□少年×暗号□ ―果たして、昼に、夜に、虚空を駆けた白い怪盗は、何を得て何を成したか。 発見ならずの、期限切れ。 地球のすぐ傍を通り抜けていく巨大な彗星。 為す術も無く見送った。 数式を前に、呼吸(いき)するように計算をするようになったのは、例の彗星の接近が近いと衛星情報を掠め取った時からだった。 一体どれくらいの時間が残されているのかを知るために、あの彗星の暫定軌道要素を求める式を組み立て、天体単位の距離と地球時間における到達日を延々と考え続けたのだ。 なにしろ、昼の間は出来ることが限られていた。いつもなら、体力温存の為に寝てしまうか、新しい仕掛けを考案して、実際に愉快なクラスメイトを相手に試してみたり、と黒羽快斗が過ごす時間だったけれど。 可能な限り、数多のレディ達に謁見して、その中にパンドラという女がいないかを調べなくてはならなかったから、あの頃の怪盗の出現率は半端ではなかったな、と思う。実際は、怪盗ではない姿でレディ達の身体検査をしに出掛けた事のほうが多かった。とはいえ、ハードな夜の時間を過ごし、また次の夜の為の準備が済めば学校へ行って、眠ることも出来ずに、キャンパスノートに只管書き続けたのだ。 身体は休息を欲しがっていたが、頭は、逸る心は、休むことを許さなかった。 結局は、全て。 計算式も、到達予測日も、数多くこなしたショウも、人目を盗んだ犯行も、 何もかも無駄に終ってしまったが。 江古田高校から出て、米花町付近にある本屋に立ち寄ったときのことだ。 無駄な―無駄になってしまった計算が連なったノートは、破棄されるでもなく、更に数列や数式が詰め込まれていた。 すべきことも、したいことも、何も思いつかないまま。しかし頭だけは動き続けていた黒羽は、数字を書き続けていた。意味も無く。ただ。ただ。 だから、その日も既に習い性のように、理学と数学の書棚の前に立った。いつも行く本屋とは違う本達の並びに規則性を探して、未だ知らぬ計算式を求めながら。黒羽は、どの本でも一通り眼を通せば暗記が出来る頭脳を持っていた。だが、余り多くの数式を重複させ記憶させることは、式をややこしくさせるだけで美しさは損なわれてしまう。 さて、どれに手を伸ばしたものか―そう思って、本棚を眺める位置から二歩分だけ本棚に近づいた、時。 その時、不意に背後を横切った人物がいた。 ―・・・ッ 瞬時に振り返って、視覚でハッキリと『彼』を認知した一瞬後、黒羽は身体から気配を消し素早く書棚の影に身を滑り込ませ、気付かれないようにその姿を見つめた。 決して間違いようがない、研ぎ澄まされたその気配の持ち主。 何度も出会い、幾度と無く手合わせをし時に手を結び、怪盗を追っていた小学生の面影を色濃く残して。けれど、その身を帝丹高校の制服に包んだ彼は、間違いなく工藤新一だった。 (いつの間に・・・?そういや、あんなに怪盗が出没してたのに、全然、来てくれなかったもんな。俺が忙しかった時、か。確かどこかの組織が消えたとか、アイツ等も言っていた) 白い衣装を一旦仕舞いこみ、さて如何したものかと周りを見渡して、スッカリと景色が灰色になっていた黒羽の眼に飛び込んできた彼は、とても眩しかった。 (ンな嬉しそうに、・・・推理小説ばっかかよ!買い込みすぎじゃないのか、名探偵) 小学生の姿では何かと制限されていたものの中に、きっと購入したい本も多く含まれていたに違いない。自然と眼を細めて彼を見遣りながら、そういえば、あの工藤新一がいるというのに、新聞やメディアで見掛けたりしなかったな、と思った。 警察や、怪盗営業中に要所要所に仕掛けていた盗聴器の類は、一旦回収してしまっていたから、黒羽が彼を知るには普通の情報ツール越しか、こんな偶然でも無ければ判らなかったに違いない。 工藤新一は、結局、黒羽快斗に気付くことなく本屋から出て行った。 