姉と弟
【その日】 
 
 華々しい花火が上がる。どよめく観衆の頭上遥か高く、ヘリが飛び交う夜空の中で、東都ベルツリータワーや東都タワーよりも海側に位置し、眼下に臨海公園が広がるそれらに次いで三番目に高い高層タワーである東都ベイスカイ・タワーのてっぺんに微かに空の彩りに影を浮かばせる人影が一つ。
 
 「レディース&ジェントルメーン!」

 その人物が放った声はただ虚空へ落ち、下々に届く前には散ってしまって誰の耳に届く事もないだろう。
 だが、その声を、発した人間の唇を読む事で正確に知った人間がその場にいた。
 搭乗しているヘリの轟音は分厚いヘッドフォン越しにも空気の振動として身体に伝わって来る。それに耳元では通信システムが齎すガーガー…と雑音混じりの耳障りな音が常にオンになっているから、外部の、しかもヘリの外からする声を聞く事は不可能に近かった。
 けれど、彼女は読唇しながら、確かに彼の声を聞いた、と思った。
 正確に脳裏に再現出来ただけの事かもしれない。そうでなければ幻聴だ。現に、同乗して隣に座っている女性刑事は『何かさけんでる?』と疑問符をつけて、彼女の顔を見返したのだから、決して彼の声はこちらに聞えているわけじゃない。
 だったら、彼女の声が彼に、あるいは他の誰かに聞かれる事もないだろう。ヘッドフォンとセットになっているマイクを一瞬だけオフにして、彼女は囁く「逃がさない」。
 聞えていない筈の向こう側で、白い姿をした怪盗1412号ー通称怪盗KIDが、ニヤリと笑みを浮かべた。

『いつもの、無礼な挨拶口上ですね。レディ−ジェン、とかいう』
『あー!いつもの、ね。やっぱり怪盗キッド本人なのね』
『ー撃ちますか』
『そ、れは…どうかしら』
『ですが、どのみち…このヘリからこちらは出られません。捕獲するには、彼の翼を折るなり、その脚を止めないと』

 物騒な彼女ー工藤探偵、と警察関係者に呼ばれている女性の主張に、警察官である女性ー佐藤は苦笑いだ。相変わらず、この怪盗には容赦がないのね、と。

『狙撃班は別動してるんだけど、今夜は風が強くて、足場と狙いが安定してないみたい』
『…佐藤刑事なら?』
『そうね…でも生憎とこの距離じゃ銃が向いてないわ』
『でしたら、私が』
『工藤さんは一般人!…でしょ?腕前はあるみたいって警部から聞いてるけど、貸せないわよー?』

 いつぞやの怪盗の犯行現場で、ヘリに乗せてくれた目暮警部から拳銃を抜き取り、仕掛けの影に隠れていた演舞場の座長を撃った件は知られてしまっていたようだ。これは駄目かと肩を竦めて残念です、の仕草をする。そうしてから、もう一度、ヘリの外の景色を見遣った。
 怪盗はタワーの頂点から直ぐ下にある展望台の外の縁に佇んでいる。彼が纏っている白いマントが絶えずひらひら縦へ横へ動き回り、風の強さを物語っていた。あんな場所から飛ぶつもりなのだろうか。否ー、彼は飛んで、走って、駆け上がって、其所を選んだ。そして待っている。最初の一声を上げた後は、ただジッと。その時が訪れるのを。
 だから、工藤も待つ。絶えず、その慧眼を光らせ周囲を見渡しながら。

『中森警部は何階ですか』
『エレベータが止められてたから、非常階段を上がってるはずなんだけど、…あと10分は掛かるでしょうね』
『素直に、上がらせて貰えれば、の話ですよね?』
『ええ…あー、あと30分くらいかも…』

 タワーを周回するヘリが、眼下から立ち上る白い煙を捉えた。妨害工作済み、なのだろう。やっぱ、私が撃ちますよ?と殊更にこりと笑って工藤が言えば、佐藤刑事が「始末書」と「キッド捕獲」を天秤にかけるかのように懐ー銃を忍ばせているらしい箇所に手を当てて悩ましげな声で唸った。
 その、警官の視線が工藤と怪盗から外れたのを見て、工藤はヘリ用のヘッドフォンの下に装着しているもう一つの通信機器に意識を向ける。
 単調なノイズ。そっと腕時計を確認する。もう直ぐのはずなのにな、と思ったのを見計らったように、声が聞えた。

(『…来るわ』)

そして、その直後にキンッーという不可思議な空気が張りつめた音がして、工藤は聴覚の異常を察した。音の波が乱れる、ならば次には何かの衝撃が追い掛けて来るのは明白だった。

