構負け気味であるだろうし。

「だっせぇ…ったく、なんだって!こんな!」

切れ切れの息の合間に、やっぱりこの状況は理不尽だと毒づく。
いやしかし、駄目なのだ。捕まるほうが問題なのだ。そう思った新一はぶるぶると首を横に振って、神経を集中させる。
捕まったらきっとプライド自体を破壊されるに違いない。
一体何に係る誇りかといえば、ひとえに男の沽券的な何かだ。

「ちっくしょ、早ぇえな!」

曲がり角で、最近引越しして不在になったとある家の門柱の影に隠れていた新一は、近づいてきた気配に舌打ちしそうになるのを抑えて、自分の気配を極力押し殺しながら、相手の動きを追い―なおかつ、相手の進路方向とは逆を行くために、そろりそろりと他家の塀の向こう側で動きやすい位置取りをする。

新一が時々成り行きで警察と共に犯人を追う現場で協力すると、警官達はこういう死角に相手が消えた一瞬の隙を犯人に突かれていた。
探偵はよくよくそうした状況で鋭く犯人の思惑を衝いて逃走経路を見切って、警察とは別に動いて先回りをしたりするものなのだが、いざ自分が逃げる立場となると、本当にこれでいいのか不安があった。
何しろ、逃げることに関しては、絶対に相手の方が上手なのだ。

ブロック塀には新一が中腰になった辺りに丁度三角形の隙間が等間隔に並んでいるので、そこから、そぅっと通りを見ながら、気配を殺し身体を静かにずらして行く。

「新一!」

呼びながら、三叉路になっている道の角で快斗は辺りを見回した。
角を曲がった途端相手の姿を見失う―つまり相手が追手の視野外へと消えた、という事だと瞬時に快斗は理解する。
なにしろ何時もは追われる方の立場である。一体どういう行動をとれば追手の眼を潜り抜けられるか、ほとんど本能染みた直感で中りをつけ視線を巡らせた。
―真っ直ぐに見える通りに姿はない。
新一の身体的運動能力からすると上へ登るよりは脚で駆ける方がずっと早い。
―物陰に隠れて移動する、という選択が妥当なはずだ。
さっと腰を屈めて死角となりやすい低い位置から視線を飛ばし― 目が、合った。

「いた!」
「っ?!」

ブロック塀を隔てて、すぐの場所から青い瞳が見えた。
快斗は迷わず、上に跳んだ。
オメーは猿か?!と新一が思うヒマも無く、簡単に塀を乗り越えて、快斗は新一の前に降り立った。

「何で、逃げる」
「うっせぇ、駄目だからだ」
「何が!?」
「知るか!!駄目なモンは駄目だからだ!!」

え、何でこの人キレてんだよ?!―快斗は己の大声の問いかけに、怒鳴り声で返してくる相手をマジマジと見返した。

―駄目だ、駄目だ、駄目だ!

その視線を受け、新一は『駄目』になっていく自分を感じていた。
どくどくと心臓の動きは激しくなって、脈拍が動脈に手を当てなくても耳元で大きく音を立ててハッキリ判るし、どんどんと顔に血液が集まっていくのが判る。
首からして、もう熱い。
アタマに血が上っていく。
そんな有り様をやはり見られたくなくて、新一は顔を下に向けながらも、キョロキョロと視線を左右に飛ばして(背後はブロック塀だし、正面は快斗である)逃げ道を探す。
その意図を素早く察した快斗は、相手の様子に違和感を覚えながらも、慌てて両腕を新一の身体を挟んでブロック塀との間に囲いを作った。
快斗は、今ココで逃がしてはいけない、と思った。

「クッソ、てめ、どけ」
「…どかねー」
「何の用だ」
「あのさ、ちょっとコッチ見ろって」
「断る。用があるなら聞く。さっさと言え」

思いっきり下を向いている新一だが、首や耳が赤いのが快斗の位置からはよく見えた。

―これって…

「さっさとしろ!」
「しんいち、あのさ」

ごくりと快斗は喉を鳴らして一度唾を飲み込んで、追いかけっこで乾いた喉を潤した。

「今日、帝丹に行ったのは、朝に顔見れなかったから」
「…日直だったんだろ、別にそんなん。ちゃんと起きたし」
「メシ用意してったの食った?」
「食った。弁当も。…サンキュ」
「ん。なら、いい」
「じゃ」
「違うって!まだ終ってねぇよ。俺は朝にでも言っておきたいことがあったんだ。でも新一よく寝てたし、早く起こして不機嫌な顔の相手にしたい話じゃねーし、だから、今日はソッチまで行ったんだ」
「だから!何の用だよ?!」
「キレんな。こっち見ろ」
「断る。聞こえてる」

