□囚守・その後□ 暗闇のなか、形を晦ませ身を潜ませる何かが跳梁跋扈する新月。 ―その深夜。 男は、ある一軒の家の窓辺に舞い降りた。否、彼の家にはベランダなどなかったので、屋根に降り立った後黒塗りのハンググライダーを折り畳み、スルスルと移動して、狭い木枠に足をかけて開いている窓から中を覗き込むという些か間の抜けた姿で、まさにコソ泥よろしく現れたわけだが。 「…何度も言ってるが、そこはな、玄関じゃねーぞ」 「存じておりますよ…っと」 開いていた窓からヌッと身を捻り込ませて侵入してきた人間を、咎めるでもなく呆れた声が出迎えた。ストッと床に降りた男からは小さな衝撃以外物音一つしない。猫のような身のこなし。 「アンタさ、あのさぁ…お忘れ?一昨日、結構凄い騒ぎなかった?」 「んー?あ、」 「うん、もうね、そうかなって思ってたけど!」 工藤の部屋の机を見た黒羽は、直ぐに理解せざるを得なかった。 切り抜かれた新聞紙、分厚くファイリングされた資料、そして、アレは先日から騒ぎになっている連続殺傷事件現場の写真だろう。 檻の番人の役を降りて、世間というのもに触れた工藤は、不謹慎ながら喜んでいた。 世界にはなんと多くの謎が溢れていたのか!と。 檻を覆う檻の外に引っ張り出された彼が、解かれるのを待つ謎だの事件だのを追いかけ出すのは当然のことだった。追いかけぶりが世間に徐々に知られるようになった最近では、追いかけずとも持ち込まれる事さえある。 しかし、その点につき不満を持つ、男が一人。 「俺の事、放っておきすぎじゃないですかね?」 「だって、オメー…ホラ、持ってきてんだろ?寄越せよ」 工藤がひょいと手を出せば、ポイと無造作に乗っけられる男の獲物。 なんでも伝説の石とかを探している男は、目的のモノでないものには何も興味が無いらしく、工藤が追いかけ―追いかけなくとも、望めば素直に返してくるのだった。(そもそも権力者達の懐に忍び込んでいたのも、もとは石の情報を探る為―ただそのついでに色々画策した挙句とある政治家の裏工作に不覚にも巻き込まれての拘置所行きだったらしく、話を聞いた工藤は『間抜け』と素直に感想を漏らして、男をかなり凹ませた) 目的物以外は返却。 その事に気がついたのは、ある夜、不機嫌な顔で怪盗がわざわざ探偵の家を訪ねてきた時だ。ちょうどその頃は、稀に見る難度の高い密室事件と鬱陶しいストーカー事件が併発していて、予告状を解きはしても現場まで行く暇がなかったので、なんだか久しぶりだなぁと思ったものだ。 しかもその時、工藤自身が発生地となったストーカー事件はある意味佳境を迎えており、まんまと自宅で簀巻きにされかけていたという犯行真っ只中。 煌々と目隠しの向こうで点いていた明かりが急に消え、己を拘束せんとしていた不埒者の手も消えた。 一瞬の出来事。 すぐに明かりと視界が回復し、そして工藤が目にしたのは、縄でグルグル巻きにされ、白い奇天烈な衣装を纏った男に足蹴にされている男と、足蹴にしている男。 どちらも、工藤にとっては得体の知れない不審者である。が、少なくとも白い方は工藤を助けたものであるようだ。ゆえに、工藤は不審者だけを警邏に引渡し、その後じっと部屋の隅で不機嫌そうな顔で突っ立っていた男に来訪理由を尋ねてみた。 良からぬ事を口にするならば、勿論すぐに第二の警邏隊を呼び寄せるつもりだった。しかし、意外にも彼は懐から大粒の宝石を取り出して、『返しといて』と言って渡してきたのである。 怪盗を追う現場においては、何度か彼が『今日のところは降参で』だの『引き分けにしましょうか』だの言って、獲物を返す事があった。 追い詰めるか逃れるかという勝負の結果としての、工藤への敗北の象徴としての返却行為が、実は男が工藤と会話をしたいが為の単なる口実であったなどと、どうして知ることが出来ただろう。 そうだと察した時、工藤は怒り狂った。 宝石を返却することまで怪盗の手腕のうちならば、結局工藤は彼に負けているし、捕まえてもいないのだから、大負けもいいトコロだ。 