【工藤新一少年の冒険】回をおさらいする話ともいう



 その日、私は隣に住むこの数日ほど不摂生な生活を送っている住人に、お裾分けという名の施しを届けに『工藤』と表札の掛かった家を訪れた。

「いるかしら?工藤くん」

 インターホンを押した後マイクとカメラに向かって在宅の有無を確認する。暫くして「開いてる」との答えが返って来た。私は頑丈な門扉を開け敷地内へ足を入れ、何気なく門周りを観察しながら玄関のドアを開いた。
(花が萎れて…一昨日、水を忘れない様言ったのに)
 現在この家には高校生男子が基本的には一人暮らしをしている。…基本は一人の筈なのだけれど、時に息子を一人日本に置いて海外で暮らしている彼のご両親が暫く滞在する事もあるし、遠方に住む彼の友人が泊まりにくる事もある。それに、数日前までは彼の恋人を称する人間が朝も夜も関係なくこの家を出入りしていたので、あまり「一人」でいるイメージがない。尤も、それはかつて小さな姿をしていた彼が、他所のご家庭にお邪魔して我が物顔の居候をしていたり、これまた小さな頃からお世話になっているらしい現在の私の養父の家にちょこちょこ訪れてはこれまた我が物顔で振る舞っていた姿が印象強く残っているからかもしれないけれど。
 勝手に開けた玄関を後ろ手で閉めて、勝手に来客用のピンクのスリッパを拝借する。品良く履き心地の良い日用品は、家ごとに無頓着な彼の代わりに、あれこれ世話を焼いていた男が選んだ物だ。青色と白色のお揃いのデザインの物を玄関先に置きたいが為に、ついでにソレと明確な差を付けたくて来客用の物も購入したのだと言っていた。似たような理由で、キッチンの戸棚にお揃いのマグカップや対になるグラスと、それなりの品だが均一的で明らかに来客用の一式だと解るお茶周り品などもあるのを知っている。知らずに彼らの為の品物に触れると、人によっては痛烈な対応を受ける場合があるらしい。尤も私はそれがどんなものなのかは知らない。

「冷蔵庫、入れておくわよ」
「おう、サンキュ」
「博士がカレーを作りすぎから…大きいのがカレーで、小さいのが付け合わせになってるわ」

 手提げの紙袋に入れていたタッパーを適当に重ねて冷蔵庫に入れた。五段収納に製氷ゾーンもある一人暮らしには大き過ぎる冷蔵庫の中には、水の入ったペットボトルが右側に三本並べ立ててあって、正面に色の変わりかけているカット野菜の入ったビニル袋、隣に保存食が入っているらしいタッパーが三つ、あとは缶コーヒーが数本というラインナップ。ここに二つタッパーが増えた所で、その中身の貧相さは変わらない。
 私は溜め息を吐いて、パタンと冷蔵庫の扉を閉じた。そうしてもう一度、冷蔵庫の周辺に目をやる。台所のシンク脇にコップが一つ。生ゴミは殆ど無い。動きの無さそうな食器棚。総じて使用頻度低迷中のキッチンに、彼の恋人の気配が無かった。

「一体、いつまで喧嘩してるの?」

 来訪者が居ても手にした分厚そうな小説本から目を離さないで、生返事ばかりの対応をする彼ー工藤くんに、呆れと些かの心配を籠めて問いかけると、一瞬で表情が変化した。

「喧嘩してるつもりはねぇよ」
「じゃ、別れたの?」
「そのつもりもねーんだが、そのうち、そーなるかもな」

 不満げに、あるいは不安げに口先を尖らせてそう零す。無表情よりはマシな顔をしてくれたので、私は少しホッとした。
 工藤くんの恋人を称する男ー黒羽くんが隣家にやって来て、「新一と喧嘩した!暫くこっち来ないから、悪いけどたまに様子みてやって下さい!」と言って去ったのが日曜の夕方。夕日が落ちて暫く経った時間帯。またいつもの痴話喧嘩かしらね、と博士と顔を見合わせて肩を竦めた。
 喧嘩相手を気遣って出て行く余裕があるなら、その余裕を喧嘩をしない方向に使って貰いたいものなのだけれど、彼らは私の見る所、相互理解の為にあえて喧嘩という手段を用いて相手の思考を探る悪癖というべき習性を持っていて、こうした事象は度々発生していた。その事象をごく近くで見せられ、時にはその事象が悪い方向へ転がらないように気を配る役を振られる主に博士や私は、仕方ないわねと観察と注意を行い、後日彼らから多大な感謝と謝罪を受け取って落しどころをつけてあげるのだ。
 実に人が良い話に見えるけれど、見返りとして門外不出のデータや試薬品を求める研究者を相手に、満足のいく品を毎度用意してくれる彼らー主に工藤くんのことを託していく彼は、どう考えても割に合わない対価を支払わされていると思う。とはいえ、「何でも用意させて頂きますので」と言質をくれるのは此方としても有り難くてお陰で彼のささやかな依頼を断ったことは殆どない。持ちつ持たれつ。