快斗はガシガシと己の頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。だが、下手に囲いを解いたら往生際悪くまた逃げそうだし、と壁についた手に力を入れてグッと堪える。
しんいち、と再度呼びかけるも、あくまでの新一は顔を上げないつもりらしい。
しかし。
だったらそれでも構いやしねーと思った快斗が意を決して口を開いたときだ。

「じゃ、言うからな」
「っ、待て!!」

突然新一が伏せていた顔を上げて、快斗の口に片手を当ててきたのである。

「ふぁんへ、はなへ」
「言うな。言ったら駄目、だ」

再び新一の口から出てきた『駄目』という単語に、快斗はムカッと顔を引き攣らせた。
快斗は口に当たっている新一の手を取ってついでにぎゅっと握られているもう一方の手も取る―右手で左手を、左手で右手を―その手首を持ったまま、再び両腕をブロック塀に縫いとめた。
全くもって諦めが悪いというか、何というか。
でも、と快斗は思う。おそらく新一は快斗の言いたい事に気付いていて、それが昨夜までの―あの行為をする前まであった互いの関係を、これまでのモノとは変化させるものだと理解しているのだ。察しの良い探偵という人種だし。あんなことをして、痴態を見せ合って、恐らく快斗が新一へに向ける想いを自覚せざるを得なかったのと同じに、新一も、黒羽快斗という人間を意識したに違いない。
真っ赤な貌、かみ締めている唇。いつもなら強い意志を主張する青い瞳が伏せられがちに彷徨って。どうしたらいいのか判らないと訴える様は、昨夜組み敷いた時に見せ付けられた姿を思わせて、快斗の心臓もまたドキリと音を立てた。

「あのさ、今日ずっと俺のこと、考えてた?」
「!うっせ、てめ」
「俺も、考えてた。てか、もっとちゃんと言わないと、それこそ『駄目』だって思った」
「言わなくていい」
「嫌だ。いわねーと、どーせ新一は都合の良い推理しちまうから」
「推理なんか」
「ああ、推理じゃねーな。適当に説明つく言い訳?でも、ソレじゃ俺は困る」
「なにがだよ」

「新一が好きだ」

眼を見開いて凝視してくる『名探偵』を前に、快斗は真っ直ぐにその視線を受け止める。

「楽しい『恋人ごっこ』じゃなくて、放っておけないから傍にいるんでもなくて」

「新一が好きだ、って思ったから。だから、俺はちゃんとオメーと恋人になりたい」

「俺は、新一が好きだ」

かちり、と新一はどこかで思考の一部が嵌ったような晴れたような感覚を覚える。
一日ずっと頭の中でフワフワとしていた思考は、新一が考えるだけでは、ちっとも答えも整合性も取れなかったから。
見えない場所にあった材料が提示されて、少し、姿が見えてくる気がした。

「だって、オメー…」
「何だよ」
「女の子の方が好きだろ?!大体怪盗なんざ女タラシの―」
「そりゃ、好きだけど!それより、新一のが可愛いとか思っちゃってるしさー」
「かわ、い…って何だソリャ」
「イロッポイでも良いけど。前にも言ったろ、何かオメー見てると、すっげクルって。で、昨日もキタし。勃つし、気持ちいいし、もっとヤリてー、って思ったし。今も、困ってるなーとか思って、でもソレが可愛いのと面白れーのと半分くらいで考えてる」

ぐぐぐっと言葉を詰まらせ更に新一は顔を紅潮させた。可愛いだの何だのと女子に向けられるような形容詞を使われ、男に向かって何を言ってやがるのかと、苛立つ。けれども苛立つだけではない妙な自身の心持ちが不可思議でソワソワして仕方ない。跳ねる心臓の音のせいだろうか。いや、だったらこんなにも血が沸き立って脈打つのは何故なのだろう。

