入学式からおよそ三ヶ月後―。
 なんとか大学生活の忙しなさや人間関係にも慣れて来た頃、先の宣言通り、工藤からの精一杯のお誘いで、二人は二度目の行為へ及ぶことになった。
 工藤から誘ったのは、顔見知りが増えて来たせいで日に日に増してくる女性からのお誘いやら合コンへの参加要請だのを受けまくっている黒羽の姿に嫉妬心を燃やした為である。
 大学に通おうが恋人が出来ようが、事件は日々各所で勃発するし、それに名探偵・工藤新一がかり出されるのは至極当然だったのだが、工藤がそうした学外活動に精を出している―黒羽から目を離している間に、他の誰かが恋人に寄ってくるのが全く面白く無かったからだった。



 医学部とはいえ、教養英語や基礎固めに近い専門講義はそこそこに出来る頭を持つ人間にとってはまだ余裕がある範囲だ。なにより受験から解放された身軽さがある。それを今のウチにと講義の後に『最高学府の医学生』という紋所を使って男女の出逢いに励む者もいれば、講義の合間を縫って事件と遭遇しては嬉々としてそれに取り組む探偵がいるわけだ。
 もっとも探偵の目に映る黒羽快斗は前者とも後者とも違って、のらりくらりと出逢いの場への出席要請をかわし、探偵に向かって気をつけて行ってこいよー、と声をかけ、それなりに学生生活と私生活とを行き来しているようだった。

「オメーってさ、ガッコ終ったら何してんだ?最近、さっさと姿消してるけど」
「大学近辺で俺の特技が活かせるバイト無いか探してたんだけどさぁ。個人経営のマジックバーなんかがあればベストだったんだけど、この辺じゃ無くて。結局、少し遠いけど知り合いのプールバーでバイト始めたんだ。前からちょこちょこ手伝ってたトコ。工藤も二十歳過ぎたら飲みにこいよ」
「おい、二十歳前のオメーが働いてるのはいいのかよ。…そこ、夕飯になるモンでるなら、酒抜きでも行くけど?」
「マジ?!解った。俺が食わしてやるから、来る時に連絡しろよ」
「…おー」
「食後は俺が…食べるかもしれねーけどな、ケケケ」
「バーロ」

 その日、暫くぶりに工藤は黒羽と一緒の昼食を取ろうとしていた。教授に急用が入ったとのことで、一コマ分早い時間。あえて人の多い学食ではなく、外来客が使う事が多い敷地内のレストランを選んで席に着いた。狙い通り、二人の他は付属病院の診療待ちか付き添いと思われる数人の一般客がまばらに座っているだけで静かなものだ。白衣を脱いでしまえば、一般人と変わりはしない。
 
 同じ学部とはいえ、選択語学クラスの振り分けで離れてしまったものだから、思っていたよりも共に過ごせる時間が少なかった。この大学では―とりわけ医学生や看護学科生には、広い大学敷地に隣接する付属病院や関連病院でのボランティア参加が求められており、自由奉仕と言いながらも新入生にとってこのボランティア体験は、現実の患者や病院業務に触れるという名目で必須事項である。しかも一年生の前期のうちは『クラス』によって協賛時間が振り分けられている事が語学選択後に判明したのだ。なお後期からは時間帯や内容を選んで自由に自主参加するか、意欲のある者は特定のボランティアサークルに入るなり、病院が主宰している協賛会員になるのが通例だ。
 施設清掃や病院案内等の気軽なものから、長く入院生活にある患者への慰問のお手伝い、時に医療行為を伴わない被災地支援、果ては海外へ向かうものまで。不参加へのペナルティは無いが、参加実績の有無が後々の人脈やら教授のウケやらに影響するとくれば、無視は出来ない。自然、クラス単位での行動や情報交換が増える事になった。
 お陰で、黒羽と工藤は同じ敷地内にいながらも、顔を合わせるのが共通講義のその時間だけ、なんて日がザラだったのだ。
 予め待ち合わせをしていも、あれこれ用事が入るし、早々に周囲と良好な人間関係を作っておこうと思ったら、クラス単位で受けた講義の流れでそのまま昼食会になってしまう事もある。何せ工藤は欠席の多さへの周りの理解とノート貸与は必須だったし、黒羽も生来的に人を惹き付ける人間だったから、『悪い。今日はこっちで食べる』と顔の前で手を立てて謝罪のポーズを作り唇だけ動かして予定をキャンセルするのはお互い様。
 恋人らしいことと言えば、せいぜい互いの顔を見た時に、傍に誰も居ないのを確認した上で、その隣に陣取って顔を近づけつつ相手の近況を尋ねるという、傍目からすればただの友人同士でしかない遣り取りの中に微粒子レベルで含まれる言葉と雰囲気だけだった。

