■A級■ □(快新)□ ほら、ご覧 白い鳩が空を飛ぶ。 「なんだって、こんな事になったんだろうねぇ」 工藤優作は森の中、一人歩きながら呟いた。 誰も彼が此処を歩いているのを知りはしない。とは言え、見つけるのは容易いだろう。見通しの良い、手入れのされた人工的な森林の中。しかし、今日のこの日の主役は工藤優作ではない。それを良いことに、そっとそうっと抜け出した。 だが、暫くすれば誰かが探しに来る筈だ。いっそ、逃亡してしまうのも手かもしれない、とも思う。よく、締め切り間近に使う手だ。その気になれば、とりあえず数日は見つからずに、誰にも会わずに過ごせる場所を、工藤優作は常に確保している。 「君はどう思う?…空の上の奇術師よ」 森の葉の間から優しく注ぐ光の中、白い翼が閃いた気がした。 □ □ □ 工藤新一が、高校卒業と同時期に両親からの援助ストップを喰らったのは、間違いなく愛の鞭と例えられるモノだった。 広い屋敷の高校生の一人住まい。家の光熱費や修繕費など、工藤邸の維持にかかる金銭は勿論、一人暮らしの学生の必要経費として、工藤夫妻は十分過ぎるほどの資金を一人息子に与えていた。もっとも、それは家族共有のクレジットカードや、新一名義のキャッシュカードのみで、通帳の方は夫妻が管理し、不自然な金の動きはないかと監視するという約束の上でだったが。 対して一人息子の方と言えば、お目付けのついた金を使う事に些か躊躇いがあり、早々に購入したパソコンを使って、株に手を出したのだった。探偵の持つ慧眼のお陰か生来の勘の良さか。手堅く張って月々の収支を黒字にした新一は、高校卒業と同時に海外留学を目論んでソレをこっそり貯めこんでいたのだが、ある時両親にソレがバレたのだ。 子供の独立心を圧し折る親は滅多にいない。 父・工藤優作も母・有希子も、新一の行動に感心はしたが、非難はしなかった。ところが、ニコニコ笑う両親に向かって今ならばと新一が示した『イギリス留学』計画に話が移った時、状況は一変した。 工藤新一の身体は、彼を死に至らしめる為の猛毒が特異変化した薬により冒されている。 身体を伸縮させるという猛毒を解毒する薬は完成し、江戸川コナンから工藤新一へと元の姿を取り戻してはいる。だが、細胞を作り変えるほどの影響を与えた猛毒が、果たして薬一つで消せるなどとどうして思えるだろう。身体を変質させる程の毒は、長く永く身体の持ち主を苦しめるものだ。 両親は息子に、せめて自分達の住む米国への留学を望んだ。勿論、息子の主治医も一緒にだ。だが、新一としては、それでは意味が無い。かのイギリスの地で育まれた、新一が唯一無二と敬愛する名探偵が座す都市に身をおき、彼の足跡を辿りながら、自身も探偵として活動してやろうと目論んでいたのだから。 かくして交渉は決裂し、とうとう親子喧嘩に持ち込まれた。 だが―結果として、決定打となったのは、新一の主治医が米国もイギリスも出来れば遠慮したい、という意思を示したことだった。 主治医のその姿は小学生女児のモノであり、彼女は安定している己が在る限り、猛毒の薬を世に送り出した贖罪として、新一の人生に絶えず関わる事を誓っていた。けれど、彼女が元の姿を捨て『灰原哀』として生きる上で、新一と同じくらいに大切に思う者達がいたのだ。それは、新一自身も幼い頃から世話になりホームズの次くらいには天才だと思っていた阿笠博士であり、愛すべき少年探偵団であった。 特に彼女の後見人である阿笠博士は、歳の為か些か身体を悪くしており、灰原としては傍を離れるのは躊躇われたのだ。それに、解毒剤を細分化して自らに試薬を与えた結果、灰原は周りが不自然を感じない程度に少しずつ成長を重ねていたから、急いで姿を消す必要はなく、せめて小学校を卒業するくらいの間は日本に居たいと主張した。 主張、というにはささやか過ぎる言葉で、彼女はただポツリと呟いただけだったけれど、それを聞き逃してしまえる工藤一家ではなかったのだった。 最終的に、日本の大学に4年間―もしくは院まで入れての6年間通い、その間、工藤家の一人息子が一人でも生活できる力を身につけられれば、その先の進路には、主治医との話し合いは必要でも、親としてグチグチと口を出さない、という契約が結ばれたのだった。 