水葬恋談 | ナノ




時計はとっくに頂点での長い針と短い針の邂逅を済ませて、そのままカチコチと夜の時間を数えて行く。深夜。けれども夜の闇は浅いまま。月の光が溢れるとても明るい秋の夜。手元を照らす為のベッドヘッドの明かりだけを点けて、寝床に身体を伸ばして読書に勤しんでいた時。

その男は、彼の寝所のある部屋の窓辺へと突然飛び込んできた。

彼はその夜、高さも幅もそれなりにある出窓のガラスを開けていた。時折枕を干す程度にしか使わない、観葉植物を置くでも無い素っ気ない白板を張った窓辺。観音開きのガラス窓を全て開ければ、するりとひと一人分は通れそうな開放感ある作り。とはいえ、彼はそこから出入りしたことなどなく、実際人がそこを通り抜けてくる所を、その時初めて目にしたのだった。

ああ、大きな鳥だな、と。
驚愕しながら、そんな事を彼は思った。

その男は、翼を広げた鳥のようなシルエットで出窓を一瞬覆った後(ここで彼は突然陰った視界に窓を見た)、窓に足を掛け出窓の天井部に手をかけた瞬間に翼を折り畳み(ほんの一瞬で鳥から人影へ)、するりと窓の中ー部屋の中へ。そして窓と彼の寝転がるベッドの間にすっと立った。
文字通り、飛んで入り込んで、現れたのだ。
彼の部屋は豪奢な洋館の二階にある。
彼が両手を大きく開いて外に向けて出窓のガラスを解放すれば、眼下には背の低い植え込みと目の前には鬱蒼と茂る樹木。そしてその向こうはレンガ作りの塀があって、近隣の家の屋根が見えるー普通の三階建て分の高さのある二階建てだ。
彼の部屋は、鳥でもなければ、入って来れない場所にあった。

白いシルクハットを被り、白い衣装を着て、さらに白いマントを纏った姿は、月の光を受けて眩しいほどで全く夜の闇から浮いていた。月から零れた白露か。はたまた月からの使者でも来たものか。
あまりに普通の景色にそぐわない人物に、警戒しながら手にしていた本を閉じて、その男を凝視した。

「夜分に、失礼致します」
「……誰だ、おまえ」
「…夜の、鳥、とでも」

そうか、やはり鳥か。
驚愕にどこか麻痺した思考の末、納得しそうになって―しかし、おや?と彼は首を傾げた。

「鳥目じゃ夜は飛べないだろう」
「そう…ですね。いつもはもう少し、飛べるの、ですが」

挨拶こそ、御辞儀を伴った丁寧なものだったが、すぐに白い男の呼吸は乱れて行く。
よくよく見れば、白い部分が微かに黒くー赤い染み。

「不躾で、申し訳ないのですが…少し、休憩をさせて頂きたく…」

そこまで言って、男は彼が休んでいるベッドへ側―彼の目の前に倒れ込んできた。
慌ててその身体を支えようとしたが、生憎と彼もまた身体は丈夫な状態ではなく、数秒踏ん張ってみたものの、結局一緒にベッドへドサリ。

「すみま、せ…」
「…悪かったな。支えらんなくて」
「こちら、こそ。すぐに、退き…」

言いながら、男は体重を半身に掛けて、何とか敷いてしまった部屋主の身体の上から移動する。
体格的には己と大差がない様子なのに、これは情けないと、彼は溜め息を吐きつつ身体を起こし、そしてすぐ近くに転がる白い物体を眺めやる。転がった拍子に脱げた白い帽子の下には酷い汗の雫が浮かんでいた。じわじわと彼の衣装から染み出してくる赤さは、暫くすれば、彼のベッドへも浸食していくだろう。

(損傷箇所は脇腹。)
(腹部裂傷?いや焦げた匂いがする…服の損傷は小さい…銃創…?)
(救急車…)
(いや警察か)

彼が取るべき対処法はいくつかあった。特に、一般市民として取るべき行動が。
しかし先ほど「これ」は「休憩」を求めた。

「…一休み、でいいのか?」
「……、は、い」
「ここに医療設備はない。助からないかもしれない」
「いりません」
「…そうか」

言葉の響きは、ここへ救命しにくる人間や事情聴取をしにくる人間を完全に拒絶するものだと容易に知れた。苦しげに眼を細めて、すぐ傍に佇む彼を見上げながら、荒い息の中で「少し、このまま」という懇願が伝わってくる。
この鳥は、助けを求めてやってきたのでは無いのだ、と彼は思った。そして、一般の生活から離れて久しい己が一般市民の義務を忘れていても構わないだろう、とも。

ベッドが軋むのをなるべく抑えながら、そろりと床に足を着け、それから彼は、薬箱を取りに行った。





---------------
×