水葬恋談 | ナノ




要らぬ事を言ってしまった微かな後悔を抱いて、怪盗はその夜遅くに工藤の部屋を辞した。
夜の空を飛びながら、先程の会話を反芻し、立ち去ろうとした怪盗を静かに見つめていた彼の姿を脳裏に描く。



「さ…じゃなくて『アレ』?が俺だって?」
「イメージですよ」
「何だそりゃ」

意味が分からないと眉を顰めた顔に、そんな困った顔もまた興味深い、などと思って笑いかけた。

「覚えてないか、ってもなー。そもそも仮にお前が言う『アレ』に記憶能力があるのかって話だし」
「…川を上る習性のある海の『アレ』は、産卵期には必ず同じ海流に乗って同じ川を登って行くそうですが」
「帰巣本能と記憶は別個のものじゃねぇ?…いや、それを今の俺に期待されてもよ…」

どこかズレている反応が面白くて、怪盗は彼に近づけていた手をそっと引いて、自身の口元を覆った。突然、彼にとっては意味が分からぬであろう話をただ聞いてくれただけでも嬉しいのに。それを話す怪盗の意図までも考えようとしてくれている工藤新一というヒト。そう、彼は人間だ。彼自身の意志を持ち、彼の人生を生きていて、そして彼の言葉で話してくれる。
―それは、かつての少年と『アレ』の間ではなし得なかった奇跡だ。

ファンタジックな話の顛末は、今の世ではない世界で、怪盗と彼が殺害者と被害者だったというだけの事にすぎない。

一方的に覚えている殺害者の心理など、本来それを忘れている被害者にとっては知りたくもないことであろうし、被害者に対し悔いている加害者にとっては、出来ればそのまま知らないでいて欲しい事柄である筈だ。
それなのに、彼に対峙した怪盗は勝手に過去視した記憶を語っていた。
因縁めいた多生の縁があることを知って欲しかったのかもしれない。―否、その大部分は、どうしてかこみ上げてくる彼に対する情愛に、黒羽快斗が歯止めをかけたかったからだ。
今も、己の帰るべき場所を目指して飛びながらも、ずっと心は見送っていた彼に引かれたまま。

(なんだって、こんな)

怪盗の話す言葉を聞いて楽しげに眼を輝かせるのを見ても、本を読む彼を傍で見ていることも、「じゃーな」と言って窓辺から見送ってくれるその姿を振り返るのも、本当は、とても、とても、怖いのに。


多大な矛盾を抱え込んだ快斗は、その夜遅く、極秘ラインで父親を相手にぼやいた。
いつ届くか見当がつかない宛先に、『「見つけた」っぽい。でもアレ多分「パンドラ」じゃないと思う。そもそも「宝石」でもない。でも、見つけたって気がするんだ。ゴメン、変なメールして。でも、俺も意味が解らないんだ。』とメールを送ったのだ。
己の中の己のモノではない記憶やら既にその相手と密会していることは伏せて。


***


快斗の父親は、裏と近づきすぎた表の顔を守る為に、およそ三ヶ月に日本を発った。
併せて快斗の母親は、白い怪盗を受け継いだ快斗と、マジシャン業の傍ら世界を巡りひっそり探し物を続ける父とのパイプ役となって、ついでに己の稼業に精を出していて、これまた行方は父親以上に杳として知れなくなった。もとより、母は外出している事が多かったのだが、家に居る最大の理由である愛する伴侶が不在となるならこれは当然だな、と快斗には思えた。

よって、黒羽家には息子一人が残された。

両親ともが後ろ暗い身の上を抱えている黒羽家は、公的書類上、母子家庭と一人の男性とで構成されていて、一家の大黒柱たる主人は存在しない事になっている。偽装離婚があったわけではない、最初からいないとされている父親。あくまでも内縁の夫。しかし、その事を知るのは誰の眼に触れるとも判らぬ資料を見る者であり、時折必要となる公的書類が述べているだけだ。形骸化している形式は、彼らの近隣に住む人間さえ知らぬことで、世間的にも実質的にも、黒羽家は両親と一人息子で構成される一般家庭であった。時には、息子の学校関係の書類を上げる時などに好奇の眼を向けてくる者もあったが、母親の若過ぎる容貌に某かの事情があったのだと察して、物憂げな表情をして押し黙る姿に言葉を止めるのが常だった。

