□番外4□ 目前に迫った夏の長期休暇は喜ばしい事だったが、この夏休みに海の向こうからやってくるらしいある人物が、俺の頭を悩ませていた。 4コマ目までが終わった後、2時間程度空いてから受けねばならない夜間講義に向けて学食で夕飯のような間食を取っていたら黒羽を発見したので、仮眠を取らせてもらおうと声をかけた。今日はもう帰るだけという黒羽は快諾してくれて、学食でデザートにと購入したものの手をつけなかったアロエヨーグルトを貢物に部屋に上がる。学生身分にしては、少し広い2DKの部屋。知り合いの持ち物を安く借りている、という話だが、この辺りの学生アパートの中ではかなり高ランクの物件だと思う。都合のいい知り合いがいるものである。 収納が多い為かダイニングはスッキリしていて、趣味の良いテーブルと椅子が置かれているが狭い感じもしない。2部屋のうち、1部屋はベッドと机のあるありふれた学生の個室の風だが、もう一部屋は居間とも客間とも機能する簡素な部屋で、俺が黒羽の部屋にお邪魔する時は、その居間のような客間でノートパソコンンが乗る程度の小さな机を借りて本を読むか、柔らかなラグの敷かれた床でゴロリと横になるかだった。 黒羽はマメな人間らしく、どの部屋も大抵綺麗で(彼の私室の一角にレポート用紙や参考書が山積みになっている程度で)、居間(兼客間)には、細身のクローゼットと姿見の他には本棚があり、そこに見慣れたタイトルや見てみたいと思わせる本が並んでいたりするので、つい手が伸びる。本を読みふけっていて、喉が渇いたと思うと丁度いいタイミングでお茶やコーヒーが出てくるので、居心地が良い場所だった。 「あのさぁ」 読みかけの本を閉じゴロゴロと人ン家の床で転がった後、俺はうつぶせで肘を立てて少し上体を起こして、居間の机でノーパソに向かって椅子に座っている相手の足を擽った。 ガタンっと大きく音を立てて、足が跳ね上がる。くすぐったがりだったか?と少々面白くなって、もう片方に手を伸ばそうとしたら、踏まれた。 先輩に向かって失礼な。 「おい」 「やめましょーね?先輩。危うくデータ飛ぶところでしたよ。レポート終らねぇじゃねーか」 「修行が足りねぇな、修行が」 「ほっほー?」 足をどけて、そのまま背に乗ってきた後輩は、脇腹を探ってきた。 「先輩……いい声出してね!」 「…はッ、ちょ、やめ…ひははははは」 「修行ですよー先輩」 ワシャワシャと弱い部分を擽られ、息も絶え絶えになってくる。 「ははひ、 や、…めッ…はっ」 ヒーヒーという声も切れ切れになったところで、攻め立てる手が止まった。なんだか、慌てて飛びのく黒羽。 「調子乗りました。背中にも乗ったけど、…すいません」 「は、ぁあー…くすぐったかった。なんで正座だよ?勝手に反省してんじゃねぇよ」 「あー…ちょっと事情が。…って、顔赤いし!大丈夫ですか!?」 「? あんな笑ったら、息苦しくもなるだろ」 よっと身体を起こして胡坐をかく。目の前の黒羽はやっぱり正座だ。しかも微妙に前かがみに。ついでに顔も赤い。お前の方が大丈夫かという按配だ。だが、まぁ、コイツが妙な行動を取るのは珍しい事でもないので気にしないことにして、あのさ、と俺は話し始めた。 「夏休みは故郷(くに)に帰るのか?」 「故郷はココなんで、別に?」 「?…実家のことだぞ」 「えっと、電車で20分くらい?」 「…なんで、お前一人暮らししてんだ。母子家庭って言ってたよな?オフクロさん一人にしてるのか?」 「一人暮らしの経験は大事なんだぞ、ということで追い出されたんで」 飄々と笑って言う黒羽に暗い所はない。 まぁ家庭の事情というやつなのかもしれないと、ふーんと頷くだけにしておく。 