優しく髪を梳く感触に微睡んでいた意識が覚醒していく最中、いつもなら零れて行ってしまう夢の切れ端を、その時のオレは偶々掴んでいたままだったようだ。
重い目蓋を開いたオレは、目の前にいたその人を視界一杯に映しながら、その人とは一切重なる事の無い全くの別人を示す名称を口にしていた。

「…ーさん…」
「…へ?寝ぼけてんのか?黒羽」
「ぁえ…うわああああ」

きょとん、とした眼は綺麗な青色をしていて、そこにいたのは工藤新一というオレにとってとても特別な人。
二人で買い物に出掛けた本日、用事を終えた後出先から近かったオレの家に寄り、持ち帰りの飯やデザートを食って…オレはうっかり居眠りをしていたようだった。

「わり!オレ、…」
「おー。よく寝てたなー。涎」

口元を指差され、オレは慌ててゴシゴシと手の甲で濡れている部分を拭った。工藤は苦笑気味だ。恥ずかしい。これはかなりの失態だ。うっかり寝落ち、変な寝言を放って、その間涎垂れ流し。一体どこから言い繕えばいいのか内心でワタワタしていると、工藤は肩を竦めて、「ま、なかなか決まんなくて歩き回ったしなー」と全てを許す言葉を下さった。優しさが嬉しくて、しかし格好悪い姿を見られた事実は変わらず、一層オレは肩身が狭くなる。

「はは…マジごめん。どんぐれー寝てたんだろ。今、何時だ?」
「そんな経ってないぜ?まだ6時半」
「あ、そんなもんか良かっ」
「どんな夢みてたんだ?」

壁掛け時計を確認し、長時間工藤を放っといていた訳ではなかったことに一先ずホッとしつつ、あーでもそろそろ解散時間?勿体無いことしたよな畜生、などと思いながら工藤を見ると、きらりと眼を輝かせた顔がオレの方を向いていた。…やはりオレの寝言はしっかりと探偵の地獄耳に拾われていたようだ。オレはベッドに頭を預けたまま寝ていたせいで妙な寝癖が付いている後頭部をぐちゃぐちゃかき混ぜつつ、あー…ううん…と返事にならない言葉を返してみる。当然工藤は納得しない。そういえば…オレとしても納得できない事柄があるな、とふと気付いたが、いや今は問題はそこではない。

「さっきの寝起きのって「『ト』ーサン」か?ま、オメーがファザコンだってことはこの部屋のアレを見れば一目瞭然ってヤツだが。夢の中までとは…」
「う、うっせー!しょうがねーだろ、夢なんだから」

オレの部屋に飾ってある親父のステージ写真(アレ)と、オレの顔を見比べてにやっと笑う顔は悪ガキっぽい。可愛い。もとい小憎らしい。黒ぶち眼鏡を掛けていたどこぞのガキを思い出す。あれ、それはやっぱり可愛いということか。

「まー、オレに父性を感じてくれて嬉しいぜ?なんなら、新一お兄さんと呼んでくれても」
「ぜってぇ、呼ばねーから!むしろオレの方が気分は兄貴って場面が多いからな!?」
「…ほほう」
「今日だって、あっちでスリだ、こっちで痴漢だ、向こうで無銭飲食だ、ってふらふらオメーが走ってくのをどれほど追い掛けた事か!ったく、『本当に、もう、新ちゃんったら!』」
「母さんの声真似すんな、バーロ!」

バーロ、と同時に、何がしかの攻撃手段が工藤から飛び出して来る事は想定の範囲内。オレは軽やかに、踵落としを狙って振り上げられた黄金の右足を頭の上で両腕をクロスし一旦受け止め、素早く払い、俊敏に部屋の端へと飛び退く。そして追撃に備えて身構えようとして―相手の戦闘意志のなさにアレと首を傾げた。
工藤は胡乱な眼でオレを静かに眺めて立っている。
それから、面白くなさそうに、呟いた。

「誤摩化す気かよ」
「…あ、っと。夢の内容か?いや、そんな覚えてるわけじゃねーし。たださ、工藤が起き抜けに撫でてたのが…て?」

今度はオレのほうが、工藤をジッと見つめてしまう。
そうだ。先ほど気になった一つの事柄。
工藤は一体、眠っているオレに何を。
工藤は、一瞬たじろいだ後、何故か顔を赤くして言った。

