□番外7□


予定よりも早く黒羽の顔を見たのは、特別聴講の講義があった日の次の日の朝だった。
俺の講義は残すところあと二日で、黒羽のバイトも同じくあと二日残っている予定だったから、どうしてココに彼がいるのか解らなかった。
まさか酔って寝ているうちに講義が終了―二日もの時間が過ぎ去ったわけではあるまいな、などという不吉な事さえ考えたくらいだ。

「先輩、先輩…」と抑えた声量で呼び掛けながら、こちらを覗き込む黒羽の顔は固い表情だった。ついでに収まりの悪い彼の髪の毛が前に覆ってきているせいか顔色も悪く見えた。

「…くろば?なんでいんの?」
「俺が、俺の家に帰ってきたらおかしいですか」
「いや、だってお前、バイトは?」
「…お盆から入れ替わる予定だった奴が早めに現地に入りたいって言うんで、だったら仕事入れって部屋明け渡して、予定より早く上がる事にしたんです」
「ふぅん」

そっか、と肯いて俺は身を起こそうとした。だが、目の前の黒羽が動かない。
邪魔じゃねぇか。
グッと肘と背中に力を入れてすこし上に身体をズラして、上半身だけを起こす。頭がぐぁんと鳴った気がするが、堪えて起き上がる。黒羽は直ぐ近くに手に床をついて膝立ちのままの姿勢で、まだ俺を見ていた。

「どうした?どけよ」
「…先輩、あのさ、…アレ、誰?」
「は」

小さな、固い表情のままの硬い声で問う黒羽が首を向けた方に、俺も首を向ける。
俺が黒羽家で寝場所にしているのは居間である。いつもはカバーが掛けられクッション椅子代わりに使われている折り畳みのマットレスを長く伸ばし、その上に薄い敷き布団に薄手の軽い毛布を掛け簡単な寝床にしていた。
しかし、今起きた俺がいたのは居間のラグマットの上で。
いつも寝ていた場所には。

「あ、…ああ!?」

思わず声をあげ、壁時計を見る。
時計の針は、11時半を指していた。遅い、かなり寝過ごしている。

「いや、大丈夫?いやいや、わかんね、オイ!」

俺は黒羽を退けて立ち上がって、すやすや寝ているらしい男に声をかけた。
蹴りつけたい衝動を抑えながら、顔半分まで覆っている薄手の毛布を剥ぐ。

「起きろ!プリント配るんだろ?!教務員に頼みに行くって言ってなかったか?」
「…なんだね、うるさい」
「なんだね、じゃねー!ホラ大学行くぞ」
「ああ…朝か」
「ほとんど昼だ」
「新一…おはようのキスは?」
「わかった、永遠に寝てろ」

駄目だ話にならねぇと俺は自分の用意だけすることにした。昨夜着ていたボタンが2,3個しか止まっていない光沢のあるシャツを手早く脱いで、荷物を詰めていたボストンバッグから着替えを出す。仕立ての良い黒のズボンも一晩で残念な皺だらけのテーラー泣かせの有様になっていたから、手持ちのジーンズに履き替える。ジャケットも床に脱ぎ捨ててあった。これはクリーニングに出さないといけないな、と思った。

「あぁ…新一、さて、私の着替えはあるかな?」
「あるか、バーロッ!帰れって言ったじゃねぇか!」


「先輩!」

バタバタとしていた俺の動きを黙って見ていたらしい黒羽は、いい加減無視に耐えかねたのか大声を上げた。
ヤバイ、と俺はハタと我に返って黒羽を見る。共通の知人友人以外は部屋に上げない、と言っていたのだ。

「スマン、これには事情が―」
「誰なんです?このオッサンは」

苛立った声。睨むように見られて思わず息を呑んだ。滅多に無い不機嫌顔は確実に怒りの為だ。
『コレ』と黒羽が親指で示しているのは、当然、他人の家の簡易な寝床で上体を起こしボサボサ頭でしかも真っ裸らしい男。―何で裸?!と改めてギョッとしたが、見れば壁の釘打ちに、ちゃんと昨夜着ていた服がハンガーに吊るされている。テメェ自分のことだけチャッカリしてやがるな!と軽くムカついた。
しかも、奴は黒羽を見て俺を見た後に顎を一撫でして、面白そうに「フム?」と呟いた後、ニヤリと笑って口を開いてのたまう事一言。