「夏はリゾートバイトに出るんだっけ?」 「ハイ。7月の終わりからお盆前までの短期ですけどね」 「盆前?掻き入れ時に辞めてくるのか?」 「さすがに盆暮れは親ン所に。墓参りもあるんで」 「そうか…」 不在になる居心地の良い後輩宅。 期間的には丁度いい。 口にするか迷っていた、かなり非常識な頼み事を、思い切ってしてみようか。 「先輩は、短期講習でしたっけ?俺も出たかったなァ…。現役ナマ作家の特別講義もあるんですよね?学部限定って勿体ないっての」 「ああ…あのさぁ」 「?どしたんです」 「あのさ、俺…」 「はい」 「ココで暮らしても良いか?」 「………はい?」 たっぷり1分程度の時間、黒羽は信じられないものを見る眼で俺を見てきた。確かに唐突だし答えようが無い話かもしれねぇや、と。駄目だったら、別に良いんだけど、と慌てて呆然としている黒羽に手を振る。意識が飛んでいるようだ。そんなに変な話だったのかと焦る。ちょくちょく訪れる部屋だから、気安く考えていた自分が恥ずかしくなった。「悪い、忘れろ」と言うと、ハッとして黒羽がまくし立てた。 「悪くない、悪いワケ無いけど。むしろ、良いの?ってコッチが聞きたいですよ、先輩?!暮らすって、ココで、俺ンちで、寝起きして毎日お泊りってコトですよね?狭いけど、良いの?ホントに!?」 「ああ?いいのか?借りても」 「何でも貸しますよ、俺ので良ければ」 「…お前、気前いいな。でもありがたい、助かる。丁度お前がバイトの期間だから、留守番がいると思ってくれよ。なるべく綺麗に部屋とか使うし。勝手に人上がらせたりしねぇし?ん、お前が戻ってくるお盆前には出て行くしさ!」 「……は?」 「え?ああ、光熱費と水道代はちゃんとメーター計って払う。部屋代は日割りで入れるようにするぞ」 「ちょっと待って、先輩。それはどういう意味ですか」 「?だから、お前がバイトで居ない間、この部屋貸して欲しいって話だろ」 「……バイト断りますから、ちょっと待ってて!」 「はぁ?部屋明け渡すのが嫌だったら、別に良いって言ってるだろ?!」 「じゃなくて!先輩の貸して欲しいって部屋?!部屋だけ!?」 「ったりめーだ!いや、部屋に備えついてる家電とか風呂とかも借りるつもりだけど」 携帯をパカッと開いて、本当にアルバイトを断ろうとしている黒羽を押し留めて、微妙に行き違ってる俺の申し出を解説する。 「夏休みの、ちょうど特別集中講義のある期間、ちょっと家に居たくねぇんだよ。で、避難場所探しててさ。大学には行かないといけないけど、この辺って、学生アパートばっかりでウィークリーっマンションて無いだろ?だから、黒羽が家居ないんだったら、ちょっと仮住まいさせて欲しいんだって」 「……」 「で、俺の滞在でかかる費用はちゃんと払うし、勿論謝礼もする。勝手に部屋漁ったり、人上げたりしないし、あと何か言いつけがあれば聞く。だから、7月の終わりからお盆前の…2週間位だな。ココに居たいんだけど…駄目か?」 「……なんで、ちょうど俺がバイトの時に!」 「だから、講義があるだろ?ソレ出るのに、暑い中通うのがまず嫌なんだよなァ…」 「あー、そういうワケで。それ以外は?」 「まぁ色々?」 「秘密?」 「……んー、でもないよな、その方が良いような?」 曖昧に言葉を濁す俺に、黒羽は何とも言えない視線を送って先を促すように沈黙する。けれど、俺としてもそれ以上のことを説明する気にはなれなかったから、「ま、ちょっと考えてみてくれよ」と言って、退出の準備を始めた。黒羽に背を向けて、出していたノートや本をゴソゴソと纏めていく。背中にはっきりと視線が向いているのが解ったが、あえて無視。