「宗旨変えか。野郎が可愛いわけあるか!単に夕べはアレだろ、性欲有り余ってて野郎にまで反応しただけだろ?!つか可愛いだのとか本気でそう見えるなら、今すぐ眼科か脳神経外科に行け!何ならロスの名医を紹介して貰ってやろうか?!そんで帰ってくるな!」
「変わってねーよ!どこも悪くねーし!大体男に反応してんじゃねーの、工藤新一だからだって言ってんだよ!聞けよ、テメェ」

かくして、あーでもない、こーなんだ、いや違うだろ、違わない、…快斗と新一の空き家の一角で行われた話合いは、結局終結を迎えることなく―ブロック塀越しに誰かが通りかかったのを機に―工藤家での延長戦へともつれ込む事になったのである。



  ■■ ■■ ■■


学校帰りの追いかけっこはそれなりに体力を消耗させ、帰宅するなり、新一は居間のソファにどかりと腰を下ろした。快斗も同じく、その向かい側のソファに腰掛ける。
とはいっても、快斗にとって、あの程度の走りこみは軽い運動程度だったが。肉体的な疲れよりも、快斗は新一の腕を掴んで(勿論逃亡阻止の為である)殆ど引きずるようにして帰宅してきたのだが、その間ムッツリと黙り込んだ―そのくせ顔を赤くしている新一に対してどう声をかけたらと思考が空回ってしまい、結局ロクな話も出来ずにいた時の精神力の消耗の方が激しかった。言うべき事は言ってしまった、と腹は括ったものの、色々想定外に思考だの推理をかっ飛ばす相手に真意がキチンと伝わったのが甚だ疑問だった。
帰りの道中、新一の口からは世界的に有名な脳神経外科医への繋ぎをどうつけるか、とか、まさか怪盗のモノクルはマジで近視か乱視用だったのか…とか何だか不穏な呟きが聞こえてきたし。
いつものように、コーヒーとココアを淹れてこよう、と一瞬思ったが、いやそれよりまず話だ、話が先だ、と快斗は思い直し口を開いた。

「もう一回言うが、俺は女の子が駄目になったとか、勿論野郎が好きな性癖になったワケでもなくて、新一を好きになった、んだからな」
「…んで、」
「気になってたのはもう、ずっと前から…って新一だって思わねぇ?」
「そりゃ…」
「最初はまぁ、オメェは怪盗の俺にしてみれば、厄介で…だけど面白い探偵でさ。小学生になってたり、なってても名探偵だったりって、気に入ってた。んで、高校生に戻ったのか思ってたら、イキナリ泣くし、留年しそうだし、元気ねーし、で。放っておけないってのがあったけど。でも、俺さ、お前といるの面白かったんだ」
「そりゃ、俺だって」
「色々気兼ねいらねーし、おもしれーし、で、もう少し色々知りたいつぅか、傍に居たい、って思った」

『恋人』という名目を好きに使って工藤の家に出入りし続けた快斗。
新一はそこで首をかしげた。

「…何でだ?」
「しらね。つか、嫌いになるには理由とか原因とかあるけど、好きになるのって何かワケって必要か?」
「あー…そう、か。な?」
「触ってみてぇな、って確かになんか、こう…肉欲的なモンが先にあったのは認める」
「やっぱ性欲か」
「でも、普通だったら、野郎になんか沸かねーよ。工藤の、肌とか見て、触りたくなったんだ」
「……」
「そんじゃー、オメーはどうだったんだよ」
「どうって」
「夕べのアレ含めてさ、俺が嫌いになったか?生理的に気持ち悪ィとか、何かあったんなら、言えよ。顔も見たくねー、逃げたくなる、って位嫌だったってことか?」

低く声を落として快斗は真剣に新一を見た。パッを顔を上げた新一は、その真摯な視線に眼も呼吸すらも絡め取られて動けなくなる。
ここだ、と快斗は再度確認するように問いかけた。