「や、アレは、アレだろ!オメーの頭がほわほわしてて…いや、髪伸びたよな、とか思って!そんで、つい。別に他意はねーよ!」
「そっか?え?伸びた?」
「お、おう」

そうかな、と思ってもう一度頭に手をやって、そこで、ああ、だからあの夢をみたのかもしれないな、とオレは残っていた夢の切れ端の全体図を思い出した。


***


子どもの頃、オレは親父と並んで、親父のステージで働くスタイリストさんに髪を切って貰っていた。『とーさんみたくかぁっっっこよくして!』と無理難題を強請っていた記憶が有る。なにせステージでショウをする親父はウルトラスーパーかっこ良かった。その格好良さを作る一端を担う職人の腕にオレはもの凄く憧れていて、その人に髪を弄ってもらえば、オレも親父並みに格好良くなれると信じていたのだ。スタイリストさんは時折人が変わったりもしたが大抵とても腕がよく、ノリの良い職人さんに至っては、オレと親父を鏡の前に並べて、オレの頭から服から一揃え用意して親父のミニチュア版に仕立ててくれる人もいた。
この頃のオレは、とにかく親父と一緒に髪を切っていたと思う。
職業柄手先の器用な人だったので、家族写真の中にはオレが親父に散髪してもらっているシーンもあるのだが、ステージ前はとりわけ周りのスタッフがあの魔法を生み出す指先に気遣ってアレコレ世話を焼こうとしていた記憶が有る。特に、長期のショウ開催中や船上での仕事の合間に会いに行く時は、自身の商品価値を損なわないようにと親父は散髪と整髪をプロに任せる事が多かった。久しぶりに逢えた親父に『おや、快斗も少し髪が伸びたかな?』と言われれば、普段近所の床屋に行こうと母親に促されても首を横に振って嫌がるオレが、喜んで親父と並んで鏡台の前に座ったものである。
ヘアスタイルの出来上がりに、親父に頭を整えてもらったり、親父がどこからか取り出したシルクハットを被ってポーズを決めたり、普段使いの新しい帽子だよ、と小さなプレゼントを貰ったりするこの機会は、オレにとって掛け替えの無い、大好きな親父との親密な時間だったのだ。

だからー

父親を亡くした後。
オレは、一時期鳥の巣のような頭をして過ごしていた。
呆然としたまま葬儀を終え、49日を過ぎ―あっという間に父親の居ない季節が一巡りして、それから忌明けの法事を前にした頃。母親に、髪を切りに行きましょう、と言われた。だが、オレはこれに頷かなかった。
髪を切るときは、父親と一緒に。父さんのようにかっこよく、と。多分ずっと思っていたのだ。
母親は、その事を察していて、「ほら、前に髪を切ってもらったり、素敵にしてくれていた人が来てくれたわよー」と、かつて父親の職場でお世話になったスタイリストさんを連れて来てくれたりもした。スタイリストさんはオレを見て「大きくなったねぇ」と懐かしむような切ないような眼をして、「パパさんに負けないくらい格好良くしてあげる」とか、「お空のパパがびっくりするくらい素敵になろっか!」と声を掛けてくれた。オレはしぶしぶ用意してもらった大きな姿見の前に椅子に座って、けれども鏡の向こうに隣に座っていた筈の父親の姿が見えなくて、気がつけばわんわんと泣いていたようだ。
―ようだ、というのは、気がついた時、鏡に映っていたのが、泣きはらした眼をした自分と、オレの頭を抱き込むようにして撫でている母親の姿だったからだ。スタイリストさんの姿はそこには無かった。後で聞いた所によると、泣きじゃくっている子どもの頭に鋏をあてる事は出来ませんから、と言って、母親と場所を変わって退室していたそうだ。
何度も頭を撫でて行く手が、とても気持ち良くて、以前父親に「格好良くなったね」と撫でてもらったときの事を思い出した。
誰よりも、父親との思い出を分かち合える人は、ずっと傍にいたのだ、と。オレは、その時そんな事を強く、強く、感じていた。
だから、―それ以来、オレが思春期を迎えてセルフカットの技を磨き出す中学後半まで、オレの頭は母親の手でカットされることになったのだった。