「で?バイト先ってどの辺だ?警視庁の近くだと行き易い」
「桜田門より米花寄りだぜ」
「…こっから遠くねぇ?」
「だから、近場でいいバイト先に巡り会えず、やむなく。ま、丁度人手が足りないって言ってたから、天の配剤だと思ってる」
「…そうなのか?」
「そうそう。結構店仕舞まで手伝うと遅くなる事あるしさ。…終電逃したら、工藤んちに泊らせて貰ってもいい?」

 折角大学近くにアパートを借りたと言っていたのに、バイト先が遠くては不便じゃないのかと首を傾げる工藤に向かって、黒羽はあからさまな含みを持って問いかける。工藤が忙しいのも、以前の行為がアレだったことであるのも承知しているとはいえ、折角手の届く場所に触れたい相手がいるのだ。三ヶ月も我慢したのだから、そろそろ、と言うのが黒羽の希望だ。
 工藤はその雄弁な視線を微妙に避けながら、口元にグラスを運ぶ。

「プールバーよりはマジックバーの方が時給高そうだが。あれ?でも俺、駅前で『手品夜』って看板見た気が…」
「……。全国チェーンのマジックバーだな。アレは。…んー、同業者が多すぎんのはちょっとな」
「ライバル多くて結構じゃねーの?」
「ライバルねぇ…一方的にライバル視して勝手に蹴落とされてくれんならいいけど、邪魔だって怪我でもさせられたらヤベーからな。イケメン医学生ってだけでもアタリはキツそうだし」
「あー。そうかよ。ま、オメーに匹敵するマジシャンなんかそうはいねーんだろうけどさ」

 自信たっぷりの発言も世紀の奇術師『怪盗キッド』がすれば過剰でも嫌味でもなく、イケメン医学生と嘯いてみせたところで、ただの事実でしかない。
 工藤の言葉に、黒羽は少し横を向いてわざとらしい空咳を数度繰り返す。
 「ん?」と工藤が首を傾げて伺うと、黒羽は「なんでもねー」と慌てて水の入ったグラスを口に運んだ。
 黒羽の誘いかけを躱す工藤に対してあまり不満だの本当は弄ばれているのでは、などと余計な事を考えずにいられるのは、彼の妙な所で垣間見える素直さがあるからだ。
 黒羽の顔を雑踏に見つければ目を輝かせるのが解るし、その時その場に黒羽以外の誰かがいると、あの青い目を曇らせてその奥に不満の色を浮かべる様が実に顕著に黒羽には見えてしまう。常に周囲の状況に目を光らせているらしい探偵は、そんな時まるで他人のような顔で通り過ぎようとするし、実際その思惑は割と周囲の人間には通用しているが、黒羽が声を掛けると『何だよ』と口先を尖らせながらも、寄って来てくれる。
 過去の所業を根に持たれているとしても、結構好かれているのでは、という気がしている。一応「好き」って言葉も貰っている。一応。それを早く確認したいと焦れる想いはあるが、どうしたって黒羽に主導権が無いのが現状だった。
 
「そういや、週末の病棟ボラってどうすんだ?土日のどっちかの午後にいくつか病棟で募集してたみてーだが」
「小児科!大型絵本の読み聞かせってのがあるらしいんだけどさ、こっそり退屈してるチビッコの心を慰めるマジックでもやれねーかなって考えてる」

 黒羽がそう言った瞬間、工藤は一瞬嬉しそうな顔をした後、すぐに僅かに目元を顰めた。おや?と思いながら黒羽は「工藤は?時間取れそうなのか」と聞いてみる。答えは「調べたい事があるから無理かも」だった。難癖付けが好きで実際仕掛けを悉く見破ろうとして来る探偵は、手の内を読ませない怪盗のー黒羽のマジックが好物のようで、それが見れそうにないから機嫌が下がったのかな、と思った黒羽は嬉しくなる。
 しかし、工藤が次に呟いた台詞に、黒羽は首を傾げた。
 