「日曜の夜に出て行って、…今日で五日ね。でも、それで『お別れ』なんて薄情じゃないの?付き合ってた期間分、間が空いたらリセットしてもいいと思うけど」

 月曜日の朝におはようの挨拶がてら工藤くんの顔を見たが、ごく普通の顔をして「おはよう」の返事がきた。家に籠るでもなく、周囲に平然を装う姿にこれなら軽い喧嘩だったのだろうと、特に理由も聞かなかったのだが。

「半年も連絡待ってろって?時間の無駄だろ」
「待つんじゃなくて、自分から連絡すればいいじゃない。今日は金曜よ。週末をたまには黒羽くんの家で過ごして来たら?家の周りの花へは、こっちで水を撒いて上げる。枯れかけてたわ」

 言葉に含めた叱責を感じ取った工藤くんがしまったという顔をして「後でやる」と小さく呟いた。

「…なぁに?電話も取ってもらえないのかしら」
「留守電」
「伝言を残してみたら?」
「……」

 直接声を聞いて、相手の調子を知りたいのもあるだろうけれど、おそらく自分が気にしているという証拠を残したくないのだ、工藤くんは。伝言をして、それでも連絡をしてこないような事態に直面するのも怖いのだろうけど。しかし、そんなまだるっこしく悶々としているのなら、とっくにこの家から出て行って直接捕まえに行きそうなものなのに。なにしろ、工藤くんは探偵で、黒羽くんは探偵に追われるような過去と性根を抱えた人間だ。二人の姿を見掛けるようになった始めの頃こそ、黒羽くんの方が工藤くんを追い掛けて恋人という場所を華麗に盗み穫ったイメージであり、本人達もそのような馴れ初めを語っていたが(主に語っていたのは、工藤くんを手に入れるまでの苦労話という名の惚気話を嬉々として聞いても居ないのに何かの折に付け話に差し挟んで来た黒羽くんだが)、狡猾に巧妙に黒羽くんにそうさせたのはこの探偵の方ではないかと私は薄々感じている。

「ほんと、喧嘩した覚えがない」

 長めの沈黙あと、はぁと悩ましげな吐息を漏らし、その後に工藤くんが言った言葉に、私は首を傾げた。

「でも、彼は『喧嘩した』ような事言ってたわよ?」
「多少の言い合いはあったが、別に黒羽本人がどうとか、そういう話じゃなかった、と…思う」
「友人や家族を馬鹿にされて自身に付いて云われるより怒りを感じる人はいるでしょう。貴方だってそういうタイプじゃない」
「馬鹿にしたりなんかしてない。見解の違いだな、っては思ったし、そう言ったけどさ」

 話が見えないのは、工藤くんがそういう言い方をしているからで、あまり立ち入られたくないのだと察せない程愚かにもなれないのが通常だけど、もしかしたら、吐き出させた方が良いのかもしれない、と考える。
 大体、いつもなら『新一寂しそう?』『まだ怒ってる?』とお伺いの連絡を入れてくる黒羽くんが、今回は『ゴメン、花の水やり忘れないように、新一に言っておいてくれる?』だの『そろそろ冷蔵庫空になる頃かも』などと、本人についてよりも本人の生活を案じてる言葉が殆どで、期間こそ長めだけれど深刻な様子に思えなかったのがー逆に、とても奇妙なことだと、今更のように思えたのだ。

「…判断材料が少ないわね。一体なにがあったのかしら?」



***

 切っ掛けは、アイツが親父の書斎から一冊のファイルを取り出して来たことだった。
 『恋人』と云えなくも無い間柄になったとはいえ、怪盗を辞めたアイツが(例えかつて我が家っていうか俺の部屋に不法侵入した過去を持っていようとも)勝手に他所の家を漁る真似をするワケも無く、単に俺が勝手におやじの所蔵物から何冊かの本を借りていて、それを戻しに黒羽が持って行った際に見つけてきたのだ。
 結構な興奮状態で手にしたファイルをぐいぐい俺の前に。