***


「昔さ。父親と一緒に髪切ってもらってたときの夢だったんだよ」

オレがそう言うと、工藤は数回瞬きして、少し目元を緩めた。

「…へぇ。仲、良かったンだな」
「ああ。親父の仕事がアレだろ?楽屋に遊びに行った時に、プロのスタイリストさんが、ついでにオレのも切ってくれたりもして」
「役得じゃねーか」
「そ。…でも、親父が居なくなってからは、しばらく母親に切って貰ってて」
「……」
「工藤に撫でられてた時、多分その辺の事夢に見てた」

ぎこちなく押し黙る工藤に、今度はオレがにやりと笑ってみせる。

「だから、工藤にはむしろ母性を感じたわけだ!」
「!?げっ」
「なんだよ。どーせ、オレの可愛い寝顔になでなでしたくなったんだろ?もうそれ母性とか愛じゃね?」
「ふざけんな!ぼっさぼさの頭しやがって」
「あー、ま、確かに伸びたし。最近忙しかったからなー。そのうち切るって」
「…オメーって、自分で切ってる?よな」
「お。さっすが名探偵ー。正解!結構上手いだろ」

怪盗の衣装を引き継ぐにあたって、中学以降身につけたカット術及びスタイリング術は大変役立つ技術の一つになった。いざとなれば怪盗から名探偵にちょちょいのちょいで大変身。それに、髪の毛一本現場で発見!ってだけで難癖をつけて来るヤツもいるから、自衛の為にも、自分の始末を自分でするのは当然なのだ。

「工藤は?いきつけの美容院?それともー、大女優お抱えの専属美容師についでに切って貰ったり?」
「…オレのことはいいだろ。セルフカットって後ろとかどーすんだ?」

誤摩化したような尋ね方に、これは図星かー、一体散髪代おいくらなんだろ、いっつも工藤の髪カッコいいもんなーと口には出さずに考えつつ、オレは棚に仕舞っている道具一式を取り出した。
刀身が細く切れ味が良さそうな鋏に、切り口が特徴的な梳鋏、…大小各種数が結構有る。工藤が道具に手を伸ばしながらオレをちらっと見るのに頷くと、興味深そうに一つ一つを手に取って眺め出した。

「母親が昔使ってたヤツとオレ用にって貰ったヤツ。手入れはオレがしてるぜ。スパッといくから気をつけろよ」
「へぇ…。母親が使ってた、ね。美容師の経験があるのか?」
「聞いた事ないな。むしろ父親の方がガキん頃はオレの散髪してくれてたし。あー…母さんの最初のカットの時は酷かったなー。揃わなくてどんどん短くなってって」
「じゃ、こいつらは」
「オレに使う為に、母親が揃えたヤツが殆ど」
「…ふぅん。スゲーな」
「?」

感心、というより感嘆して刀身を見ていた工藤にオレは首を傾げる。一つの鋏を取り上げて工藤が言った。

「これとか、ウチの母親がよく呼び出す美容師が好んで使ってるプロ仕様のヤツと同じメーカーだぜ。一般家庭じゃ滅多に出てこない」
「…マジ?」

オレは長こと髪を切る店にはお世話になっていない。鳥の巣頭を見かねた隣に住む幼馴染みのおっちゃんに床屋に連れて行かれた時、異様な音を立てて迫って来るバリカンが怖くて、白いケープを首から下げたまま逃走したのが最後だったと思う。

「使いこなすにも技量がいるだろうし。さすがオメーの親ってとこか。オレが知ってる美容師は、切れ味維持に専門業者に研ぎに出すって言ってたが」
「メンテはしっかりね〜、とは聞いてるけど。…高いのか」
「一番安くて一丁五万辺りから、天井無し。これ、銘も入ってるし、持ち手が小さくて多分オメーの母親の手に合わせて調整も入ってるだろ…こっちは、…もしかして」
「あ、オレが自分で切る!って言ったときに、じゃあこれ使いなさいってくれたモン。メインで使ってるヤツだけど」
「…愛されてんなぁ。もしくは信頼か」
「えーと…」
「錆びさせちまうような人間に、ホイホイ与える道具じゃねーよ」