それが現状は、家族バラバラ一家離散の状態だ。
―先代の怪盗が傷だらけの姿で片足の腱を損傷するという事態に陥る前までは、例え「家」が転々と場所を変えても、家に帰ってくる「家族の顔」がコロコロと変わっていても、三人家族は仲良く生活してたのだが。

父の怪我を契機に、裏稼業を廃業するか否かの話し合いが両親の間で行われていたのを快斗は知っていた。知っていたが故に、そこで『怪盗キッド』を存続させたいと望んだのは快斗だった。
それは両親が息子に隠そうとしていた、とある犯罪稼業の露見でもあった。
もっともあの両親は本気で息子に隠し通す気があったのかどうか甚だ謎だ。息子が問い詰めた先で「おや」「あらやだ」と軽く肩を竦めてその後にやりと笑っていたのだから。奇妙な、別人を装う『かぞくごっこ』などという遊びを家庭に持ち込んでいる時点でむしろ英才教育を受けさせられていたようなものだ。

―快斗はなるべくしてなったのだ、と怪盗の衣装を身に纏った。

大好きで尊敬する父親を傷つけたナントカの組織とかいう奴らが許せなかったし、父親を隠す―守る為に出来る事は何だって負いたかった。それに、両親が揃って探している謎の『パンドラ』にも興味があったし、何よりも、『怪盗キッド』への興味あるいは憧憬―その存在への挑戦の機会が得られる事にどうしようもなく高揚した心を止める事は出来なかった。


息子のそれらの心の機微を正確に見抜いていた父親は、心配と不安は一切見せずに、やれるものならやってみれば良い、と笑った。彼自身が翼を持って飛ぶには、些か身体の具合は宜しくない。彼は彼で出来得る事をしに、一旦前線より身を引いた。
無様な姿では怪盗紳士には成れない。アレを演じて御すのは並大抵の胆力では足りないのだ。それにあの衣装は、いつか息子の方が相応しくなるだろうという予感が父親にはあった。遥かな時の彼方より受け継がれる意志は常に血の中に眠り、そして『彼』に近しい者に呼応するように目覚めては『パンドラ』と引き逢う。
奇跡と災いを呼ぶ彼女ー『パンドラ』を求める意志は、間違いなく快斗の父親である黒羽盗一にも存在したが、お前では駄目だと、彼の求める存在ではない女性への恋に落ちた時に感じた一つの欠落。その欠片は、勝手に彼らの息子の中に入り込んでいた気がしていたのだ。

―そして、ある少年との邂逅。
己が非常に少年を気に入ったように、きっと彼の息子も少年を気に入るだろう、と思った時、それは明確になった。

彼が代々より受け継いでいる『彼』の意志は、まるでそれ自体が一つの生き物として、彼の中に存在していたのだ。

だから、彼は息子に告げる。
怪盗紳士に惹かれるのは、間違いなく息子が『彼』の意志を感じているからだろう。今生の『彼』に怪盗と勝手に名付けたのは、探し物をする上で都合が良かったからだが、そこに抵抗が無いのなら、好きに使えば良いのだ。

―ただし、怪盗紳士に振り回されるな、と。



***


衛星回線を走り、何カ国かの言語に変換されてようやく辿り着く親子の連絡は、大抵いつも時間がかかる。
ところが今回は、連絡を入れてから半日も経たずに、これまでで最短で返事がーしかも直接電話が着たのだ。
滅多にならない家庭用電話の呼出し音に、快斗は暫く受話器を上げるのを躊躇ったくらいだ。『非通知』と表示された小さな液晶画面をじっと見ている間に、携帯へ『電話にでなさい』という母親からのメールがきて、慌てて電話を取ったのだ。
そして、そこで知ったのは更なる謎だった。