『佐藤刑事!ヘリの先を北へお願いします。今直ぐタワーを回り込んで、この場を一旦退いて下さい!』
『え!?キッド…は動いてないけど、北じゃ彼が後ろに』
『そうならない様、並ぶように近づけて、機体は止めずに、早く!』
『え、ええ』

 慌てて佐藤はヘリをタワーを旋回する形で怪盗が向いている方へ鼻先を向けてと指示をだす。怪盗KIDが出現して以来、絶えず警察に協力してくれる今や『警察の救世主』とまで言わしめる工藤の指示だ。きっとそこには何がしかの意味があるのだ、と佐藤は考えている。
 だが、ヘリが指定箇所に配置された時、目の前に現れたソレに一瞬言葉を失った。
 
 巨大な、白い光を纏い深い深い蒼を混じらせた碧の塊と、それが帯びる本体よりも明るい黄色みがかかった深緑の発光の軌跡。
ーゆっくり、ゆっくり、その軌跡が伸びて行く。
 太陽風の影響を受け大きく光りながら地球の傍を通り抜けるのにかかる時間は最も早くて半日程度かかる、という話をどこかのニュース番組で見たのを佐藤は思い出す。惑星に分類される彗星が移動するにしては、あっという間の時間になるらしい、と。前回この彗星が地球に近接したのは1万年も以前のことで、生きているうちにこの奇跡を目にする事や、そもそも、その天体が実在した事を確認できること、最もそれをよく見れる場所と時間帯がこの国に当っていることは、天文を愛する人間にとって何億分の一の幸運となるでしょうーそう語ったのはキャスターだったか何処かの国の天文学者だったか。

『ーあれが、ボレー彗星…』
『すごい…、そっか今夜だったわね。通りで下が騒がしいと思った』
 
 昨今の夜空は人の世界の光が溢れ、天体観測には向かないとされている。小さな星々の灯りはネオンの色に打ち消され薄暗いばかりの奇妙な闇。だが、数ヶ月前から地球に接近していたその彗星は非常に大きなモノで、太陽の熱にさらされれば、光害だけでなく空を煙らせるスモッグが覆う都内の空でも、肉眼で鑑賞が出来ると時の話題になっていた。

『凄い…本当に大きくて、碧っぽいのね』
『ーさぁ、ショウの始まりだ』
『え!?』

 佐藤が工藤を振り返れば、彼女は闇を裂いて現れた碧の尾を引く彗星など見ておらず、また佐藤が投げかけた声も視線も意に介することなく、ただひたすらに斜め後方に見える怪盗を目で追っていた。先程の台詞は、どうやら彼女の視線の先にいる怪盗が口にした言葉であるようだった。
 その彼女が、ハッとして佐藤に声を掛ける。

『佐藤刑事、狙撃班は!?』
『ーおかしい。持ち場に誰もいない!?待って、確認する』

 彼女に倣ってタワーを見渡した佐藤は、現場の奇妙さに気付く。怪盗を捕えるという彼女達と目的を同じくする組織の機体が飛んでいなかった。怪盗の頭上、足元をライトで照らしていた機体に、警察で腕を誉れる狙撃手を乗せた機体が。薄闇色に同化しない白い衣装を怪盗が纏っていればこそ、今も目視は可能だが、明らかに先程と空気が違う。
 
『応答して!ねぇ!…』

 耳元で常時開かれている通信回線は、ノイズが綺麗に失われーついでに音そのものが消失していた。コンコン、とヘッドフォンを叩いてみる。聞えたのは叩いた音の反響ばかり。

『邪魔者にはご退場頂きました、だぁ?』
『!?キッドが、何かしたっていうの?』
『…おそらく、ある種の『電磁波』で飛行回線を狂わせた、と見るのが正解に近いかと。アレが空に見える少し前から通信機器が駄目になってました』
『でも、だからって』
『ヘリは墜ちてはいませんよ。落下はしましたが。墜ちていればとっくに大惨事でしょう。ああ、下で態勢を立て直してますね…大分、動き難いようですが』
『じゃあ』
『ええ。今、ヤツの舞台にいる警察のヘリはこれだけ』

 それもいつまで保つか分かりませんが。物騒な内容を目を細めて笑って口にする探偵の心情は想像するだに佐藤には恐ろしかった。工藤は、操縦桿を懸命に握る操縦士に向って、とかくあの怪盗からは距離を取り、機体を「安定させすぎない」様お願いします、と素早く伝えると、おもむろにヘリの扉に手をかけた。

