□10年前のこと□




工藤新一という男子高校生が、とある毒物を飲まされ身体が縮み、江戸川コナンという小学生男児に変身してしまったという、なんとも奇妙な事件があった。
本来なら彼の命を奪っていた筈の猛毒の奇跡の作用。

一命を取り留め江戸川コナンとなった彼は、元の工藤新一の姿を取り戻すべく、毒物製造元だった黒の組織と戦い、毒物を解毒する薬の副作用と戦い、小さくなりながらも探偵を称する者として多種多様な犯罪者と戦い―時に気障なコソ泥野郎と彼の評する白き怪盗とも戦いまくった。

―だが、懸命に戦い続けた結果は、彼に報いるものではなかったのである。

組織はなんとか潰すことができた。しかし生命を維持することを優先した結果、肝心の元の姿を取り戻すための毒を解毒することが不可能な状態であると判断が下されたのである。
それは工藤新一がこの世から消えて、江戸川コナンがこの先もずっとこの世にあり続けることになるという示唆であった。

当然、彼はそもそもの毒物の製作に携わり、ずっと解毒剤の研究をしていた女性に詰め寄った。
一体どういうことだと。
彼女は苦しげに、こう述べた。
『工藤くんも、江戸川くんも、そのどちらも死んでしまったら、どうする?』
実際彼や彼女がかの毒物が齎す死へのいざないを拒否できたのは何億分に一つあるかないかの奇跡だったのだ。さらに、短時間だけでも元に戻れるという奇跡を彼女が精製するにあたり、元の姿に戻れることは、そう遠くない未来にあるはずだった。
―だが。
『貴方の体は、もうボロボロなのよ』
そもそもの毒物。処方された解毒剤の半端な作用。毒を毒で制しようとしたその試薬が起こした身体異常は深く彼らの身体を傷つけていた。
度重なる身体伸縮は、内臓や骨格どころか、原始細胞に影響を与えていて、組織を潰した際に得たデータを元に新しい解毒剤を作ったとしても、ソレを彼が服用することはもはや自殺行為に近かったのだ。
それでも元に戻ることを、『江戸川コナン』と自らを称した少年は主張した。
けれど、彼女は決して引かなかった。

「駄目よ、…私は、もう薬を作らない。ごめんなさい、『工藤』くん、ごめんなさい…!」
「?!ふざけるなよ!じゃあ、何のために俺は組織を潰した!?俺は、絶望を味わうために今まで沢山の試薬を飲んできたわけじゃねぇ!」
「それでも、だって、」
「なんだよ?!」
「―っ、生きてるじゃない!!絶望ですって?ひとかけらも存在しない希望に取りすがって、死んでしまうほうがマシだって言うの?!」

滅多に感情を乱さぬ冷然とした少女が、その時涙を流して叫んだ。

「ごめんなさい、私がそんな事を言える立場じゃないって、分かってる。分かってるの、でも、もう、貴方の身体は」
「…灰原」
「不完全な解毒剤による作用が、度重なる身体収斂がどれだけの後遺症を齎すのか甘く見ていた私が悪かったの、ごめんなさい。でも、私は、私は」
「……」
「私は、貴方に生きていて欲しい」

少女の懇願に、少年は己が諦めなければならないのだと悟った。
目の前で繰り返しごめんなさい、ごめんなさい、と言って涙を流す少女。
ずっと『工藤新一』の帰りを待っている少女の顔が脳裏に浮かんだ。
―どちらも哀しい顔をしていた。


※※ ※※ ※※


そんなことがあった日から数日たったある夜、コナンはまだ手の中に残っていた解毒剤を眺めていた。
もはやこれは一時的に元『工藤新一』の姿にしてくれるものではなく、彼に死を与える毒薬なのだ、と思うとひどく不思議な気持ちだった。
―これを呑んでロンドンに行ったことがある。
空港のトイレの中で大分苦しい思いと臭い思いをした。
ロンドンからの帰国を待てずに、余分に錠剤を服用したな、と思い出す。
薬の製作者は、そんな探偵の行為に眉を顰めていたが、うまくいったんだからいいじゃねぇか、と笑って彼女の叱責をやり過ごした。
そんなことが、他にもあった。
誰よりも自分が、あんな尋常ではない痛みを受けていたのに、誰よりも自分自身が、己の身体に無頓着だったのだ。

その報いをこれから先、この身体が壊れるまで受け続けることになるのか。

小学生の小さな手のひらの中でコロコロ転がる小さな薬。こんなものが命を握る。いや銃弾だって似たようなものだ。あんな素っ気無い鉛玉一つでだって、容易く人は命を喪う。
―アレに腹を撃たれたこともある。
病院で目覚めたとき、全く己はしぶとく生き汚い人間なんだな、とそう思った。
あげく生きていることへの感謝なんかよりも、当時の難題だった幼馴染の彼女の疑いをどう晴らそうか、そんな事を考えて―江戸川コナンが工藤新一とばれてはならない、と薬を飲んだのだった。

ぎゅっと手を握れば、隠れる錠剤。
手を開く。
やはり、ソレはそこに在って、あの時に呑んだ物と全く同じで。
窮地を救う唯一の手立てだった、のに。

不意にコナンの前髪が揺れた。
風のふうわりとした感触。

「……」
「飲むなよ」

ジッと手の中の錠剤を見つめていた視線を、声のほうに向けた。
ベランダの扉を開けて月を背負った白い怪盗が立っていた。

「何しにきた」
「よぅ、名探偵」

軽やかな声を裏切る、厳しい目付き。咎めるような。

「出て行け」

そんな目で見られる覚えも、大体にして怪盗の訪問を受ける理由の無い探偵は、何の感情も浮かべずに、退出を命じた。怪盗はひとつ肩をすめると背を窓にかるく預け、あくまで目だけは錠剤の在りかを確認しながら、口を開いた。

「…風の噂で、工藤新一が永劫不在になるらしいと聞きましたので。どうしてるかな、ってさ」
「…… どうもしてねぇよ」

相変わらず悪趣味な盗聴でもしてやがるのか、と問い質すでもなく、ただ乾いた声がそう言った。少なくとも怪盗の耳にはそう聞こえた。
その小さき姿にも、内側に秘めたる存在にも、そのどちらにもそぐわない、乾ききった。

「諦めちまうのかー?」
「何を」
「今だって十分名探偵だけどさ。あの毛利探偵みてーに、自分の探偵事務所とか持って、ずっと探偵すんだろ?おめー」
「そんなの」
「江戸川コナンが工藤新一を越える名探偵になる、それで良くね?」
「…簡単に言うな」
「俺は、小さくても、大きくても、おめーがおっかねー事に変わりわねーから、別にいいと思うけど」
「良くねぇ」
「成長はするんだろ?……もう一回、やり直せばいい」
「ってめ」
「おー、やっとコッチ見たな」
「…何しにきた。捕まりてぇのか、だったら今すぐ警察を呼んで」


「江戸川コナン、いらねーのか?」


凛とした声だった。
真実を求めるような。
お前の真意は奈辺にありや、と声は問うた。
探偵は唇とかみ締める。即答できなかった。

「工藤新一に戻るまでの姿の予定だった。戻れないのに、江戸川コナンでいる必要ってなんだ?」

「生きてる」
「ただ、生きて。それでいいのか?それだけでいいのか?!なぁ!!」
「駄目なのか?お前が要らないなら、俺に寄越せよ、江戸川コナン。それに、戻れないなら、工藤新一も俺が貰ってやる」
「ふっざけんな…っ!」
「んじゃ、預かるだけにする」
「人間二人分の存在を泥棒か?けったいな真似するもんだな、怪盗ってのは」
「お前が要らなくても、俺には要る」
「怪盗にやるもんなんざ」

ねぇ、と続けようとした言葉は、何故か視界が一瞬白く染まったことで遮られた。

「そっかそっか。ほんと諦め悪いよなー。ああ、良かった!」
「…っ?!なに」

白い何かは一瞬で視界から退いて、誰もいないベランダのキィと揺れる扉がコナンの眼に入った。―白い衣装の肩越しに、見えた。

「…何の真似だ、怪盗キッド」
「なぁ、今すぐ、江戸川コナンを、一番有名な名探偵にしてやろうか?」
「…?」
「キッドキラー、ついに怪盗キッドをひっ捕らえる!って、なかなかカッコよくね?」
「?!な、お前」
「凹んでるのはお前だけじゃねーんだよ。自棄になって、そんで楽になれるンだったら、そんなの、なりてーのはお前だけじゃねぇの」

そこで、ようやくにコナンは己を掻き抱いている相手が―あの演出過剰・傲岸不遜・気障無限大のコソ泥が、微かに身体を震わせていることに気がついたのだ。
だったら、と怪盗は少し声を震わせて次の案を提示してくる。

「だったらさ、俺が『工藤新一』してやろっか?どうしても工藤を消したくないなら。生きた操りロボって子供の玩具としちゃかなり上等だと思うんだけど」
「アホか。ンな気持ち悪い玩具なんぞいらねーよ。ゴミ以下だ」

酷い戯言に意識が白い者に奪われて、ついでに手の中の薬もまた奪われていた。しかし、ソレを窃盗の現行犯だの、なにしやがるバーローだのと問い詰めるのは憚られた。奪ってもまだ、探偵に触れ続けている怪盗。目的が見えない。
一体何があったものか。
目の前の、身体に触れている『謎』が、探偵の本能的欲求を呼び起こす。

「ゴミかー。捨てる?要らないかな。怪盗1412号、通称怪盗KID。…お前の弟って聞いてるのに」
「フン、って事は、二代目確定じゃねーか。俺が昔小学校で出くわしたアイツも俺の親父が追ってたKIDだ。年のころは、青年より上、丁度あの頃の俺の親父くらい。だとすりゃ、後から出てきたKIDとは年が合わなさ過ぎる。しかも聞いてるって、何だよ…。誰から聞いたってんだ、オメーがKIDなんだろ?」

簡単に揚げ足を取りに来る探偵に、怪盗は少し、口元だけで笑う。
もっとも抱いている探偵にソレは見えない。

(ホラ、やっぱりオメーはしぶといよ)


「あのさぁ、名探偵」
「なんだ、怪盗」


探偵と数多の勝負を繰り広げていた白い怪盗。
彼はあろうことか、あの夜小さな姿の探偵に向かって、こう告げたのだ。
『捕まりにきたんだ、名探偵』

どうやら、怪盗は怪盗たる姿を終えようとしていて。
その終焉の際に、彼は彼自身の幕引きを探偵に手伝ってくれと懇願したのだ。

―怪盗は、怪盗であることが好きだった。怪盗になることは彼が深く敬愛する人物と同じ存在になれることであり、その存在を亡くしたくなかったのだ。けれども怪盗としての使命を終えたら、怪盗を安らかに眠らせてやる事は、彼が怪盗の姿を借りるときに心に決めていたケジメであり決意でもあったから。
…喪いたくない、けれども手放さなければならないジレンマに悩みあぐねた結果、怪盗は最も彼に遠く同時に怪盗を追う者のなかで最も怪盗に接近していた探偵に、存在の抹消を委ねたのだ。
−いや、単に怪盗を共に惜しんで欲しかったのかもしれない。探偵は、それはそれは熱心に怪盗を追いかけて来てくれていたから。

それに丁度そのころ、探偵はもう一つの、彼にとって真実のほうの姿を永遠に喪失しなければならない状態だと聞いたのだ。
仮初の姿を手放すだけで構わない怪盗である彼よりもよっぽど酷い話だな、と思った。同情をしたわけでもされたいわけでもなかったけれど、無性にあの小さな探偵に会いたくなった。

月明かりに見えた、名探偵らしからぬ生気や周囲への警戒や鋭敏さをなくした茫洋とした姿。こんなにロクに気配も消さずに宿敵ともいえる怪盗がいるのに、彼はただ、じっと手の中の何かを見つめていた。

目をこらす。
―なにかの錠剤。探偵の姿を左右した謎の薬だろうか。
もう戻れないのに、何故そんなものを持っている。

ベランダの扉を開けた。風が白いマントをはためかせる。探偵の目の前に降りた髪も揺らして、そうして、漸く探偵が顔を上げた。

見たかったのはそんな顔じゃなかった。
怪盗を追っていたこの名探偵の顔は、いつだって、厳しくて鋭くて。おっかないことこの上なくて。
その眼光を放つ瞳に追われれば、もう警戒のあまりに心臓は痛くて、冷や汗を掻かされた。

それなのに、こんな相手では怪盗KIDは捕まえられない。
最早己の手元に置いておくことも出来ない、しかし唯一今の怪盗が好敵手と認めた名探偵がこれでは、もう誰にも捕まえられなくなってしまったのと同じだな、と思った。
それでも、まだ一つ怪盗を終わらせる手はあったから、怪盗は―怪盗だった男はソレを口にした。
『怪盗を捕まえろ』と。
とんだ自首だ。
だが彼ならば、良い。
己にとって唯一の名探偵ならば、とそう思ったから。
思わず触れていた、探偵の身体が、とても温かったから。



探偵は怪盗に一言、『バーロー』とだけ告げた。
追いかけっこが楽しかったのに。解読が困難な予告状が面白かったのに。
何で勝手にそんな真似をするのか、いち抜けた、と追いかけっこを止めてしまうなんて。

大体コッチだって、元の姿に戻れないと宣告されて、どうしようもない現実と先行きに、何も見えないでいるような状態だったのに。なんで、他人の―しかも宿敵である怪盗の心配なんぞしなければならないんだ。
捕まえる?じゃぁ、今すぐ警察に引き渡そうか?と揶揄う風を装って聞いてみれば、『構わない』って、一体なんだそれは。
まるで置いて行かれるような心地に、何故か泣きたい思いがして―苛々して。
複雑な想いで怪盗を睨めば、怪盗は困ったように笑って、そうっと探偵を抱きしめる腕に力を込めたのだった。


それから、怪盗はそのままの姿勢で怪盗の全てを語り―最後に『黒羽快斗』という少年に変身してみせた。

ソレを見た探偵は、そんなやわな面した高校生を捕まえてやる義理はねーんだよ、と言い放って、それ以来、彼は探偵の傍らにいるようになった。

月夜に探偵を尋ねてきた怪盗は、その夜を境に姿を消した。



10年前のある夜のこと。








ある一つの終わりと始まり

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