「新一、なぁ、これって優作さんの?!」
「…何だよ…ああ、それか」

 差し出されたファイルをひとまず受け取って、ぱらりと捲る。以前俺も親父の書斎で見つけてこっそり覗き見たことのある青いファイル。それは彼の父親の方が演じていた方の怪盗1412号に関する記事がスクラップされている。初登場が国外だったこともあり、英字で語られる記事が多い。子供の頃は、このファイルを綴っている親父の机に乗り上がって作業中の新聞を覗き込んでは、意味の分からない文字列に何の暗号があるのだろうとアルファベットの共通性を探したりした事もある。子供の戯れ言にウンウンと頷いた後、親父は不要になった新聞と、ついでに英和辞典と英英辞典・英仏辞典も息子に貸与して「頑張って読んでみなさい」と言い放ってくれたものだった。

「わり、ちっとだけ勝手に見た」
「構わねーよ。入ってるのは新聞の切り抜きだけだ。俺も見た事あるし。お前も同じようなの持ってるんじゃねーの?」
「いや…俺が怪盗の存在自体を知ったのが二年近く前だから。知り合いに聞いた話くらい。持ってる記事とか録画はさ、マジシャンとしての舞台の方のばっかだ。電書化されてる当時の新聞もあんまり無くて」
「…そっか」

 うずうずとした態度で言外にもう一度ちゃんと見たいのだと訴えてくる快斗に、俺はファイルを戻す。

「見たら返しておけよ」

 そしたら嬉しそうな笑顔と「ありがと、新一!」という上機嫌な言葉。
 俺は、その場を明るくするような屈託の無いソイツの笑顔に実のところ大変弱い。特に何もしてないのに、不意に棚ぼたのような嬉しさを貰ってしまったような心地になった俺は、そういえば、コイツが見たらもっと喜びそうな物があった筈だと自室に戻った。
 暫くして例のファイルを見終えたらしい快斗が「珈琲入れたぜ、飲まねぇ?」と部屋のドアを叩いて来た。御礼代わりの息抜きにとても美味しい一杯を淹れてくれたのだと直ぐに解る鼻をくすぐる芳香。そこまでしてもらえる事を俺はしていないのだが、有り難く受け取って、代わりに給仕者が手にしているトレイに牛革の財布を乗せた。
 快斗が首を傾げるのに少し笑って、俺がソレを手にした経緯とか、ソイツを渡して来た人物についてひとくさり話してやったのだ。

「皮の財布…それって以前」
「そ。コナンだった時に図書室で皆に話したアレだよ」
「当時の怪盗キッドからの挑戦状を小学生だった貴方が受け取って、幼馴染みの彼女と博士を連れ回して謎解きしたアレね…『おこりをちんめよ』だったかしら?」
「…ああ、それ」
「そういえば、あの話の最後に、貴方は自分の推理ミスに気付いたって言ってたけれど」
「だー!当時の漢字を読み間違えたのとか推理ミスったのは、この際関係ねーから!」
「あらそう」
「まぁ、その辺は適当に伏せて話したんだよ。オメーの親父に会ったことあるなぁって」
「伏せたの。まぁ、いいけど。それで?」
「そしたら」

 黒い財布を摘まみ上げ、トレイを脇に挟んで検分を始めて直ぐ、閉じ直した糸に気付いた快斗は器用にそれを解いて例のメッセージが書かれた面を開きー大きく目を見開いた。
 その反応にいたく満足しつつ、俺が話す内容にも熱心に耳を傾けていた快斗は、全て聞き終えた後に、こう言ったのだ。

「あー、やっぱ探偵って、怪盗が大好きなんだよなぁ」
「…逆じゃねーか?」
「いやいや、小さい新一も、優作さんも、怪盗の謎掛け好きすぎ、追い掛け過ぎ!モテる紳士は辛いぜってな」
「ちょっかい出して来たの、そっちじゃねーか。追い掛けて欲しかったんだろ」

 うんうんと何やら嬉しげに頷く快斗の言い分に俺は反駁する。あの夜の小学校で出逢った『弟』を名乗る怪盗も、思わせぶりな暗号を編み込んだ予告状を出して来てビルの屋上に降り立った怪盗も、どっちも彼の詭弁や奇術を用いて探偵という人間を誘い出そうとした愉快犯だ。華麗なる芸術家?いやいや自己顕示欲の塊が如き大道芸人だろう。
 無論探偵以外の、警察や彼のショウを見守ったり時にはその森の中に怪盗を隠す役目を知らずうちに負わされる観客達も、その愉快犯によって誘き出された哀れな仔山羊のようなものだ。…キッド(仔山羊)はそっちの癖に。