『ちょ、工藤さん!駄目よ!』
『落ちません』

 轟々と強い風がヘリの内部に入り込む。同時に、バラバラ耳障りなヘリの機械音。態勢を安定させるべく片方の膝を床に着かせ姿勢を低くして、両手で扉を押さえる。いつのまにか、音を取る為のヘッドフォンではなく、頭と眼球を保護するヘルメットを装着していた。

ーゆっくり、ゆっくり

 どれほど近く見えようとも、アレは地球の大気圏外にあって、ただ通り過ぎて往くだけの帚星だ。だが、今宵、この場において、アレはこのダンスホール上における唯一無二の場を照らすライトであるという。そして、そのライトを受けてクルクル回されるミラーボールは、あの怪盗の手の中にあった。
 工藤は、怪盗の白い手が大粒のジュエルを天に掲げようとしているのをジッと見ていた。
 何度も、怪盗の犯行の最中に目にした光景だった。手にしたビッグジュエルを月に翳して何かを探している姿。だが今の怪盗は、月ではなく彗星に宝石を重ね合わせようとしていた。
 ミドリの光を透過したアカの塊が放つ光は、果たして何を見せてくれるというのか。

 だが。

ーパアァァァー・・・ン… バババババ…

『!?銃撃…一体誰が!』
『機体を上げて!背後に一機、不審ヘリ!』

 怪盗キッドを狙ったものと思われる烈しい鉛玉が飛来する音は、断続的にタワーの外からタワー内部に向って降り注いだ。怪盗に並ぶように位置していたヘリも危うくその流れ弾を受ける所だった。しかしヘリはギリギリで空を滑り、怪盗は身を躍らせて電飾が落された展望台へ下がってその攻撃を回避する。360度展望になっているタワーの縁を軽やかに移動する白い影。不審機は、佐藤達の乗ったヘリが場を退いたのを確認し、更にタワーへ近づく。その機体から、黒い人影がいくつか飛び降りた。

『一体、なんなの、アイツら!?』
『怪盗と同じ不審者でしょう。それより、もう一度機体を下げて、ここじゃ動きが計り難い!』
『キッドが危ないわ!』
『…いや、相打ちなら、漁父の利ですよ』
『た、確かにそうだけど!』
 
 白い怪盗を囲もうとする黒い集団の図に佐藤が怪盗の危機を察したが、返ってきた声は実にあっけらかんとしていて、一瞬肩の力が抜けてしまう。日本に登場してからこっち、キッドファンなる層を形成するくらい世間では人気の高い怪盗も、徹頭徹尾彼を毛嫌いしている工藤に掛かれば銃刀法違反明白な謎の集団と同じに単なる犯罪者だった。
 もっとも、あっけらかんに上げた声とは対照的に、工藤は一つの情報の取りこぼしも許されない目の前の光景に全神経を向けていた。

 開け放した扉の向こうでは、怪盗がスッと赤色発光するというビッグジュエルを手のひらに乗せてーまるで怪盗の背後を横切る緑のボレー彗星に手向けるように、あるいは彼を取り囲む者どもに見せつけるように掲げ上げーそれを宙に放った。

 ー溢れるような金色の光。しかし、更に次の瞬間、その光は散り散りに砕かれたのだ。

 怪盗の笑い声ーまたも聞えるはずのない声は、彼の口元が弧を描いて開かれた事で容易に知れた。激高する黒い集団は、猛らせた気勢を示すようにまたも銃を乱れ撃つ。ーが、その集団を取り囲もうとする更なる別客がタワー展望台の中から次々に飛び出してきた。端にいる者達から次々に倒されて行く。大きな発砲音がないのに、構えた銃の先で倒れる人影ー麻酔銃が使用されているのだろう。
 黒の集団は、怪盗を追う者と、背後を振り返り彼らを捕獲せんとする追手に対抗する者と動きが乱れて行った。

『誰…?』
『機動隊とは違いますね。しかしあの動きはー』
『あれは、警察庁…まさか、公安…?!』

 統制された動きは佐藤達が属する警察の動きによく似ていた。スーツに防弾着を羽織り構える姿も実に似ている。今宵の現場に認知されていない、似ているけれど行動を異にする集団ー思い当たる組織名が頭に浮かんだ佐藤がそれを口にすると、工藤は「かもしれません」と肯定を返した。そして、ヘリのライトの照射を、『信号』してくれと操縦士に頼んだ。
 遠くに見える彗星の光は時に強く時に弱まって、じりじりと変わって行く戦況を照らしていた。
 ひらめく白。放たれるカードは、スピードと威力において実弾に引けを取る事無く集団の一角を崩し、彼の相棒達である白い鳩までもが、怪盗を守るかのように白い翼をはためかせ鋭利な嘴を敵とみなした相手に向ける。それでも多勢に無勢の不利は大きく、怪盗はタワーの縁へと追いつめられた。彼を追い詰めることで彼らもまた公安警察に追い詰められていくというのに、なりふり構わない怪盗への襲撃は、大きな怒りや恨みを自爆覚悟で叩き付けているのだと、遠目からでも理解できた。
 さらに、ソレを狙って展望台下方から怪盗の背後を取りに行く、不審機ー