本屋のガラス窓の向こうで、買い込んだ本が入った紙袋を顔の前に上げて、青い目を細め頬を緩ませて笑った彼を見た瞬間、黒羽は、帝丹高校への編入を心に決めていた。 怪盗の目的の大部分を失い、漂うように在った自分と違って、元の姿を取り戻しごく普通の、高校生としての日常を手に入れた生気に満ちた彼。 眩しくて、羨ましくて。 そばで、彼を見てみたいと、強くそう思った。 □ □ □ ごく近くで見る工藤の顔は、俺似のはずなのに妙に綺麗で、あれ?資料間違えてたのか?!と過去の犯行(工藤新一のフリをした諸々だ)を思い出しては、完璧主義者の俺を悩ませた。 ついでに、デッカクて何でも見通そうとする江戸川コナンの持っていた青い瞳は、当然のように工藤新一にも備わっていたが、実は彼の眼がひどく優しい青色をしてることに今更気がついて、過去の犯行(ガラス部屋の爆破に巻き込むとかスタンガンを押し付けるとか)を思い出しては、ゴメンなさい!!スイマセンでした!!と土下座したくなる衝動を幾度と無く起こさせた。 なんというか、近づいてみて、色々と判ってしまったことが、いっぱいある。 日が傾いて、強いオレンジ色が図書室の空気を染めていく。 カリカリ・・・と動くシャーペンの先を、俺はじっと見つめていた。 図書室で無理矢理に彼の世界に割り込んで、彼と知り合ってからしばらくは、俺は殆ど工藤の顔ばかりを見ていた。 微かに笑うときの口元や、眼を伏せてジッとノートを見つめる様とか、問題が解ける一瞬前からの表情の変化とか、飽きがこない面白さだったのだ。 だが、最近は、何だか駄目だ。 ジッと見ていると、目が合う機会が増えてきた。 そうなると、俺は視線をつい彷徨わせて工藤に不審がられたり、してしまう。 以前は、多分、素知らぬフリで好きに眺めさせてくれていたようだったのに。 俺は工藤の眼には、弱い。らしい。 どうも、眼があった後の自分の想定外の行動を考えると、そうだとしか言いようがない。 なんだか悔しいと思う今日この頃だったりする。 しかし、今はまだ、彼の視線は数字の上だ。 「・・・黒羽が、数式が好きなのが少し判る問題だな」 「お、『ド・モアブルの定理』まで繋がったじゃん」 「これは、アレだろ?単位円上の点が回転している姿」 「そう。流石だな名探偵!構造を見抜く心の眼をお持ちだ」 「名探偵はよせ。―複素平面から図形を導き出して・・・」 「円を描くんだ」 俺は工藤の腕を引いて立ち上がった。 幸いにも、図書室には既に人影はない。校内外で有名人かつ司書の覚えの目出度い工藤は、時折図書室の鍵を任されている。 いま、ココには、点が二つだけ存在している。 「工藤はさ、俺にとって円周上にいるんだ」 「一点から、常に等しい距離を離れている?」 「ああ」 「どのくらいの距離になるんだ、それは」 「空と海くらい、かな」 「―遠いな」 「そうか?地球と、・・彗星に比べれば近いもんだろ。消えて見えなくなるワケじゃない。ちゃんと、互いが目の前にあるんだ。それに」 彼はリアリストで。 空の青と海の青とが混じることは無いと言っていた。 でも、俺はロマンチストだから。 交じり合うことが不可能でも、等しく離れた二点はきっとすぐ近くに存在できる、と考えている。 俺は伸ばした片手で工藤の手のひらを開いて、同じく自分の手のひらと合わせる。 「等しく離れた距離を、等しくその間を縮めていって」 指を絡めて手をつなぎ、腕の長さ分の距離を確認して。 「半径をゼロにしても」 それから、彼へと踏み出し、彼との距離をゼロに近づける。 「円は、円のままだ」 直ぐ目の前に、彼の顔があった。 「円周上だよ、ココも。たとえば、このまま触れても」 俺は、彼の眼を覗き込んで待った。 「たった一点から成る、円だ」 工藤は夕日を受けて紅く青く揺らぐ瞳を、ゆっくり閉ざした。 |