しみじみとした口調での思わぬ感想に、オレは気恥ずかしいやらこそばゆいやら。愛用品に対する普段のメンテナンスを欠かさなかった両親の姿を見習っていて良かった。なんせオレの研ぎの技術は、台所で丁寧に包丁を研いでいた母親の腕を見習ったものだ。(研ぎ澄まされた刃物を前にうっとりと笑っていた姿は結構恐ろしく深夜に目撃した時はうっかり叫び声を上げそうになったものだが。)
工藤はひとしきり道具類を観察して満足したのか、「サンキュ」と言って戻すとオレを振り向いて笑った。

「手配した贈り物、喜んでくれるといいな」
「…お、おう。あ、今日は付き合ってくれてアリガトな!」
「いや、オレも準備しないとなーって思ったから丁度良いって言っただろ。オレ、いっつも幼馴染みに選んで貰っててさ、喜んではくれるんだけど、『蘭ちゃんにもありがとうって言ってね!』って電話が…」
「うわ、似たような記憶があるぜ…。母親って鋭いよな」

全くだ、と深く頷く工藤に、居眠りに付き合わせた詫びにコーヒー淹れて来てやるかー、と言って部屋を出た。工藤は、んじゃー少し片付けとく、と食べ散らかしたゴミを纏めてくれるようだ。

―なんかすげー良い雰囲気な気がする。

時間が時間だし、いっそ夕飯食べて行くか?と誘うのはどうだろう…いやいや、さっき食べた(しかもオレはグースカ寝こけてた)し、腹は空いてないかも。食後午睡後の運動を言い訳に、コーヒーブレイクしてから工藤を送って行くぐらいか。念のために冷蔵庫の中身は確認しておかなければ。
素の姿を晒し合って、そこそこの友人にはなれて来た気がするけれど、なかなかそこからが進まない。
ペア柄のカップを選んでテーブルに置く。
帰したくないから泊まってかない?だの、送り狼になっていい?だの、そんなサインでどうにかなる相手じゃないので仕方ないのだが。…そうだ、いっそ口にするモノにクスリを仕込んで既成事実を捏ち上げる、というのならどうだろう、と。ふとコーヒーメイカーから落ちて来る黒い雫を見ながら考えてみるが、あの名探偵の眼を欺くのは至難の業な上、ハイリスクに対してリターンが軽蔑だの絶縁になったら後悔どころの話ではないから、うん、却下だ。

「焦りは禁物、ってね」

最後の一滴が落ちるまで待って、オレは出来立てのコーヒーをカッップに注ぐ。
工藤にはブラック。
オレ用にはミルクとシュガーを添えて。

「いー香り。さっすがオレ」

自画自賛をしていると、階段の上から「なー、江古田って、もしかしてゴミって仕分けとかするのか?」と声が聞こえて来た。

「そこ、気になるんだ?!」

意外な台詞にオレは思わず小さな声でツッコミをしてしまった。普段の名探偵工藤新一…いや普通に男子高校生の口からそんな言葉が聞けるとは。一人暮らしのオレだって、大雑把にしか把握してないのに。これはおそらく小学生をやり直した際に昨今のエコやら環境問題を勉強し直したか、もしくは、居候先のお姉さんに躾けられた、ってところだろうか。…いや、それとも母親に?あの綺麗なおば…もといお姉さんが家庭的ならまさに男の理想像だろう。意外な一面発見に、これは工藤の家庭的な部分を要調査だな、と心にメモった。

「空き缶だけ除けといてー、適当で大丈夫ー」

お盆の上に、カップを置きながらとりあえず返事をする。自分の顔がニヤけていくのがわかった。
こうして、穏やかな時間を持てる事。それに、毎年の恒例行事の一つを、工藤と一緒に過ごしたのは今までには無い大きな変化だろう。幼馴染みの女の子の情報や配慮が消えた今年の贈り物に、一体あの自由人な母親はどんな感想を送って来るやら。

「あ、っと。そーだそーだ」

お盆を持ち上げようとして、一旦手を止める。
オレはジーンズのポケットに入れっぱなしにしていた伝票―本日工藤と共に暗中模索喧々諤々の末選んだ贈り物について書きとめた紙を、カレンダーに貼っておくことにした。
配送指定日は、5月11日。
来週の日曜日は『母の日』だ。










無償の愛に無償の感謝を。






ハッピー・マザーズ・デイ!


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