『あ?!ああ!』

 強いライトの照射を受け、一瞬背後に気を取られた怪盗を見逃さず、鋭く放たれた銃弾が、怪盗の左胸部付近を撃った。
 ライトの中で鮮やかに赤い飛沫が飛び散ったのが遠目でも見えた。
 目を見開いた佐藤が衝撃的な光景に声を上げ、工藤はその瞬間に耳元の通信機器が復帰したのを察知する。

『ー…。落下推測地点予測通り』

 素早く現状を確認し、己の位置と彼らの位置を数値で呟く。工藤の目の先では、半歩分の無いギリギリに身を置いていた怪盗が撃たれた衝撃に舞台を踏み外し、身体を中空に踊らせようとしていた。

『ーお願いします』
『ー了解』

 密やかな応答。
 怪盗が落ちんとした場所に浮いていたヘリが、その数瞬後に火を噴いた。

 爆風が工藤達の乗るヘリに来る、と先を読んでいた眼の持ち主は既に扉を閉じて、操縦士に回避を要請していた。
 墜落して行くはずの白い姿が爆発に煽られ一瞬だけ空に浮く。だが、直ぐに大きな炎を上げて落ち て行く機体の中にと吸い込まれて行った。いつもなら空へ落ちる事は即ち彼の逃走経路であったはずのなのに、佐藤の眼下で、怪盗キッドは撃たれた箇所を庇う様にして重力と吹き上がる炎と黒煙から逃れる術もなく落ちて行く。

『駄目、これじゃ、怪盗キッドはー!』

ー助からない。佐藤はそう直感した。
 くるりくるり白い鳥を巻き込んで墜落する機体。ただただ無情な光景がそこにはあった。

『下は?!彗星を見る為に人だかりが出来ていたはずだわ!ああ、こちら、佐藤ー』

 タワー上部の行く末に気取られていた佐藤も、通信機器の回復を確認し、直ぐに現状の報告と指示を出す。それを一瞬だけ盗み見て、そっと工藤もまた口元に手を遣りながら、今夜全ての行程に協力をくれると約束していた者達へ連絡を入れた。ー大きな煙と共に墜落していく炎の塊を凝視しながら。




***



 立ち入り禁止となった東都ベイスカイ・タワーと隣接する緑地公園の周囲は、数多の消防車と救急、警察の人間でごった返していた。少し離れた場所を歩く彼女の耳にも届く怒号、喧噪。天体ショウのある夜の公園に墜落したヘリが、どれだけの被害を齎すか懸念は大きかった。デング熱ウィルスを持った害虫がいるからと予め公園を立ち入り禁止にしていた事が幸いし、焼け墜ちたヘリの乗組員と墜落に巻き込まれたとされる不審人物一人を除けば、通行人や観衆の中に救命が必要とされる被害者は出なかったーという報せに胸を撫で下ろした。

 怪盗を追ってタワーの非常階段を上がっていた二課の警部達はとっくに地上に降りて、ヘリと共に墜落したと見られている怪盗を確認しに行っている頃合だろう。逆に、銃撃戦があったタワー上部の展望台には捜査員と鑑識が詰めかけている頃か。
海風を受けてそびえ立つタワーを見上げながら、時折、白い塊が木々の合間で羽を休めているのを確認する。道すがら白い羽を拾いながら公園路から人気の薄い場所を選んで、それから周囲に気をつけながらタワーの中に忍び込んだ。

 内階段を上って、このタワーでは一番人が集まるという土産物屋やイベントが開かれる中空展望フロアへ出る。一通り警察が確認をしていったのか鍵は所々開けられていたり、閉まっていたり。相当慌てていたんだろうな、ということが痕跡から伺えた。屋外の展望テラスに先程の落下物の一部が転がっている。その近くにも白い羽が点々と。
 
 辺りを見回し、なんとなく、非常階段に繋がる扉を開けた。

「ーいるか?」
「…いるよ」

 予感は外れることもなく、ごく当たり前に彼女を彼のもとに導いた。






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