淀んだ眼の真っ暗な顔をした隣家の居候ーあるいは同居人ーもしくは彼の主張する所によれば隣人の恋人であるという黒羽快斗が訪ねて来たのは、日付がそろそろ変わろうか、という非常識極まりない時間だった。
「…あのね、貴方、女性と老人二人暮らしの家のドアを深夜に叩くのはマナーのない行いだとは思わない?」
「家、飛び出したけど行き先決めてなくて。そしたら、こっちの明かりが点いてたの見えたから、つい…。あと、博士と哀ちゃんならまだ宵の口くらいだろうって思ったんで…すいません」
皮肉げな言葉と共に黒羽の前に差し出されたマグカップには暖かいココアが入っている。完全に呆れたようなツンとした顔は冷たく見えるものなのだが、黒羽は温かな持て成しに顕われている優しさをきちんと受け取って、謝罪の後に「ありがとう」と感謝を述べた。
「工藤くんは?」
「…寝てる」
阿笠家の扉をくぐって来た時から元気の無い項垂れた様子に、すこしばかりいつもと違う雰囲気を感じ取った隣人二人はこっそりと目配せを交わして―そして口を開いたのは博士だった。
「はは、どうせ起きておったし構わんよ、黒羽くん。して、何の用かね?」
「ちなみに、その一、工藤くんが推理小説を読んでばかりで構ってくれない。その二、工藤くんが約束していた日に事件の調査を入れた。その三、工藤くんがあなたの嫌いなアレを朝食に食べたいと言い出した。このどれかに当てはまる内容なら、今直ぐ帰ってもらうわよ」
「ちょ、哀ちゃん!」
「これこれ。まずは話を聞こうじゃないか、哀くん」
黒羽が口を開こうとした一瞬前に、彼女は、一つ、二つ、と丁寧に指先を上げながら黒羽が言わんとしている内容を推測し提示して、更にその悩みなら相談拒否という姿勢を見せた。
痴話喧嘩の後にしては、黒羽は苛々したりグチグチしたいという風ではないし、工藤は『寝てる』と言うのだから、灰原の思い過ごしかもしれないが。所詮彼は工藤馬鹿。油断は出来ない。
「で、該当するの?するなら大人しく帰って二人で解決して。しないのなら、続けてもいいわ」
彼女はこんな夜分に馬鹿に付き合ってあげられるほど暇を持て余してはいないのだ。
下手に介入して馬に蹴られるのも御免である。
「とりあえず、その三つには当てはまらないんだけど…」
「続けて」
「…はい」
マグカップの中身を飲み干した黒羽は、そっとそれをテーブルに戻し、御馳走サマでした、ときっちり頭を下げて。それから、今夜、寝ようとした直前に降って湧いて来た彼の悩みを話し始めた。
「工藤くんが、女の子の名前を?」
「あの新一がのぅ…。うーん」
「俺ここんとこ、バイト詰めててあんまりこっち来れなかったし。今日も遅くなっちゃって。工藤もう寝る前でさ、つーか、いつもなら小説読んだりダラダラしたりする位の時間なのに。いい気分で寝たいから、オヤスミ〜って、寝室から追い出されるし!」
「アユミさん…ってまさか吉田さんじゃないだろうし。ユリアさん…ホマレさん…」
「もしかして最近、女の子達が隣の家に入ってったりしてなかった!?」
「貴方がお隣に出入りするようになってから、蘭さんもそのお友達の愉快なお嬢様もめっきり見なくなったくらいよ?本当に工藤くんが言ったの?」
「言った!しかも、ウマイとか、プレイがすごいとか!すっげー嬉しそうにさ!」
「…電話の相手は?」
「大阪人だった」
「悪い遊びでも教わったのかしら?」
つまるところ、今夜久々に恋人の家に言った所、彼が電話口で喋っていた内容が色々おかしかった、ということらしい。女性の名前を複数連呼してしきりに彼女達を褒めている内容だったという。何とも珍しいことではある。
「何の話か聞かなかったの?」
「聞いたけど、オメーは興味ねーだろ?って」
「貴方工藤くん馬鹿だものねぇ」
「何それ、確かにそうだけど!」
「…そう。自覚があって良かったわ」
「あーもー、やっぱり工藤的には、男と付き合うってナシってことなのか?!くっそ」
「黒羽くん…?」
心底悔しそうに、苦しそうに、そう吐き出す黒羽に、これは予想以上に深刻な事態なのかと灰原は眉を顰める。
「どうせ、俺は大和撫子にゃなれねーよ!変装しても性別まで変えんのなんか不可能だし」
だが、一連の話を聞きながら顎に手を当て考え込んでいた博士は、「大和撫子…?」と呟いて、ハッとした顔をした。
「新一が、大和撫子と言ったのかの?」
「えっと…、なんか浮かれた声で、『なでしこっていいよな』って…」
「やっぱりのぅ」
「…黒羽くん、それって」
>>>終幕
オチなどない。
黒羽は工藤が女の子の名前を連呼してるだけで衝撃を受けて他の情報を聞き逃してる。工藤が選手を名字じゃなくて名前で呼んでたのは、多分盗み聞きを察してて意図的に言ってたんじゃないかと。