さんざん経済的に甘やかされていた工藤家の息子である。 暫くは意地を張り平気だと言い張っても、コチラが甘い顔を見せれば、泣きついてくるだろうと考えていた工藤夫妻だった。(別に泣きつかれるのは悪くないのだ。むしろ甘えて欲しい親心だった。) 家族カードは即座にストップし、家屋の修繕費は申請すれば親払いは可能だが、見積書と精算書の提出が義務付けられ、当然光熱費・食費は新一自身が負担することになった。 学費の点だけは、最後までどちらが持つか揉めたが、(親として日本在学を指定した側として夫妻が払うと提案したが、新一は通うのは自分だからと提案を突っぱねた)灰原哀の「学ぶことも身を削って機会を得られるからこそ、身につくのではないかしら?」ということで、新一が払う事になった。 ―きっとコレが一番最初の計算違い。 さて、入学金だけは入学祝として夫妻が払って、それでは定期報告を宜しくと言って、またロスへと帰ってから、工藤邸では一体なにが起きていたのか。 東都大へと進学した新一は、それなりに生活はしていたようだった。ただ、学費を彼自身が支払う事になっていた為に、それまでの貯蓄が半分以上目減りして、時にはアルバイトのようなこともしていた。何事も人生経験だと、その様子を聞いた両親は喜んだものだ。新一が給仕するレストランに変装して行って、驚かせたりもした。 学費を払うのだから元は取らねばと、バイトはそこそこにして、熱心に大学にも通っていたし、親としてはまぁまぁ満足いく息子の姿だった。 だがしかし。工藤新一は、やはり工藤新一であり、警察の救世主として、名探偵として、彼を求める人間が数多く存在したのだった。 そして、勿論、求めに応じて、もしくは進んで事件や謎に首を突っ込んで行くのが工藤新一なのであった。 大学生活が軌道に乗った頃から、増える警察からの呼び出しを受け、アルバイトに出かけ、勤勉に大学に通い、勿論夜更かしもして大好きな推理小説を読む事も忘れない。―忘れてはならないのは、新一が元々生活破綻者だったという点だ。好きな事、自分のしたい事をしている間、寝食をスッポリ忘れる人間が、果たして健全な生活が出来るかどうか。 当然のように、ある日、新一は倒れた。 場所は大学構内。講義から講義に移る移動の時間に、椅子から立ち上がった新一はクラリと眩暈に襲われて、そのまま意識を失った。幸いにも、傍にいた人間の適切な処置と対応で、新一は事なきを得て―友人を得た。 恩人であり友人となった相手は黒羽快斗と言った。 黒羽と新一は出会った当初から何故かとても波長があい、黒羽が工藤邸に入り浸るのにそう時間は掛からなかったという。 工藤夫妻が受け取る定期報告は、隣に住む主治医と博士と、時折興信所や編集者が派遣され、様子を伝えてくれる様式だったが、二人はとても仲の良い友人同士だと誰もが明言していた。ただ、灰原哀だけが、黒羽快斗について彼女の知りえる情報を開示する時に、国際電話の向こうで微妙な声音で話していたのが気になったが、電波の調子が悪いのかと思える程度であったし、何より、夫妻が『黒羽』の名を持つ彼に、言い知れぬ懐かしさと親愛を抱いてしまっていたのだから仕方ない。 実際、ハロウィンやクリスマスといったイベント事に、懐かしの我が家に顔を出しても、嫌な顔一つせず、息子よりも夫妻を歓迎して持て成してくれた相手に悪い感情など抱くわけもなく、それどころか、彼が『母親が居を変えるから自宅が無くなるので、もしご都合が悪くなければ、ここに下宿させてもらえませんか』と言った時など、渋い顔をする新一を押しのけて『むしろ、快ちゃんがいてくれると助かるわー』と快諾してしまっていた。 ―これが、多分いちばん大きな間違い。 下宿だから、と幾ばくかの宿代を黒羽が入れる事で、新一の経済的負担は軽減され(何しろ、無駄に大きい屋敷に掛かる光熱費が馬鹿にならなかったのだ)、お世話になっているからと、新一の為に食事を作り何くれと世話をする。 