「誰かね?私は」

俺の親父です、とは絶対に言いたくなかった。

(大体、勝手に付いてきて、勝手に余所家の人の布団を乗っ取ったんだから、テメェで身分を明らかにして、黒羽に感謝するなり謝るなりしやがれ、この野郎!)
罵倒しそうになるのを押さえるため、斜め下を向いて、表層的事実だけを明らかにする。

「…あー、うん、…藤峰優作」
「…って、作家の?!あれ、でも」
「新名先生が来れなくなったとかで、急遽ソイツが昨日の特別聴講の講師したんだよ」
「へぇ…。で、その作家先生がなんで俺ンちにいるの。しかも裸って」

黒羽は不機嫌なままだ。追求を止める気配はない。それもそうか、とも思うが、時間が圧しているので勘弁して欲しい。

「……あー…」
「いやいや、彼とはとても親しくてね?久しぶりに一緒に呑んだんだよ」
「あ、呑んだのは外な。駅前まで出て」
「そうしたら些か呑みすぎてねぇ。新一に家まで送って貰おうとしたら、ここにお世話になってると言うから、どういう所か興味が沸いてね。私も泊まらせて貰ったんだよ。勝手に済まなかったね」
「……」
「俺は帰れって言ったんだ!」
「お前がいないのに、寂しいだろう?…結局一晩しか相手をしてくれない」

全く薄情な子だ、とワザとらしく溜め息を付いてみせた後、自称寂しがりやの作家様はようやく着替えを始めた。

「一晩で十分だろーが」

ケッと毒づいて、俺も持っていく物の準備を始める。
黒羽は黙って壁に寄りかかって俺達の様子を見ていた。

「では、失礼するよ」
「あ、俺も。生協でメシ食って講義行くから出るな」

黙りこくっている黒羽は気になったが、玄関の扉を開いて工藤を名乗っていない親父の後に続こうとした。
しかしそれまで押し黙ってジッとしていた後輩が、背後から声をかけてくる。

「先輩、ちょっと待って」
「…なんだ?」
「お土産あるんです。佐藤さんにも会うでしょ?少しだけど持って行って欲しいんで」
「あ、ああ」

それから、玄関の扉に手を掛けて、俺が出てくるのを待っているらしい作家に黒羽は笑いかけた。

「良かったら、今度俺も先生の話が聞きたいです。…ちょっと先輩お借りしますね」

そう言って、バタンと閉じた扉を背にした黒羽は、玄関先で靴を履きかけていた俺を振り返って、やはり笑った。

「誰?あの人」
「だーから、…作家?」
「なんで、そんな人と仲良いんですかね?スゲェ親しそうでしたけど」
「まぁ、色々」
「なんで、勝手に家に上げたの」
「それは、…悪かった」
「どういう付き合い?」
「どういう…」

どうもこうもない、血縁である。まごう事なき直系の。
しかし、俺は答えるのを一瞬躊躇ってしまった。
はっきり言えば親父は世界的著名作家の一人であり、ソレが周りに知られた場合に起きる、大抵嬉しくない出来事が脳裏に甦ってきたせいだが、どうもその沈黙がいけなかったようだ。黒羽は視線を逸らそうとする俺に苛立ったのか、スッと腰を落とすと玄関口に座る俺と目の高さをあわせてきた。そんなに広くないアパートの玄関口だから、黒羽の身体は―顔は本当に目の前だ。さすがに、その状態で無視は出来そうにない。俺は、しぶしぶ黒羽に向き合う。ふわっ、と一瞬海の匂いがした。
(そういや、コイツいつ帰ってきた?)
朝一で向こうを発ったのだろうか。折角のリゾート地なんだから少しぐらいゆっくりしてくればいいのに。

「あのさ、…先輩、まさかとは思うけど…付き合ってたりすんの、あの人と」
「はぁ?!どういう意味だ」
「一緒に寝たりする、の付き合い」
「……寝る、の定義が要るな」

なんだか黒羽の脳内では俺と親父の関係がおぞましい事になっているのではないかと、その聞き方と表情から推察された。これは早々に関係を明らかにしておかないと、聞いただけでダメージを受けそうなことを言われかねねーな、と思う。
あのな、と言おうとしたら、それより早く黒羽が口を開く。

「だって、あの人裸だったし」
「着替えの事考えて脱いで寝てたんだろ」
「先輩も服乱れてるし、ってか見たこと無いすっげ高級そうな服?着てたし」
「あー…高いは、高いな」
「プレゼントされたんだ?」
「まぁ、あの服持ってきてホテルで食事に付き合えって夜中にイキナリ言われたんだよ。昨日講義と…雑用が終った後、どこで調べたのか黒羽ンち突き止めやがってさ。んでも、下手にホテル行くと何されるかわかったもんじゃねぇし。近場の飲み屋で呑み比べみたいな真似して、何とかココに帰ってきたんだよ」