「それでまんまと来ちゃうトコが、もう大好きなんじゃん?」
「自分を暴こうって相手を選んで、こーゆーの渡そうとしてくるんだから、怪盗の方が変人だし、探偵の事が好きで振り向いて欲しいっての見え見え」

 当時の俺にはなかなか難解だった暗号に振り回された話をどう取ったのか、ニヤッとした笑いを浮かべてそんな風に言ってくる相手に、この辺りでちょーっとばかりムカつきだした覚えがある。
 相手は笑顔を絶やす事無く、「勿論大好きだけどさ」などと、一旦俺の弁に肯定の意を示しつつ、更に余計な一言を加えて来た。

「芸術は客観性があってこそ、だからな」
「…観客の居ないショウほど虚しいモンはねぇからって、客席のない場所だの、ステージ自体に乗り上がってくる人間選んで呼び出そうとしてる時点で理解不能」
「緊迫感の演出だとは思わないかね、探偵くん?」
「へぇ?途中で緞帳を降ろされたり、ステージから引きづり落されんのも織り込み済みって?やっぱ変人つか変態だろ、ドーえーむー」

 なお、ドー→えー↑むー↓の音程を意識して最後の単語を付け加えたのだが、その部分を反芻するように呟いた相手の口からでた音が、ー↓ー←ー↑の高低に聞えたのは、ヤツなりのアレンジを加えた結果だと思いたい。

「演出の変更はあっても、台無しにされた事はねーから、想定の範囲内だろ!」
「つまり、俺に犯行を止められた試しはねーと?」
「…いや、えっと、手こずった事は認める、けど」

 快斗がしまった、という顔をしたのが尚更に気に障った。

「けど?」
「いや、待って!これは、つっか、今はこの財布が問題だから!」
「そこに書いてあるサインは『怪盗1412号』だろ?怪盗だろ?つまり、俺とお前の問題だろうが」
「ちょい待て。どっちかってゆーと、俺の親父と工藤の親父さんの問題だって!親愛なる『yusaku kudou』じゃん!」

 だから、俺と喧嘩をする気はない、そう快斗が言いたい事が解らない俺でもない。俺だって、別に喧嘩をしたいワケでもない。ただ、納得がいかないだけで。

「…生憎、俺の親父はそれを見ていない」
「へ?」
「今話しただろ。結局、俺は最後の最後でソレをもとの場所に戻しちまったんだよ。だから」
「いや、多分…これ見て、工藤の親父さん返事書いてた筈だぜ?」

 目を瞬かせて不思議そうな顔で?を飛ばす快斗に、今度は俺が頭に疑問符を浮かべることになった。
 帝丹小学校の図書室で二度目の一年生をしている際に再び手にした牛革の財布。一度目には辿り着かなかったそこに隠された謎。それが解けたのは10年が経ってからになってしまったワケだが、その時に目にした「?」だけのメッセージは、今だよく解らない謎として残っていた。
 本当は、その財布を親父に渡すべきだろう、と何度か考えた。何せ宛先がそうなっているのだし。だが、自分の推理ミスをあの父親に素直に話し謝罪をする事が出来なくて、とうに終ってしまった謎掛けだからとそのメッセージを隠し持ったままでいたのだ。ー工藤優作が追っていた方の怪盗は既にこの世には居ないという。幼かった自分が素直に父親に助けを求めれば、きっと怪盗からの手紙は正しく受け取り手であるあの親父の元に渡っていた筈なのに。それが出来ないまま時を経てしまった財布を、罪悪感と共に仕舞い込んでいた。
 俺の不可解な顔に気付いた快斗は、少し視線を彷徨わせて遠い過去の出来事を話し出した。

「確か10年前ぐれーだよ。俺さー、親父の仕事にくっついて行ったことがあって…」
 それは俺の母親・工藤有希子のインタビューに答えるというレストランの一室でのこと。
 そこで快斗の父親ー黒羽盗一氏は、俺の母親から何かの答えを受け取っていた、というモノだった。
「…」
「綺麗なおば…お姉さんのカードをこっそりスリ盗ったんだよなぁ。」

 綺麗な女性が差し出そうとしたカードは、快斗の父親が中身を言い当てた事で不要の紙切れになってしまい、再び封筒の中へ戻されようとしたのだが、父親の言う「××マーク」が何なのかを知りたかった幼い快斗少年はコッソリと背後からそのカードを頂いたのだと言う。