一人暮らし兼下宿の家主でありながら、新一の、主に生活する上での諸々の負担は軽減され、新一はより一層、学生業以上に探偵業にも精を出して。 時は無常に流れた。 さて、約束の大学の卒業式である。 進路について尋ねたところ、工藤家の息子は、何かを吹っ切ったような、晴れやかな顔で宣言したのだ。 「俺、快斗と一緒に生きるよ」 予感していながらも、予想していなかった清々しい姿に、一瞬呆然とする工藤優作を尻目に有希子は口を開いた。―頼む、有希子!と優作は思った(何を頼みたかったのかまでは考えていなかった)が、妻から出た言葉といえば、なんじゃそりゃぁあ!という内容だった。 「式くらい挙げなさい!もういい大人なんだし、ケジメくらい付けて行って貰うわよ!」 いや、優作にも判っていたのだ。最初のクリスマスは、どこかぎこちなくも互いを思いやる二人が、次のクリスマスには自然に目を合わせて笑うようになっていて、3年目のクリスマスは、予定があるからとフラれてしまい。コレはいよいよかと、その年の終わりに予告無く工藤邸へ乗り込んだ時に、垣間見てしまった濃密な友人同士では持ち得ない二人の空気と在り様。学生最後のクリスマスは、敢えて二人をロスに招待して、キングサイズのベッドのある、家の一番端の客間に放り込んでやったのだから。 □ □ □ こういった日が来る事は予測していたし、それで良いのだろうと二人の姿を見るにつけ思っていたが、やはり、どこか納得できない。 流石に逃亡という手段に走るのは大人げない、と優作は思い直す。 だいたい、式場選びも新郎新婦の衣装も工藤夫妻と黒羽婦人の趣味と遊びがふんだんに盛り込まれているのである。女性陣に逆らえない息子達を眺めるのは大層面白かったし、むしろこれからが醍醐味だ。 けれど、どうしてか、心は浮き立たない。 「ふむ……」 手塩にかけた娘だったら、連れて行く相手を思いっきり殴れただろうと思う。 しかし、彼らは互いを引っ張り合いながら、共に在ることを望んでいるのだ。 口を挟む隙間などありはしない。 「どうやら、私は―寂しいのか、な?」 最愛の、最適の、唯一の半身を選んでしまった息子は、もうとっくに親の庇護の元にはおらず、幼い手を思い出せば、何故その手が他の誰かを掴んでいるのか、不思議で、不条理で。 とっくに子離れなど済ませたと思っていのだが、意外な一面がまだ己には存在したのだなぁと、新郎であり新婦である子供の男親はシミジミ思った。 「あー!こんなところにいたのね、アナタ!」 「有希子…」 「もぅ、誰にも言わずにコッソリ出て行くんだから!探したじゃない」 「息抜きがしたくなってね」 「そろそろ時間よ?」 「おや。では、どっちがウェディングドレスを着ることになったのかな?」 「ふふふ。それは扉が開いてからのお楽しみよ!―・・いいわよね、男親は」 「……?」 「子供だった新ちゃんの手を、相手に託すその瞬間まで、一緒にいられるんだもの」 「…そう、かい」 「代わってくれる?」 「それは―駄目だな、有希子の頼みでも」 どうやら、まだ親の役目はあったようである。おそらく、全て理解して迎えに来てくれた妻に、その綺麗に飾られた髪を柔らかく撫でることで感謝を伝える。有希子はもう一度口元でふふふと笑った後、そう言えば、と小さなパーティバッグから封筒を取り出した。 「これ、快ちゃんから預かってきたんだけど」 「…これは、」 「盗一さんのお墓にあったカードの答えですって。多分、優作さんだろうからって」 「ああ。そうか、彼らも報告に行ったんだね」 かつて優作の好敵手が送りつけてきた「?」だけが描かれたカード。 結局彼に会うことなく、返事は…そう、その時も妻が頼まれてくれたのだ。 「『きっと親父なら、こう返すと思うから』ですってよ?」 「ほほう」 封すらされていない封筒から、カードを引き抜く。 真っ白のカードの上に描かれていたのは。 「なるほど」 「見せて!…まぁ」 赤く縁取られ、赤く中を塗りつぶされ、心臓を模したといわれ、愛を示す。 「これが答えかい、盗一?」 小さな呟きは、柔らかな風が攫って行った。 |