「『彼』に逢ったのかい、快斗」
「…よく、わかったな」

それ、が何かを告げる前に、全てを察していた言葉。
快斗は、一瞬だけ息を止めて―けれど驚きの後にやってきたのは、さすが親父だぜという深い感慨だった。

「私も以前お逢いしたからね。あんなに胸が高鳴ったのは妻に出逢って以来だったな。一応言っておくが、『彼』はパンドラではないよ」
「なんだよ。それ。知ってたんなら教えておいてくれてもいーじゃん!」
「我が子が犯罪者ーああ、これは法的な意味も含むがもっと人道的な意味での犯罪に手を染めたら、と案じた結果だよ。もしかしたら逢わずに済むかもしれないと思ったから」
「はぁ?」
「欲しくなったろう?」

欲しい、という言葉にギクリとした。
近づく事に感じる恐怖を凌駕し、焦がれる心。衣装を脱いでなお逢いたいと、怪盗であれば更に抗うこともできずに翼は彼に向かって飛ぼうとする。―明らかな執着がそこにはある。

「…じゃ、親父も」
「おそらく私はお前ほどではなかったと思うがね。どういう因縁があるのか、怪盗紳士は大変彼に心を捕われる。何をしているか知りたがるし、機会があれば手合わせをしようとして、…全く、出逢わなければ陥らずに済んだ危機もあったものさ」
「もしかしてそれって、『最も出逢いたくない恋人』とか言ってたヤツのことか!?」
「ははは、よく覚えているねぇ」

快斗が覚えているのは、母親の機嫌が大層悪い時期が在った事だ。仲の良い快斗の両親は、互いに見目も良く、何かとコナを掛けたり横恋慕してくる手合いが其々に出現することもあって、そんな時、彼らは互いの時間や相手の関心を奪うのにらしくもなく必死になっていた。
父がファンレターを超えたラブレターを貰ってくれば、母は手作りのケーキに可愛らしい求愛の印章を書く。母が買い物の最中に必要以上の親切を向けてくる人間がいれば、父は仕事に支障がでるのも承知で家庭へ多大な時間を割いて共にお出かけに出て、新しい家具や家電を母と選ぶのだ。
相手を信頼しているという態度を取りながら、その実相手の気持ちを他所へ向けさせぬ努力を怠らぬ夫婦の姿は、子供に取っては嬉しくも、少々付き合うのが疲れるラブラブぶりだった。

しかし一時だけ、父が心ここに在らずという風で、裏の仕事に出掛ける時期があった。まるで何かに急かされるように。そして今までに無いぼろぼろ有り様で帰ってくることも。仕事も上手く行っていない様なのに、そのくせ、嬉しそうな顔をしていたのだ。
まるで浮気をしてるみたいよね、と母が直接父に愚痴るのをこっそり聞いてしまったこともある。その時、父が言っていたのだ。―逢いたくないのに、逢ってしまうと嬉しくてね。まるで『最も出逢いたくない恋人』のようだ、と。それを聞いた母が、妬心を溜め息で押し流しながら、仕方ないわねぇと言っていた。

「一体、なんなんだ…工藤新一ってのは」
「……」

快斗がそう言うと、電波の向こうで、父はふっと息を止めた。

「…くどう、…それが『彼』?」
「へ?知ってるんだよな?工藤だよ、工藤新一。尤も本人に確認したことないけど、そう呼んでも訂正はされなかったし、合ってるだろ?」
「彼は、…幾つぐらいの子だい?」
「んー、歳かー。多分、オレと同じぐれーだと思うんだけど。あんま、身体丈夫じゃないみたいで細いけど、背丈は同じくらいだし」
「…」
「父さん?」

快斗の呼びかけに帰ってくるのは無音ー沈黙。そして、そのままカチリと強制的に会話を切ってしまう音がした。「え、父さん!?」慌てて呼びかけるも返事は無く、快斗はリダイヤルしてみるも非通知の相手に掛かる事は無く、耳に当てた受話口は黙ったままだった。

「くっそ、タイムオーバーか?こっちから掛けれねーって不便すぎ…」

あーあ、と快斗は溜め息を吐いた。
足がつかない為の処置が施された連絡は、一度切れてしまうと再度繋ぐまで長い時間が掛かるのが常だった。






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