「『!』マークが一つ、書いてあったんだ」
「クエスチョンに、エクスクラメーション?……世界一短い手紙、か」

 『?』に対する答えが『!』だというのならそれは、ヴィクトル・ユーゴーの逸話を用いた、意思疎通が出来ている両者を行き来する端的な問い掛けと答えだ。
 怪盗であった快斗の父親が謎を提示し、それを追い掛けていた俺の親父がーメッセージに触れる事無くーそれを暴く意志を提示した、と見るのが妥当か。

「ああ、やっぱり?ウチの母さんが昔、大ファンしてる女優が『レ・ミゼラブル』を演るからって、色々集めた特集にそういう話があってさ、その時にそういう事だったのかな、って思ったんだよなぁ」
「…」

  俺がやり遂げないままでいた謎解きをとっくに解いていた親父と、その答えを受け取っていたかつての怪盗と、なにより…俺より先にその遣り取りを知っていたこの目の前にいる男。

「親子揃って怪盗の追っかけしてくれちゃって、もーう」

 にやにや笑って俺の首に腕を回して懐いてくる快斗を力の限り引っ剥がしたのは、正直八つ当たりだったかな、と思わないでもない。しかし先程目にした棚ぼたのような笑顔とは些か含まれる成分が違うそのニヤケ顔は頂けなかった。
 確かに探偵の俺は、怪盗を捕まえようと追い掛けていた。けれど、それは、決して現在のような関係に至るのが目的ではなかったのだ。
 それだけは、絶対に譲れない。

「あんだよ、新一」
「べっつにー?ああ、アレだ。探偵の手の届かない場所にいらっしゃるらしい怪盗さんに?こーんな近くで触れるなんて、恐れ多くて」

 カップに残っていた珈琲を勿体ないと一口に啜る。なんだか先程より風味が落ちている気がしたが、俺はあくまでも涼しい顔でそれを胃に納めきった。

「そりゃ、こっちの台詞だろ。俺がオメーに近づくの、どんだけ『恐れ』多かったか解ってんのかよ」
「知るか。だったら俺を選んで寄ってくるんじゃねぇよ」
「……」

 怪盗の謎をとっくの昔に正しく解いていた探偵は自分ではなかった事に、今更どうしよもない過去なのだと解っていても苛々して、気付けばそんな言葉が出てしまっていた。
 不意に押し黙った快斗は、突然「しんいちのバカ!」との捨て台詞を吐き、あっという間にー俺が何を言う間もなく、その姿は部屋のドアの向こうに消えていたのである。


***
 
 一通りの話をー黒羽くんがこの家で最後にしていた彼との遣り取りをー聞き終えた私の頭の中で、犬がぺっぺっと何かを吐いていたけれど、あえてその事には触れないように私は言った。

「喧嘩してるんじゃない?」
「だーかーらぁ、言い過ぎたかもしんねーけど、喧嘩はしてないんだって。アイツが本当に腹立てたんなら捨て台詞で終るはずがない」
「…工藤くんに「寄るな」と言われて退場してから音信不通なのだとしたら、律儀にそれを守ってる…という形を取って、貴方に言い過ぎだったという反省を促しているんじゃないの?」

 う…と低く呻く工藤くん。薄々は気付いていたに違いない。というか、解っていてばつが悪かっただけなんじゃ…。
 私は「全くもう」と溜め息を一つ入れてから、居心地が悪そうにしている工藤くんに言ってあげた。今回の場合、背中を押して上げる事が問題解決の近道だ。

「未練があるなら、さっさと捕まえに行くことね。あ、その前に花壇の水やりを忘れないでちょうだい」
「…へーい」

 渋々という風情で、けれどその内心で自分の発言の迂闊さに気付いた後悔と焦燥が垣間見える素早さで工藤くんが本を置いて立ち上がる。
 もしかしたら、カレーは三日間くらい冷蔵庫で寝かされることになるかもしれない。どうせなら持って行けば良いんだわ、と提案しようとしたその時、不意に工藤家の電話が鳴った。

「はい、工藤で…あ、父さん。送って欲しい本?ンなの後でリストをメールしてくれれば…、今はちょっと忙しいんだよ!は?確認って…だから、後で…」

 どうやらこの家の持ち主が、留守を預かる息子に雑用を頼んできたものらしい。急用でないなら、後回しにしたいのが端で聞いていても解る。とはいえ、よその家庭の会話を盗み聞きするつもりは無いから、私はその場から立ち去ろうとした。カレーについては諦めた方が良いかもしれない。しかし、工藤くんが「快斗が?」という言葉を発した事で、私は思わず立ち止まって工藤くんを振り向く。