妙な申し出をされた黒羽になら、詳しく話しても良いような気もするけれど、ソレを説明するのは些か面倒で。元々駄目元での話のつもりだったから、面倒な説明は省かせてもらう事にした。 「そろそろ行って席取らねーとなぁ」 「あ、こっちのノート見たいです」 居間のテーブルの載せていた何冊かのノートの内の一冊を黒羽が取り上げる。俺が殆ど趣味として追っている犯罪事件のルポ的な、法律や判例と照らし合わせての考察や何かと綴ったノートだ。新聞の切り張りとかが雑多に混じっているコレは、どうやら黒羽のお気に入りらしかった。 「ああ。…そんな面白いか?」 「俺、先輩の言葉って好きだからさ。こないだの書評も面白かったし」 「そか」 褒められて悪い気はしない。なんとなく恥ずかしいが、黒羽はサラリと読んで、端的に感想や視点違いのツッコミをしてくるので面白い。重箱の隅を突くようなミスは黙って添削してくれるので、ある意味便利な読者だ。 「先輩は記者志望だったりする?」 「ん〜別に。ナマの事件を追う気は……無ぇか、な」 「ふぅん?でも新聞見て、よく唸ってますよね?たまに警察に電話して問い合わせたり」 「…あー…よく知ってるな?」 「京極さんに、昔は探偵みたいなことしてたって聞いたんで」 「ああ、京極か…」 コレだから大学関係者と昔馴染との接触はあまり嬉しくないのだ。忘れてはならないと思いながらも、ホンの少しだけ目を逸らしたいと思っている部分に、何も知らぬ顔で不意に触れてくるから。 俺は壁時計に目を向けた。つられて黒羽もそっちを見て、「あ、時間ですね」とポツリと漏らす。ソレを機に、俺は黒羽の家から去った。 わざわざ戸口に持たれて見送る後輩の視線はずっと俺に答えを問いかけるものだった。 その日の夜に、『部屋の件:了解。バイトは断れなかったので俺ンちで一人暮らししてください』とメールが来た。 やった、と一人きりの広い家の自室で呟いた。 □ □ □ 「そんじゃ、留守頼みますね」 「おー。任せとけ!」 勝手知ったる後輩宅で、当の後輩ご本人のお見送り。 思いのほか身軽なナリで黒羽は家を後にした。およそ2週間の外泊をするようには見えなかったが、向こうで制服が支給されるし、夏の天気も乾燥機もあるから着替えなどチョッとしたものだけだという。むしろ、盗難や忘れ物をする可能性を考えれば物は少ないほど良いらしい。「本当はノーパソも置いてく方が良いんですけど、調べ物とかレポートもしたいし」と言う黒羽に、ナルホドなぁ、と思った。 留守宅を借りるに当たり、黒羽の要求は、想定内のモノとしていなかったモノが一つだった。 一つは、俺も黒羽も知る共通の知人(といっても、佐藤か京極しか思い当たらない)以外は、家に上げない。上げるときは予め電話でもメールでもいいので了解を取って欲しいということ。 もう一つは、俺の黒羽家滞在期間に不定期でFAXが送られてくるのを、住み込みバイト生が使う集合寮の黒羽宛に転送して欲しいとのことだった。 転送自体を直ぐにして欲しいから、できれば大体の受信時間である夜8時以降は家に居て欲しいという。夏の講習は殆どが昼の時間で済むので構わなかったが、黒羽はかなり気を使って言い難そうに頼んできた。まぁ確かに毎日夜8時以降は家に居る、という事にはなる。だが、俺としてはどうせ講義が終れば冷房の効いた図書館で過ごす予定しか考えていなかったし、出掛けるとしても夜半に及ぶような用事を入れるつもりも無かったから別に良いのだ。家に帰らねばならない理由があるのは、不便ばかりではなく、時に便利に使えるので俺は二つ返事で了解した。黒羽はホッとしたようだった。 そうして、仮住まいの夏休みが始まった。 |