はあぁと息を吐きながら夕べの事を思い出す。
ノック音に扉を開けたら、別れた筈の親父の姿。
咄嗟の判断で扉を閉めようとしたが、そんなことは予想していたのだろう。素早く足を戸口に突っ込んできて、コチラの動きを止めた。そして、大きな荷物からスーツ一式を出して、さっさと着て、付いて来いと言う。割と本気の眼だった。圧力に負けて引きずりだされた俺は、次に目が覚めたときに何処にいるか解らないような目に遭わされまいと、『俺が』『親父に』『オススメしたい』場所―なんてものをでっち上げて、そこで相手も身動きが取りにくくなる目に遭わせるべくガンガンに酒を注いでやったのだ。
思惑は半分成功して、目が覚めても俺が居たのは日本で、馴染みの場所で、無事今日も講義に出られる=単位確保なのだが、したたかに酔った為に後輩との約束を破ってしまって半分は失敗だ。
コイツも早く仕事が終ったのなら少しぐらいリゾート気分でもしてくればいいものを、と開き直りのような不満をつい抱いてしまう。ついでに、少し日に焼けた顔だな、と。数日前別れたときとは少し印象の変わった容貌を眺める。顔や首と同じく、半袖から覗く腕も焼けていた。リゾートホテルの主にウェイターや、時間帯によって各種雑仕事を日々割り当てられてこなしていると聞いたから、きっと外で紫外線を浴びるような事も多かったのだろう。髪の毛もなんだか赤茶けている気がした。

「で、おはようの、キス?」
「は!?」

暫く黙っていた黒羽は不意にそう呟いて、そして。
明るくなった髪が柔らかく俺の額辺りにかかり、唇に一瞬だけ俺のモノではない吐息がかかって、触れる、感触。

「……な、」
「さっき、しそびれてたみたいだから?俺が代わりにただいまのキスを」
「ばッ、か…何し」
「んじゃ、おはようのキスも?」
「んん?!」

再び唇に当たる、軽く触れてくる黒羽の唇に、俺は慌てて黒羽の肩辺りをドンと押した。大した衝撃でも無かっただろうが黒羽は簡単に身を引いてスクッと身体を起こし、玄関の扉を開けた。

「…お待たせしました?」
「いやいや」
「ぇ…!?って、」

開けた先にまだ居た男の姿に、俺はさっきされた事も併せてカァアアアアッと頭に血が上る。

「テメッ!立ち聞きか!?盗み聞きか!!?」
「コラコラ、人聞きの悪い事を言うもんじゃない」
「先行ったんじゃねぇのかよ!?」
「ハハハ、私の仕事は昨日で終っているよ?プリントの件はさっき大学に電話を入れたさ」
「……だったら帰れ!今すぐ帰れ!」
「そうだね。新一も連れて行くつもりだったが、面白いものが見れたから、良しとしよう」
「何見たってんだ!?」
「若さ、というのは…素晴しくもあり、愚かしくもあり…まったく面白い」

にやにや笑うばかりで答えようとしない。扉は閉じていたはずだ。だが黒羽がポツリと「悪趣味」と言った事と、この異様に上機嫌な様子から、先程の遣り取りが聞こえて、どうしてかそれが面白かったのだ、というのは解った。

「そうそう、黒羽くんといったね?」
「…はい」
「改めて自己紹介をしておこう」

親父はニコニコと笑っている―俺の眼には、尻のあたりから矢印がついた悪魔の尻尾を振っているように見えた。
黒羽もその笑顔に不穏な何かを感じたのだろう。眉を顰めて用心深く先を促す。

「私は藤峰優作というペンネームで活動している作家で」
「…ええ。著作を何冊も読ませてもらってます」
「それは、ありがとう。本名は工藤優作と言うんだよ」
「?…く、どう?」
「工藤新一の父親だ。よろしく」
「…ちち、おやぁ!?」

素っ頓狂な声が上がった。
呆然とする黒羽に、色々面倒になった―親父の説明は元より、さっきのアレへの追及とか、そういや土産はどうしたとか―俺は、「帰ってきたら話す!」とだけ言い、黒羽の反応に満足げにニヤついていた親父をせっついて、その場を後にしたのだった。











続く
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