そう思った工藤は、暫くの間怪盗からの予告状を尽く無視した。暗号は解いても現場には行かない。怪盗に唯一対抗し得る者として協力を頼まれても、なんだかんだ理由をつけて引き受けない。 しかし、そうすると又も怪盗の方がやってくる。 『名探偵ともあろう者が招待を無視するなど名折れもいいところ』などと言うのはまだしも、挑発に乗らない工藤に対して、段々と『なんかまた事件があったのか?』だの『困ってるなら手ぐらい貸せない事もねーけど?』とお伺いの言葉が増やされ、しまいには『体調悪いの?』と心配までしてくる有様に。 そういえば、獄中にいる時も、工藤が誰か(主に男)に言い寄られたり襲われたりしていないか非常に気にしていた男だった。 根は、良いんだよな、多分。そう悪い奴でもない。と、つい思ってしまった工藤。 とうとう怪盗が『こんばんは』と出没するのを『よう、またか』などと容認するようになってしまったのだった。 「コソ泥は馬鹿で阿呆だが、人は、死なねーだろ」 「まぁ、そっちは興味ないし。工藤、嫌だろ」 「俺がどうとかじゃなくて、するなよ?で、まぁ、やっぱり」 「まだ捕まってない殺人犯のが大事ってか」 「次が起こってからじゃ、遅ぇんだ」 「ま。確かにねー」 ふむふむと肯きつつ、男は資料に手を伸ばす。 彼は自分を追うために、外の世界にやってきたはずなのに、ともすると自分以外の何者かを追いかけている。 良くない。とても、宜しくない。 彼を檻の外の世界に引っ張り出して、後悔したことが何度かある。―というか、後悔しっ放しともいえる。 何しろ、こんな綺麗で可愛い人が、他の誰かの眼に留まらないはずはなかったのだ。 獄舎にあってさえ、彼の同僚やら上司やらが邪な眼で彼を見つめているのを知っていたし、同じく檻に叩き込まれている野郎ドモが、汚らわしい手で彼にどうにか触れようと画策しているのをよく小耳に挟んだものだ。独房にありながらも、禁錮刑の者でも、適度な運動は必要とされ、狭いながら他受刑者のいる運動場や奉仕活動に狩り出される機会があったので、どうにも良くない事を仕出かしそうな手合いに対しては、他受刑者と混じるその機会に乗じて噂と猜疑の種を撒く事で、そういった不埒者が他者の手により痛い目に遭うよう仕組んだりしていたのだ。しかし強硬手段は諦めながらも、工藤刑務官の勤務場所や時間をせつせつを調べて、こっそりご尊顔を拝見したいというFANとでもいうような人間は引っきりなしに現れ、黒羽を精神的にドッと疲れさせたものである。 工藤とて元刑務官である。護身術にも棒術にも、居を変えてからはナイフの扱いにも慣れつつあったハズで、実際黒羽は手合わせをしてみて、かなり彼が強い事を知り嬉しくなったものだ。 ―だのに、ある日、会えない寂しさに耐えかねてコッソリと訪れて見れば、不審者に手篭めにされかかっている探偵の姿! コレには、黒羽もプチンと切れた。不審者を退治するだけでは飽き足りない苛立ちが募った。 彼が不審者を警邏に引き渡した後、部屋に戻ってきた彼を、いっそその場で襲ってしまおうかと思ったほどである。 やっと冷たい鉄の檻に阻まれる事なく、触れる場所にきたのだ。他の誰かに奪われるなど以ての外。 しかし、彼の青く綺麗な瞳を前にして、出来た事といえば、その場に自分が現れた理由を、こじ付けのような口実を示す事だった。 駄目なのだ。弱いのだ。あんな薄汚れた場所にあって、薄汚い人間の本性や欲望を、腐敗を堕落を数限りなく見てきたはずなのに、そんなモノを真っ直ぐに見てなお濁りもせず、鋭く時に優しい光を宿す青い瞳には。 結局、シンプルに。 最初の目的通りに。 彼が己を欲しいと思ってくれるように頑張るしかない、という結論に落ち着いた。 落ち着いたはいいが、どうも宝石を彼に渡した事が彼の怒りを買ったようで、なかなか語るも涙の努力が始まったワケだが。 