「今度は小児科ナースかよ…いや子供の親もか…」
「?なにが」
「オメーさ、こないだ看護科との合コン誘われてたろ」
「あー。いや、断ったって、それ」
「外来補助で、退屈そうな待ち合い患者に手品で花だしたり雑誌出したり、騒いでる子供に即席切り絵あげたりしたんだって?何か面白い人って話題になってるらしいぞ」
「…へ、へぇ」
「慰問運営サークルがそういう特技ある奴が欲しいって募集見た気がするし…何か打診されなかったか」
「あ、はい。…入会勧誘されました」
「あそこ、半分以上がナース志願の女の子だってなー」
「現役ナースも結構いるって話だったけど、いやいや断ったって!」
「運動部からもこないだ声かけらてただろ」
「テニスでちょーっとアクロバットプレイしたら、一緒にやらないって…。意外にも、医学部って運動部所属が多いよな」
「体育会系ノリの学閥もあるみてーだからな。テニス部はダントツで人気って聞く。交流会が盛んとか」
「工藤こそ、サッカー部にって、ここ(大学)以外の社会人サークルに声掛けられたって言ってたじゃん」
「おう。助っ人参加はオーケーしてあるが、ここ、マネージャーも野郎だったぜ」
「……なぁ…あ、」
 
「お待たせしましたー」

 注文していた料理が運ばれて来た。「A定食はー」とのウェイトレスの問いかけに、工藤が行儀良く手を挙げてからグラスを脇に避けて、自身のテーブル前に配膳してもらう。黒羽も倣って「そっちのはこっちに」とお願いした。

「とにかく、食べちまおうぜ」
「だな」

 いただきます、と手を合わせ、そのまま暫し食べる事に集中した。


***


 何かを確認しながら遠回しに何かを責められているような。奇妙な心地のまま、黒羽は口の中に運んだご飯を咀嚼する。噛む事は頭を働かせるのにとても有効と言われているので、名探偵の慧眼が見通そうとしてるものは一体何なのかを考えてみた。―もしかして、という予想はあるが、そういうものを抱くタイプには見えないし、抱いたとしても決して人には見せない人間だと黒羽は工藤について思っていた。
 だが、それはあくまでも黒羽が勝手に作り上げていた彼についてのイメージだ、と思い直す。
 成り済まし、なんて真似をやらかしている内に本人を差し置いてその為人を解った気でいたというのなら、とんだ思い上がりではないか。怪盗の衣装を脱いだ黒羽にとって必要なのは、正確な工藤新一を知る事と同等以上に、どうしたらもっと近づくことが出来るかだ。
 一方で、ここ最近の気になっていた事を黒羽にぶつけていた工藤は、言い過ぎている己を自覚していた。これでは、嫉妬していたのも丸わかりだろう。格好悪いような情けないような、何かに負けた気はするけれど、この男について誰にも譲る気の無い工藤にとっては、把握が必要な事柄だったので仕方ない。
 白い衣装を纏った怪盗が実に紳士的に、女性のみならず子供やお年寄りにもハートフルに出来ているのは知っていた。演じているというよりは、それは怪盗自身の資質によるものだろうと薄々推測していたのだが、怪盗の正体である黒羽快斗との『お付き合い』を始めた工藤は、彼の人を惹き付けてやまない笑顔や行動にほとほと参っていた。やっぱ良いヤツなんだよなぁと微笑ましい思いで眺めていられたのは最初のうちだけだった。
 つい先日のことだ。
 構内を連れ立って歩いていたら「あ、あの!」と背後から呼び止められた。ん?と二人で振り返ると工藤の知らぬ―同輩生。胸元に片手で抱えていたテキストに見覚えがある、というか同じ物が二人の手元にもある。先程中講堂で受けた共通講義で使用していたものだ。やや息を切らしながら、工藤と黒羽を見比べて数瞬逡巡した後、彼女は黒羽に視線を据えた。「ごめんね、呼び止めて。歩くの早いねー!」と照れたように笑いながら手櫛で髪を撫でる仕草が可愛らしい感じの子だった。もしかしなくても、さっさと講堂を出て来てしまった自分たち―否、黒羽を追って走ってきたのだろう。
 数歩分離れて様子を見守る工藤の視界の端で、しきりに彼女の方が黒羽に頭を下げていた。黒羽は大仰に首と手を横に振って―気にしないで、というサインか。暫く遣り取りした後、徐に言葉を止めて両手をささっと動かした。それを見た彼女が顔を輝かせて「うん!」と大きく頷いて、そして足早に工藤の脇を通り過ぎていく。去り際に「邪魔して、ごめんね」と工藤に一声掛けて来た彼女の顔は、頬を紅潮させて嬉しげで、―ある種の心理状態にあるのでは、と簡単に想像がついた。