「…いや、来てねーけど…ああ、伝えておく」

 カチッと通話を切って口元に指先を宛て何やら考え込み出した工藤くん。

「黒羽くんがどうしたの?」
「…あ、ああ。何か、アイツ、向こうに行ってたみてーだ」
「向こうって…」

 それが工藤くんのご両親が現在居住している場所を指すなら、つまりは海外になるのだけれど。『喧嘩』のフォローも少なく、肝心の恋人には連絡も殆どしないまま、一体彼は何をしていたのだろう。首を傾げる工藤くん同様に思わず私も首を傾げた。
 その時、不意にガチャーバタンと玄関で大きな音がして、私たちのいる部屋の扉が開いた。

「新一、いる?!」

「…快斗」
「あら、黒羽くん」

 噂をすれば影ー本人のご登場。
 息を切らして、一先ず肩にかけていたショルダーバッグを床にドサリと投げ捨てるようにして放り出した黒羽くんは、工藤くんめがけて駆け寄って徐にその両手をぎゅっと握りしめると、大きな声で喧嘩の終了宣言を叫んだ。

「俺が間違ってました!俺のが、怪盗の方が、名探偵にメッロメロでした!勝手に怒ってゴメン、愛してるから許して!」

 私の見る限り、工藤くんはそもそも『喧嘩』の意識は低かったと思う。しかし端で見ている私にも解るくらい、必死になって、振り払われまいとするように工藤くんの手を力を込めて握りしめている黒羽くんの方は違うようだ。ー痛くないのかしら?という私の心配は杞憂のようで、工藤くんは黒羽くんの様子に首を傾げつつもちょっと嬉しそう。全く、もう。私の吐いた溜め息は、彼らの耳には届いていない。

「…許す、っても…なぁ」
「認めるから。俺のー『怪盗』の方が、怖い探偵が好きでどうしよもない変態だって!」
「いや、ちょ…オメーもしかしてそれ、オメーの親父さん込みで言ってんのか?!」
「当然。俺、色々確認してきたんだよ。んで、結論は、親子揃って名探偵親子が好きってことだったから、もうコレ俺の認識が完全に間違ってたって事だし、親父は振られて終ってたけど、俺はちゃんと新一捕まえたし、離す気なんざ全然ねーし!」
「?んだよ、振られるとか、認識とか」
 
 離される気のない工藤くんは、手を握られたまま黒羽くんに問いかける。いい加減この場に居ても犬がぺっぺ所か本格的に唾棄する痴話喧嘩の顛末を見せつけられるだろうと思うのだけれど、工藤くん同様彼らの親世代の怪盗と探偵の間にある何かが少しばかり気になって、私は静かに彼らの遣り取りを見学させてもらう事にした。

「10年前、ちっちゃかった新一がウチの親父から預かった暗号は、当時怪盗1412号に『KID』の名前をくれて、ギリギリまで追い詰めて来た工藤優作さん宛だった。だよな」
「ああ、そうだ」
「親父は、その伝言の答えを、明くる日に優作さんの奥さんである有希子さんが持ってくるとは思ってなかったんだ」
「?」
「母さんが言ってたの思い出したんだ。あのインタビューの仕事があったレストランから帰って来た親父に、もう返事が来ちゃったの?って残念そうに。それ、確認した」
「…もう?」
「そもそもメッセンジャーに選んだ相手は工藤優作の息子とはいえ小さい子供。時間は夜。作家はいつも多忙だろ」
「ああ。あの時も…俺が博士と蘭を引っ張って暗号探しに出た日も、親父は原稿に追われてて、寝不足みたいな感じだったな」
「だから、親父はメッセージの答えをある場所に送るよう、あの時レストランで有希子さんにお願いするつもりだったんだ」
「…ある場所?」
「俺んち」
「は!?」
「母さんが教えてくれたんだよ。あの頃…つっか今もウチの母親工藤有希子の大ファンでさー。夫妻揃ってファンレター送ったらきっと目立つし、あわよくば家族ぐるみで対面できるかも、って」
「…家族ぐるみって…」
「普通だったらさ、親父の仕事場に着いて行く事なんて滅多になかったんだ。でも、あの時は「快斗も行ってらっしゃい。綺麗な人に逢えるわよ。もしかしたら、可愛いコもいるかもね」って送り出してくれてたんだよな…」