外の世界について些か物知らずの彼の手助けは勿論として、拘置所内で彼が得意武器にしていた警棒の改良版を手製して貢いでみたり。(勿論現場でその威力を―彼が扱った場合の威力の凄まじさを味わうことになった。マゾか俺は、と怪盗は流石に後悔した) また、あの工藤刑務官が外に出てきた(何しろそれまでは国一番警備が厚い場所と言われる警邏管轄指定居住区に彼は住んでいた)と聞いて、善からぬ事を企んで元受刑者が寄って来るのを、影に日向に蹴散らしてみたり。(中には穏やかに更正した姿を見せに来る者もいたが、出来る限り問答無用で阻止しまくった。何しろ刑期を務め上げた彼らは工藤の心象が悪くなく、嫉妬9割が占めていた) 更に、犯罪者の心理は現役犯罪者のほうが良く判ったりしますよ、などと言っては、彼の手伝いをしてみたり。 彼の好きな暗号を、予告状と関係なく、それとなく贈ってみたり。 とにもかくにも頑張ったお陰で、少しの軽口と柔らかな接触を、ホンのちょっとは許してもらえる最近である。 黒羽は、もう少し、もう少し。焦らない、焦らない。と、逸る心に言い聞かせる日々なのだ。 今もまた、無遠慮に椅子に座って、机の上の資料を見て、どうすればこの現在工藤の心を占めている馬鹿者を排除できるのか考え―被害者に外見的共通点があるのに気付いたので、言ってみる。これなら手伝えそうだ。 「これさぁ、囮したほうが早そうじゃん」 「やっぱ、オメーもそう思うか」 椅子の傍らに立ち、工藤は男の顔を見る。 今夜の男は、悪目立ちする姿ではなく、闇に紛れる黒パーカーに黒ジーンズという軽装だった。目深にかぶった帽子から、ぴょんぴょん跳ねる髪は地毛なのか。 獄舎の中では罪人は皆坊主頭だったから、髪の毛があるだけで別人のようなイメージになることを、男を見て初めて知った。(脱獄から怪盗の初出現までかなりの時間が空いたのは、髪が伸びるのを待っていたからだが、そんなのことは怪盗だけの秘密なのだ) 「手先器用で変装上手な黒羽快斗がお手伝いしましょうか?私の名探偵」 「…黒羽ならな」 「オッケ」 工藤は、伸びてきた腕に捕らわれ、ぐいっと身体を引かれて。 椅子に座ったままの男に距離を詰められて、座った膝に乗り上げねばならない近さで、工藤は何とか腰を折りつつ耐える。 「お手伝いの、手付け。欲しいなぁ」 殆ど息の掛かる距離。 合わさった眼の中で、愉悦を含んだ悪戯めいた笑いが浮かんでいる。 拒絶しようかどうか、まばたき一つ分の間だけ迷って、仕方ないな、と囁いた。 「勝手にとってけ」 「イタダキマス」 言うが否や。 元脱獄犯の現怪盗は、元看守で現探偵の唇を掠め取っていった。 怪盗を追う探偵の己。時々、追いかけているのではなく、彼の周りをただぐるぐる回っているようだと思う。出会った時から、捉えどころが無くて、脱獄犯だ犯罪者だと思いはしても、やっぱり憎みきれなくて。近くに見えるのに、どうしてかずっと距離は開いたまま。悔しさに地団駄を踏むのだけれど、段々と寂しさが襲ってきて、一体己はこの怪盗に何を望んでいるのだろうかと自問自答を繰り返す。 追われるために彼の前から逃げたのに。彼が動かないと知ったら、今度は己が彼の周りをぐるぐる犬のように尻尾を振って回っている。まったくもって納得のいかない事態。思い通りにならないヒトに、振り回されてはまた引き付けられての繰り返し。本気で欲しいヒトの前から、どうして本当に逃げ消えてしまえるものか。けれど、己の使命を果たす場に於いては、やはり確実に彼から逃げねばならないのだ。矛盾が過ぎて、自縄自縛に陥るばかり。 ―いっそ、おちてしまえばいいのに 唇の温もりとか、指先から伝わる熱とか。 こんな風に近くにいると、どうしていいのか、どうしたいのかが、どんどん曖昧になっていく。 ―探偵として。 ―怪盗として。 対峙している瞬間が、もっとも互いの立場と使命に迷わなくて済む、なんて。 互いが互いに譲れぬ矜持を抱えていると知りながら、互いが互いの墜落を望んでいる、月の無い夜のこと。 |