「…さっきの、手話か?」
「そ、わかる?」

 待たせてゴメン、と言う黒羽に、さっき見た最後の手の動きについて尋ねると、綺麗な指先が特異な動きで言葉を描いた。

「『勉強、がんばって』?…手話教えてんのか?」
「いいや、彼女独学するみてーよ。こないだ、こっちの敷地で迷ってた聾唖の人に困ってたの、少し手助けしてさ。わざわざお礼言いに来てくれた」
「…へぇ。さすがだな」
「?工藤も解るじゃん。やっぱ電子化で打ち込み音声の技術が進化してても、いざって時の手話と点字ぐらいの知識は無いとな」
「…そうだな」

 きっと今後、この男は手話サークルや点字を含む情報資料作成系の文化部から勧誘を受けるんだろう。また道端や講義室の端、廊下の片隅で女性と談笑する黒羽の姿を見る事になるのかと、工藤はウンザリしてしまったものだ。
 工藤だとて、目の前で困っている人間が居れば手を貸す事など普通にする。特に他意の無い善意だ。それが黒羽の場合、他意があるのではと誤解したくなる笑顔だのフォローだのを付け加えるからタチが悪い…と思ってしまう。感謝以外の他意を抱く人間をそこかしこで増産させているように工藤の目に映っていた。  
 通常ならば忌避され軽蔑される筈の犯罪行為を奇跡の奇術ショウに塗り替えファンコールまで沸き起こしていたカリスマ野郎は、ステージを降りても何とも愛され体質だったのだ。お陰で二人きりになれる時間など微々たるもの。

「こっちの定食のデザートが楽しみだったんだよなぁ」
「良かったな」
「工藤のA定にも付けれたのに、勿体ねー」
「コーヒーかミニデザートか、って言われたらコーヒーだろ」
「そう?たまには糖分摂取しないとアタマ回んなくなるぞ」

 今のこのゆったりした時間だって、途中誰かに呼び止められたり邪魔されるのはと密かに心配しながら移動して来たのだ。足早に歩く工藤に、黒羽が「そんな急がなくても。まだ混んで無いって」とボヤキながらもちゃんとくっ付いて来るのに安心していた。
 黒羽は「工藤は忙しいよなー」と時折恨みがましく零すが、工藤からすれば、色気のある呼出しや声掛けをされている恋人の方が問題があるだろ、と反論したくなる。論点がズレた話にしかならないと解っているので、あえて吹っかけはしないが。
 
(…いや、ズレてはないのか?)

 あらかた食べ終えた工藤は、ほくほく笑って最後に残していたデザートに匙を入れている黒羽を眺める。幸せそうだ。視線に気付いた黒羽が、工藤と己の手元も見比べ「…いる?」と問うたが、工藤が首を横に振るとやや嬉しそうに「そう?」と言ってまた食べ出した。
 工藤は水を給仕しているウェイトレスに声をかけ、食後に持って来てもらうよう注文していたコーヒーをお願いする。
 工藤はコーヒーを待ってる間に…と携帯を確認した。―今の所、特に何処からも連絡は入っていない。ついでに、今日は午後に2つ程専門科目が入っているが、一つ別教室で受講した後は、同じ講堂で最後のコマを受ける予定の筈だよな、と工藤は頭の中で時間割を確認する。

「お待たせしましたー」
「あ、どーも」

 黒羽は今日はバイトだろうか?このまま何事もなく大学で過ごす時間が終わるのなら、そのままバイト先に遊びに行っても良いかもな、と工藤は思う。何なら、バイトを終えた黒羽が家に来たいと言うなら―…。
 工藤は、「ごっそさん!」と言ってスプーンを空になった器にカラリと転がした黒羽に、今日のこの後の時間の過ごし方を提案しようと、中身が半分ほど減った陶磁器のカップをゆっくりソーサーに戻した。