「つまり、あのメッセージは昔の怪盗さんが、直接工藤優作さんと繋ぎを作る為の物だったってことかしら」

 思わず口を挟んでしまった。しかし黒羽くんは気にした風でもなく、うん、と私を見て頷いた。ちなみに手はいまだに工藤くんを離していない。実に普通に此方を気にしていないので、私も二人の語らいを邪魔したかしらなどと気にするのは放棄する。

「ところが、工藤優作氏は、怪盗の思惑を無視して簡単に暗号を解いて、答えを渡して、それ以上の接触は生まれなかった」
「そうなんだよ!」

 黒羽くんは片方の手だけを工藤くんの手から離して、ゴソゴソとズボンのポケットに入れていた例の財布を取り出した。

「この財布の事もさ、優作さんは知ってたんだ」
「!?」

 工藤くんが瞠目して黒羽くんを見る。それはそうだろう。私がその財布を見た時、それは工藤くんの幼馴染みの少女の書いたメッセージと共に本棚の奥の奥に仕舞われていたのだから。

「多分、ちっちゃい新一がこの暗号を解きに出た前の晩、近くの湾岸で事件が在った筈だ」
「あ、ああ。だからその夜はその一帯は侵入禁止になっててー」
「同じ晩に、ウチの親父ずぶ濡れで真夜中に帰って来てたんだよ。洗濯物が多くてアレ?って思ったんだ。それもついでにオフクロに聞いたら『あの夜ねぇ…、フフ、所用で立ち寄った学校の帰りに海に寄ったら、偶然その近くを散歩してた作家さんに頼まれて湾岸倉庫で探し物をする羽目になって、何でか海に落ちちゃったって言ってたわねー』とか言うの!」
「…え」

 黒羽くんの顔ーと言うより目の前の空間を凝視しながら、工藤くんの頭の中で目まぐるしく彼の記憶と彼の恋人の証言が組み合わさって、なにかを導き出そうとしているのが伺えた。『謎』を目の前にした時の反応は、彼がコナンであった時と何ら変わらない。さて、この先にでてくるのは『いたずらっ子』のような顔なのか、はたまた、してやられた顔になるのか。
 だが、そのどちらでもなく、工藤くんは黒羽くんの手をさっと離し、「あ、ちょ新一」と追いすがる黒羽くんを無視して身を翻し、眉を顰めたまま、自宅電話の受話器を取り上げた。ピ、と一音で通話先が決定されるなら、リダイヤル機能かあるいは着信記録が使われたのだろうと思う。…きっと繋がる先は彼の父親に違いない。

「もしもし?父さん…あのさ、ああ、さっきは悪ぃ。丁度快斗がこっちに来たから。あの財布を知ってたって、聞いた。…ああ、その財布だ。それで…10年前、あのメッセージに辿り着くために最初に通る杯戸港の埠頭で、当時殺人事件があったよな?そんで、その時…そう…。じゃあ…寝不足だったのは…。じゃあ、あの夜俺から『ハイドの怒りを鎮めよ』って暗号を聞いた父さんはー」

「…は?それ、会ったって…おいソレ」

「成る程。通りで今思い返してみりゃスピード解決してた筈だぜ。コイツのハートフルってのは親父譲りってことか…」

「ーはあ?薔薇?庭の隅貸りてっけど…そりゃ、貰ったけど。何だよ」


「うっせー!!」

 ー がちゃん
 最終的に受話器を叩き付ける勢いで電話を切った工藤くんの顔は、赤かった。耳まで。
 話の途中でちらりと黒羽くんを見つつ、何かを確信して話を進めー最後はモゴモゴとこちらに聞えないように遣り取りしていた彼は、彼の言う所の喰えない親父に一本取られたようだ。

「えっと、新一?」
「くっそ、あの親父…」

 唸る工藤くんに声を掛け難いらしい黒羽くんはおどおどと彼の顔を伺うばかり。出来れば速やかに謎の解答を知りたい私は、「どういうことかしら?」と尋ねた。

「『好奇心の強い子どもが、万が一にも学校からそのまま夜の海を訪れたり、こっそり家を抜け出して危ない事になったらと気にしていたんだろうねあの怪盗氏は』だとさ!」
「やっぱ、会ってたんだなー」
「まぁ」
「もっとも、親父は気付かないフリして、ちゃっかり事件を解くのに必要な証拠を探させたっていうけどな」
「…ああ、ホント親子だな…新一」
「なんだよ」
「いや、今更だった。何でも無い。っていうか、問題ない。俺はそれで納得も満足もしてる」
「それで…薔薇?っていうのは」
「!…っ」
「新一?」