「なぁ、嫌だった?俺に触られるの。あと、俺に触るのも」
「……そういうワケじゃ、ない」
「―…良かった」

小さな返事に、快斗は強張っていた身体から力を抜いた。

「コーヒー淹れるな」

力の抜けた身体がズルズルとソファから滑り、その体勢から、よっと快斗は身体を起こした。快活に笑ってキッチンへ向かう。
背後で探偵が、へ?と気の抜けた顔をしていたが、快斗は気にしなかった。

―生理的嫌悪感が無いってんなら、あとは落とすだけじゃん

快斗にとって一番重要な事は聞けたので、結果は上々。
あまり追い詰めてもいけない。

―潔癖そうな相手は、そこんとこで駄目だと、厄介だけど…

夕べの反応は悪くなかったし。今日の様子だって、照れ隠しか、まだ新一の中で明確に答えが出ていない―もしくは明確にしたくない故の行動に違いない。
触れることを許容できているのなら、あとは接触回数を増やしていって、接触深度も頃合を見てMAXまで持っていけばいい、と快斗は考えている。
今夜も誘って、畳み掛けるのも手だ。
ただし、新一の気持ちが置いてけぼりではいけない、と快斗は自戒する。
そんなつもりじゃなかったと泣かれるのは御免だ。少々あの探偵は―探偵坊主の頃とは違って、精神的な揺らぎに敏感で、落ち込まれると後々が面倒だと十分思い知った。何しろ殺人未遂・泣く・哄笑する・逃走する、とバリエーションも豊富に快斗を振り回す。

「押すばっかりじゃなくて、恋愛テクとしては引くの大事だろ、ってな!」

ニヤリと快斗は密かに笑った。





「…んー…?」

キッチンへと姿を消した快斗の背中を見て、新一はむっと首をかしげた。
今朝から授業中もずっと悶々と考えていた事の一部はスッキリしたが、どうにも座りが悪い気がしてならないのだ。
何で、男同士なのに、という昨夜の行為については、快斗の行動や気持ちが何となくわかって、それで半分くらい謎が晴れた気もする。
けれど、肝心の自身の答えが見えてこない。
嫌ではなかった。それは決して嘘ではない。
しかし、今後もまたあんな恥ずかしい行為―下手をすればもっと恥ずかしい行いを出来るか、と言われたら、お断りしたい、というのが本音だ。

「…ちゃんと、恋人になる?―って、ことは」

ぽつりと呟いた。




「ブラックでいいか?疲れてるなら砂糖とミルクも持ってくるけど」
「いや、そのままでいい」
「ほいよ」
「サンキュ。…あのさ」

マグカップを受け取った新一は、立ってもう一つのマグカップを持っている快斗をじっと見上げた。

「…どした?」
「オメーは、俺との『恋人ごっこ』はやめて、普通に?『恋人』ンなりたいってことだよな?」
「うん。…ま、そうなるな」
「じゃ、現状は恋人じゃないって、ことだよな?」
「…は?」

一体何を言い出しやがったコイツ?!と快斗はマジマジと新一を見つめた。

「オメーが俺を好きだってんなら、…まずはオトモダチから頼むぜ。黒羽快斗くん?」
「ちょ、新一!?」

ニッコリと笑って言い放つ探偵に、怪盗はソレは詭弁だろうが!と言い募る。
対して新一が、だったらずっと恋人ごっこで構わないのか、誠意のねー奴だな!と言い返せば、快斗はぐぅと言葉に詰まった。確かにちゃんと恋人になるために一旦ごっこ状態を解消するのは間違ってはいない気もする。
でも、そうなると―

「じゃ、俺ダチでも不法侵入には厳しい方だから、勝手に忍び込むなよ?あと俺の了承なしにやらしー真似すんなよな!」
「ひでぇ!!恋人だって俺は思ってるって夕べ言っただろ」
「俺は思えないが」
「でも、出来ただろ。バッチリ反応してたクセに?!」
「うっせー!偶々だろ。大体お前の都合ばっか良すぎんだよ!そうそう簡単に流されてたまるかっつの」

快斗が、引くなんてテクを用いずに、とにかく押して押して押し流して有耶無耶に全部奪ってから関係を認識させれば良かった!などと後悔したところで、今更な話だった。

―惚れたモンの負け、ってこういう事か…









そんでダチ宣言したものの、快斗を意識し捲くって、てんやわんやな新一が…って、もう一生やってればいいんじゃないか…!

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