「あのさ、く」「あ、いたいた!」

 そこに突然割り込んで来た声。
 「見つけたぜ、黒羽!なぁなぁ、今日合コンなんだけど!」と話しかけて来たのは、同じ学部生の黒羽のクラスの人間だった。
 ―久しぶりにゆっくりした会話を交わしているのが嬉しかった工藤にとって邪魔以外の何でも無かった。
 そして、それに黒羽がにこやかに対応しているのが何よりも気に食わなかった。
 
 話しかけて来た人間の狙いが、実は滅多に捕まらない工藤新一を誘い出す事にあったなどとは思わなかった工藤は、「黒羽?今日は俺の用事に付き合ってくれる約束だったよな?」と黒羽の予定をガン無視した上でその誘いを断らせ、講義終了後、誰の邪魔も挟ませぬまま無事自宅に連れ込み、ベッドに転がしたのである。


***


「く、くくくくど…くどーくん?!」
「ざーとらしくどもってんなよ」
「いやいやいや、頼みたい用事があるってオメーが言ったんだろ、ほら、本の整理は!?」
「言ったろ?今度は俺が抱いてやるって」
「うわー、もー、ホント、工藤って小悪魔なのか男前なのか、訳わかんンねー!」
「ノコノコ連れ込まれておいて、予想してなかったとは言わせねーぞ?」

 ああん? 押し倒した黒羽の身体に乗り上がって素晴らしい上から目線の、殆ど恫喝に近い工藤の言い分に、黒羽は『もしかして:工藤新一はヤキモチ焼きか?』の答えを見い出した、と思った。ついでに、結構どころでなく、確実に好かれている、とも。

「つまり…俺の予想通りでいいって事か?工藤…」
「お、おう…?」

 慌てふためいた様から一転、工藤の意図を正確に察した黒羽が、熱を帯び始めた眼で伸し掛かっている工藤を見上げた。
 抵抗の意志が枯れるにしては早過ぎないかーと不審に思ったのも束の間。次の瞬間に何故か立場は逆転し、見下ろしていた視点から一転、黒羽を見上げる体勢になった工藤は、黒羽の「今度は痛くしないから」「事後処理もちゃんとするから」「抱かせて」という数々の言葉の前に仕方ねーな、と身体の力を抜くことになったのだった。
 
 無論黒羽が一方的に抱くためにマウントを取ろうとするなら、工藤は徹底的に抗戦して上を取り返していただろう。麻酔銃の仕込まれた時計は今もなお工藤の手首に巻かれている。それに、事件と講義の忙しい合間を縫って、一応男同士で行う際のアレやコレや必要な道具はこっそりと枕元に忍ばせていたりもした。眠らせて頂いてしまおうか、という計画も工藤の頭の中には存在していたのである。
 しかし、「今度は、ちゃんと抱きたい。あん時の、やり直しをさせて欲しい」と切実に―必死に懇願し、そっと…そうっと工藤の首筋を撫でて来た黒羽に、うっかり絆されてしまったのだ。

 一度、再会の最初の日に抱く事を望んで来た黒羽を我慢させた負い目もある。
 意外にもその後しつこく食い下がってこない事に多少の不安もあった。
 けれど、何よりも。
 黒羽に触れる事は、触れられる事も含めて工藤新一の望みだった。




 事が済んで、今度は上手く出来ただろ?と殆ど同じタイミングで達せたことで何やら自信を付けた様子の黒羽だったが、工藤は目の前のニヤケ顔を増長させてはならない、と本能的に察し、憮然とした表情を作る。

「やっぱ、痛ってーんだけど?前立腺擦ってんのは解ったけど、イマイチわかんね」
「…精進します」

 実際、痛いか痛く無いかで比べれば、答えは痛かった方へ針は振れる。受け入れる為に出来ているワケではない器官を拓かれて。酷い異物感と、擦られて無理矢理に高められて行く感覚は、自分のものであって、自分とは遠い所で感じる肉体の反射的な反応だった。
 だが、良かったか悪かったか、で言えば、それはもう良かったのだ。
 あの夜と同じに、工藤だけを目に映していた黒羽。
 飢えていたのだ、と言わんばかりに体中を探って摩って手を使い口を使い、腰を使って喰い尽くそうとする姿。とりわけ、工藤の首もとに触れる時は、殊更に優しく、かつての行為を詫びて慰撫するような繊細さがあったように工藤には思えた。