 不貞腐れたように、全ての謎をー小さかった工藤くんが気付く事なく見過ごしていた、10年前の大人の『怪盗と探偵』の遣り取りをー知った彼は、『薔薇』の単語に明らかに動揺しみるみる内に顔を赤く染めた。工藤くんが照れる…薔薇?。
 そういえば、この二人のオツキアイの始まりは、怪盗さんが薔薇の花束と真実の愛の言葉を工藤くんに渡しに来たことだったかしら。
 夜更けの研究作業の合間に一息入れようと窓を開けたその先で、お隣の家の窓辺に見えた風に靡く白い布切れとその向こうの誰かと誰か。すわ通報すべき事案が発生したのかとそっとコードレスの子機を手に様子を伺っていた私は、月明かりに照らされた二人がその距離を近づけて行って、…探偵である筈のその部屋の主が白い姿の彼を部屋に連れ込んだのを確認してしまった。青味がかったまぁるい月の夜の中、白のマントと赤い薔薇。遠目にも二人がお互いしか見ていないのだと解るその近過ぎる距離はあたかも映画のワンシーンのようで、私は慌てて手に持っていた子機を床に放り投げ、素早くカーテンを閉じ「疲れ目かしら。疲れてるのよ、ええ」と眉間の合間を抑えていたものだ。
 ー翌々朝には、お隣さんに同居人ができていて、朝の水やりの時に「おはよう」と声を掛けてくるようになったのである。
 
 だんまりを決め込んだらしい工藤くんは、「水やり!」と一言叫ぶとくるりと私と黒羽君に背を向けて部屋から出て行ってしまった。ああなってしまっては、当面口を割りそうにないわね。

「おい、しんいちー??」
「…ほとぼりが冷めたら、彼でもそのお父様にでも確認したら?それとね、黒羽くん」
「はい!あ、あの色々またご迷惑を…、その、」
「冷蔵庫にカレーがあるから、食べたらタッパーを返して頂戴」
「ありがとう!綺麗にしておきます。…お返しに何か入れておくものある?」
「そうね…」

 花の種でもお願いしようかしら。
 水を遣り忘れても枯れないような、しぶとくて強いもの。
 この家に住む人間にはそういったモノがお似合いなのだと私は思った。







 ー後日、タッパーを返しに来た黒羽くんが、こっそりと彼の義父―もとい恋人の父上から、聞き出した言葉を教えてくれた。

『あの夜出会った”真夜中の散歩者”に、「どんな花がお好きなのでしょうか、作家というものは」って聞かれたけど、優作さんは「読者の心に何がしかの種を植え、芽生えさせ、花を咲かせるお手伝いが出来ればそれで十分なんですよ」って答えたってさ。格好良いよなー』
『んで、新一には「庭に薔薇を植えたようだね」ってこと…と、「泥棒や怪盗といった不審人物からうっかり何か貰おうものなら、逆に奪われてしまう可能性を考えて然るべきなのに、お前ときたら」って…。薔薇の花から取った種、植えてるのに気付かれてたな』

 よくあの白い怪盗さんだったり黒羽くんが、ポンポン何もない空間から出現させているあの花は、彼が手ずから育てている物なのだと私が知ったのは少し前だ。知り合いのご老人に借りているという温室に手入れに行ったり、彼の生活圏内にそっと植えておいているらしい。この人の生活はあたかも工藤くんと共に在るようにしか見えないのだけれど、黒羽くんのマジックショウのお手伝いをしたり、怪盗さんの目の代わりをする白い鳩の世話もしているというし、この人は一体どんな時間の使い方をしているのだろう。あけすけに見えて、ふとした部分に沢山の謎を隠している人なんだと思う。無論、離れて暮らしている筈の息子の行動やささやかな異変を察知している工藤くんのお父様も色々と謎が深いけれど。
 ー工藤くんは、彼の大好きな謎に囲まれてきっと幸せに違いないわ。
 
 それにしても。
 ……気のせいでなければ、貴方との関係を咎められているんじゃないのかしら?それは…と、黒羽くんから話を聞きながら思ってしまったのだけれど。
 彼は一向に気にしていないように云々頷いてたから、私は『貴方が居ない間に薔薇が枯れてしまわなくて良かったわね』とだけ、返したのだった。





【終】






リクエスト:本気で喧嘩っぷる快新:…本気で喧嘩にならず馬鹿っぷるな二人になりました…。すいません!
戻る

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -