水葬恋談 | ナノ




どうしたことか工藤新一という人物は、突然彼の部屋へと入り込んできた不審者を警察に突き出す事無く、かといって慌てて救急車を呼ぶでもなく、こちらの要求を聞いてくれた。

(あの時点での部屋の住人に対する印象は正直薄い。騒ぎ立てるなら暫し眠ってもらおうと、一応お辞儀の姿勢を取りながら密かに懐にある武器に指を掛けていた。)

怪盗の酷い状態を察しながら、彼がしたのは実に冷静な確認。助からないかもしれないが、それでいいのか、などと。それに『鳥』と称した相手へ、飛んでる時間を間違えていないかと首を傾げていた気がする。

(肩すかしを喰らったような妙な心地は張りつめていた糸を解いてしまって、堪えていた痛みに耐えられなくなった。)

―倒れ込んだ先の温かな感触。あとの記憶は途切れ途切れ。

額の汗を拭われる感触。
一番熱くて痛い場所への圧迫。
喉を通って行った水、と固形物。

それから、目蓋の向こうの明るい光。

目を覚ました怪盗は、どこに繋がれる事も無く、怪盗のままの姿であり、…危機を脱したのだと知った。
あの夜は、どうしても追っ手が振り切れなかった。銃弾を受け、低空飛行―墜落へ、と見せかけながら、周囲を鬱蒼とした木に囲まれたひっそりとした佇まいの洋館の窓辺へ逃げ込んだのだ。夜も遅い刻限に微な灯りだけの部屋―住人が眠りの国に居ることに賭けて滑りこんだ。
賭けは、結果的には勝ったといえる。
住人は冷静で心優しく、怪盗は通報の憂き目に遭う事無く、それどころか、「あの石」を探すべき遠因である人に―「運命」に出逢ったのだから。







(会いたい逢いたいあいたいアイタイ…)

煩いほどに騒ぎ立てる心は一体誰のものなのだ。

『きっとこの衣装を身に纏う時、君は運命に出逢うだろう』

まるで予言のような言葉だと思っていた。
それがそのまま真実になることなど、その時の自分にはわからなかった。

「うっせーよ」

騒ぐ内側の声は、その実外側から来ているものだ、と。そう黒羽快斗は思っている。
『彼』を見た瞬間から―正確には、彼の持つ綺麗な青い瞳を覗き込んだその次の瞬間に、流れ込んできた『記憶』と『感情』があった。

青いイメージに湧き上がった激しい恐怖。
 ―撃たれた傷の深さに、回復が追いつく前にこの目の前の人物に白き怪盗が捕えられてしまうかもしれないからだ、と最初は思った。
だが、恐怖心を抑えながら、どう対処すべきか算段を付けるべく目の前の相手から眼をそらすまいと彼を見て、そしてモノクルのレンズに映った「アレ」を認識した。
突如視界を覆ったそれに恐怖しながら、一方至上の歓喜を覚えた己に、一体何事が起こったのかと激しく狼狽した。

レンズに映った「アレ」に対して湧き上がった情愛。
 ―己にとって何よりも恐怖を齎す筈の映像が、泣き出したいほどに、狂おしいまでに愛おしいモノへと変化して、そして、漸く出逢えたのだ、と確信へと至る。

『ミツケタ』

その声は、この衣装を初めて纏った時に聞こえてきた『探せ』と命じた声によく似ていた。ただその時は、己の確固たる『探してやる』という意思が齎した幻聴なのだと思っていた。
そうして、見つけたのだ、と認知した次の一瞬のうちに脳裏に溢れた己のモノではない過去視の記憶。

―『彼』は、それはそれはとても美しい姿をしていた。
―『私』は、その姿をいつも憧憬をもって眼に写し、そして、深く深く、愛した。
―決して触れられぬ、触れてはならぬその『彼』を、真心をもって、愛した。

これらは全て、黒羽快斗の感情でも記憶でもない。
一切覚えがない記憶を自分自身のものだとどうして認められるものか。
それなのに、白い衣装を脱いでもなお、頭から離れてくれない彼―工藤新一。

「綺麗、なんだよなぁ」

煩く訴えだす一番の装具を片手に、そっと眼を閉じる。
あの声が無くとも、思えば浮かぶようになった彼の姿。
それと同時に脳裏をよぎる「アレ」のイメージに背筋が震えた。


黒羽快斗は、『アレ』が嫌いだった。

それは、生まれついた時から決められていたかのような、絶対的事実だった。正しくそれは恐怖の対象だった。母親に聞いても『ずっと前から駄目なのよね、変なコ!』と言われてしまって、駄目になってしまったきっかけさえ快斗は知らない。
見た目や匂いや触り心地くらいは知っているけれど、知覚した回数は本当に少ない。見たくない、触れたくない―ずっとそう思ってきた。味や食感など尚更だ。
ただ、怖くて。
怖くて。
だから、きっと大嫌いなのだ、と。ずっとそう思っていた。

(『怖い』と『嫌い』が、全然違うことだったなんて、知らなかったんだ)

今夜の月は、昨晩の黒い雲が去って、薄い雲の合間から時折姿を見せている。
とある宝石展の開催期間に合わせて贈った予告状にも、月の出現する刻限を暗示してある。怪盗が出現する舞台は整った。あとは我が身を怪盗に変えて、夜空へと飛び出して、ショウを敢行しに行くのだ。

「…終わったら、また、行くのか?」

問いかけは、己に向けて。答えは既に決まっている気もするけれど、行かない方が良いのでは、と微かに思いもする。聡明そうな相手のこと、いつまで怪盗などという不審者を大目に見てくれるものか、正確な所は分からない。
それに、会ったとしても―愛しいのだと心のどこかが訴えても―それ以上の何かを望める相手でもないだろう。

黒羽快斗は『アレ』が怖くて仕方ないのに。

どうでも良いような、ただ彼の傍にいたいが為の与太話の最中に寝てしまったヒトに、どうしてこんな気持ちを抱くのか不思議に思って、ベッドに横たえるのを良い訳に恐る恐る彼に触れた。
―そして、それは大きな間違いだった。
頭の位置を直そうとそうっと触れた瞬間に、何かに弾かれたように、指先を襲った衝撃。静電気、の類いではない。その時白い手袋は外していたのだから。
ちりりと痺れさえ起こした指先。一体何が、と触れた先を見れば、彼の肌が、先程触れた部分が、不自然に赤く腫れていた。
呆然とそれを見て、またも自分のものではない感情が湧く。唐突に起こった事象への疑問でも猜疑でもない、深い深い後悔と懺悔。そして、更に大きくなった恐れ。

「いい加減、通報されてっかもしんねーぞ?オメー」

快斗は、鏡に映った『怪盗』にそう忠告してやる。
我ながら一体何をやってるんだと呆れもする。それなのに、向こう側にいる怪盗は笑っているように見えた。

昨夜彼に逢いに行かなかったのは、月が隠れていたから。
月の光を通し、その正体を露わにする彼女を孕む「あの石」は月夜に奇妙な現象を起こすという。
怪盗は、ひたすらに彼女を追い求める存在であり、ゆえに怪盗の犯行に―正確には犯行動機を満足させる為には、月の光が絶対条件となる。
だから、月の無い夜の怪盗はとても静かだ。

昨夜は静かすぎて落ち着かない夜を過ごした。
繰返し思い返す彼の姿がずっと心をざわつかせていた。

怪盗ではない己が、どうして彼に会いたくなるのか。
逢いたくて、想うだけで、きゅうと心臓が軋むなんて。




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