「そうしてくれ」

 シーツに半ば顔を埋めて工藤が答えると、黒羽は嬉しそうに笑って、目元を赤く染めて半眼で睨む工藤の目の下に口付けた。


***


 朝、目が覚めた黒羽は目をぱちぱちとさせ、見慣れぬ天井と照明器具に「…どこだ…」と呟いて身体を起こしーそして、隣に寝転がっている物体に気付いて、「あ、そうだ。くどーんちだ…」と呟いた。一瞬で、黒羽の顔は真っ赤になっていた。

「くどーくーん?」

 起こす気もなく、とりあえず、一応、と思って声をかけてみる。
 返事は無い。
 半仰臥で黒羽の側に身体を横倒しにしている工藤の顔は、安心しきった健やかな寝顔で、妙に幼いように黒羽には見えた。切れ長で綺麗な眼が隠れているせいか。かつて小さい姿だったこの名探偵を強制的に眠らせた時のイメージが不意に脳裏に蘇ってきたからだろうか。
 そっと黒羽は工藤の髪を払い、そのまま首筋を手の甲で軽く撫でた。くすぐったかったのか、工藤は小さく頭を振らしたが、目は閉じたままだった。
 触れても警戒されていないその様子に、黒羽は小さく呟く。

「良かった…」

 なるべくベッドを揺らさないように、黒羽はその場で胡座をかいて片手で頬杖を付く。もう片方の手で、軽く自身の髪の毛をわしゃわしゃと撫で付け、そのまま己の首筋に手を当ててー目の前にある男の顔を―微かに呼吸を繰返すその喉元を見つめた。
 そして、思い出すのは。
 ―あの夜、掌の先から伝わって来た拍動の強さを覚えている。
 ―呼吸するために気道を通って行く空気の塊がのたうって、喘鳴させる口元も。
 ―片手ですら容易に回る細い喉頸を両手でゆっくりと締め上げる、指先に細い骨の感触。
 簡単に潰せそうだった。
 実際簡単に出来た筈だ。
 だが、怪盗キッドの獲物は彼ではない。怪盗キッドはただただ彼の父親が演じていた怪盗キッドの為にある存在だ。彼の求めていた物を手に入れ、あるいは彼のやり残した仕事を代行し、時に彼が大切にした者達の為に汚名を厭わず犯行をしーそして、彼を亡き者にした人間に復讐する為の。
 その妨げになるなら、名探偵など要らなかった。あの時。怪盗が殺意を溢れさせたあの場に解かれる謎なんて存在しなかった。あったのは、当時まだ子供だった快斗に、その母に、たくさんの父親の信望者へ悲しみを負わせた事への怒り。無念を晴らして、そして、ようやく快斗は目的は果たせると思ったのだ。
 それなのに。
 ―止せ!と叫び、止めに入った名探偵。
 人を殺めた人間が人に殺められ絶命するのは当然の報いであるのに。綺麗事を云う言葉を遮って二度と言葉を発せなくしてやろうと本気で思った。
 衝動的な殺意。『魔』が差す、という言葉の本意をその時に知った。理性で歯止めをかけられない何かに支配され何かに命ぜられるままに衝き動かされる身体。寸でのところで、それを止めたのは他ならぬ怪盗に手を掛けられた探偵の言葉だった。
 何も聞こえないと遮断していた世界に割り込んで来た光の矢。

 ―『怪盗キッドに人は殺せない』―『絶望はお前に還る』―『解れ、馬鹿』
 
 助命を嘆願するでもない、怪盗を弾劾するでもない、ただ、怪盗が―黒羽快斗が行おうとしてる罪科を辞めさせる為だけの、懸命な。文字通り、探偵は命を懸けて怪盗を止めようとしたのだ。
 辛うじて、殺意の奔流は阻止され。けれど荒れ狂う感情の制御は利かず、ただ目の前にあった人間に最低な形でぶつけてしまった。行為の最中、彼は一度も怪盗から目を離さなかった。蛮行の果て気を失うであろう彼の前から逃げる算段は、探偵の眼光の前に簡単に御破算となってしまい、お陰で怪盗が探偵を置いて立ち去る事などできようはずもない。どうしたものかと思いながら、怪盗はむしろ怪盗にそんな真似をさせた探偵を詰る事しか出来なかった。
 もとより、怪盗キッドは―黒羽快斗は、彼が唯一名探偵と認める工藤新一に対して、複雑な想いをずっと抱いていたのだ。彼が『江戸川コナン』だった頃から。ずっと。
自身の変装ではない、本物の、本当の姿をした名探偵。目の前を真っ赤に染めた『魔』が、探偵の齎した強く白い光に退けられてもなお、触れてみたい、という情動は抑えられなかった。
 自身の収まりの付かない精神の高揚は、性衝動にすり替わり、獣じみた行為で発散する事になったのだ。とんでもないことだった。
 なのにこの探偵ときたら、手ひどい目に遭わされて、それなのに、まるで友人同士がするような軽口を叩き出したのだ。果たすべき業を無理矢理に背から下ろされた怒りを押し隠して怪盗が会話に応じたのは、微かに在った罪悪感からだ。まさかそこで、探偵こそが『怪盗キッド』をあんなにも大事に想ってくれていたと知るとは。
 怖がられて、嫌われて、軽蔑されてもおかしくない真似をしたのに。

 置いて来た連絡先。(期待はしなかった。罪悪感が酷かった。僅かに燻る怒りもあった。)
 本当に彼が言葉を向けてくれた。(何度も再生して聞いた。ここに来い、と呼ばれた気がした。)
 入学式の日。(桜が綺麗で、…工藤も、綺麗だった。)
 本当に彼の姿を見つけてしまった。(ちゃんと目を合わせて笑えた。不思議だった。)

 怪盗の振る舞いを許し、黒羽快斗の存在を許容する工藤新一。
 何故?の答えは、ほんの少し傍に居ただけで解ってしまった。
 だって、同じ答えが、とっくに自身の胸の内に存在していた。

「俺を…捕まえてろよ、名探偵」

 自身の首に触れていた手を、もう一度、今度は掌で相手に寄せる。する…と耳の後ろから顎の下ー首元へと撫で下ろすと、がしりとその手が捕えられた。

「ったりめーだ。逃がさねーぞ。俺の、なんだから」
「…おはよ、工藤」

 『確保不能』も『神出鬼没』も、黒羽快斗には不要だ。
 全てを見通して、全てを全身で受け止めてくれた唯一の人間の傍を離れたくはないし、このままずっと捕まえていて欲しい、と。そう、思った。
 そして、同じように、この唯一無二の人間を手放したく無いと願う。

「工藤こそ、俺のだって、ちゃんと理解しておけよ」
「逆」
「逆もまた真なり?」
「違うだろ!」

 穏やかに笑う黒羽に、工藤はそれ以上声を荒げて反論はしなかった。

「ところでさ、その…」
「?なんだよ」
「昨日の今朝でアレなんですけどー、…していい?」
「はぁ!?」
「精進するには、積み重ねしかねーかなーって」
「だ、駄目だ、バーロ!!」

 工藤は慌てて、ベッドの隅でぐしゃぐしゃになっていたタオルケットを頭から被って身体を隠した。タオルの端を身体で抑えて徹底して抗議する構えだ。
 黒羽は、軽く苦笑して、ポンポンと隠れてしまった頭を数度優しく叩いてから「とりあえず、一限目に間に合うように出ような」と言い置いて、シャワーを浴びようと部屋を出る。
 黒羽がパタンとドアを閉じて、戻ってくる気配がないのを確認してから、工藤はゆっくりゆっくり、タオルを身体から落しながらベッドの上で起き上がった。
 腰が痛い。
 だが、それ以上に気になったのは、工藤自身の顔の熱さだった。両の手でぺたぺたと何度も頬を撫でてみたり、叩いてみたり。しかし、簡単に熱は引いてくれそうに無かった。

「くっそ…アイツ」

 寝起きに見てしまった黒羽のせいだ、と姿の無い相手を工藤は詰る。
 あんな優しい目をして己をみてくる相手に、工藤新一はどうしていいのか解らなくなってしまった。あの目に映るのが酷く恥ずかしく思えたのだ。
 昨夜と…それ以前に、一体あの目の前で、己はどんな醜態を晒していたのだろう。「精進」をせがむのだから、身体の具合が悪かったという事はあるまいが。今更に、とんでもない事をしているのだと工藤は顔が火を噴く想いをする事で痛感することになったのである。








続く


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -