姉と弟
通行止めにされた道路を折り返し、再度車は走り出す。その頃には、にぎやかに笑う少年は鳴りを潜め、車内にはひどく奇妙な沈黙が降りていた。背後に気を向けながらも視線を向けようとしない弟を、車のミラー越しに姉はただジッと見つめる。
ややあって、はぁと大きく息を吐いた音がして、弟がその沈黙を破った。

「…どこに、送れば良いかな?ロスは遠いから嫌なんだけど。こっちにホテル取ってる?」
「久しぶりの挨拶もないのか」
「―お久しぶりです、工藤さん」
「他人行儀だな、快斗」
「今は、他人だよ。もう、俺は工藤じゃないんだ」
「ふざけんな」
「ふざけてない。…俺、黒羽快斗って言うんだ。良い名前だろ」
「快斗」
「…なに?」

 静かな静かな声だった。久しぶりに呼ばれる名前に、勝手に胸の奥が高鳴るのを快斗は感じた。―だから、会いたくなんてなかったのに。

「何があった?修行に入ってたはずだろ。何してんだ」
「……」
「お前のマジシャンの師匠は弟子にこーゆーことやらせんのかよ」
「違うね、これは俺が勝手に始めたことだ」
「へぇ…レトロな怪盗の復活に、誰の手も借りてないって?」
「…邪魔しないで欲しい」

 レトロと形容し揶揄する口調に、怪盗1412号の詳細の多くは既に知られているのだろうと、快斗は彼女を言い包める事を早々に放棄した。尤も彼女を見た瞬間から、言い訳など出来ないと悟っていたのだが。それにしても随分早かったな、と思う。

 誤摩化しも嘘も通用しない。
  ―けれど、真実を渡すつもりもない。
 撥ね除けるか、逃げてしまうか。
 己が選べるのはそれくらいしかないのだ、と快斗は思う。

「通報すりゃ捕まる立場で、邪魔するな、だ?よく言えるもんだな」
「通報するの?なら、俺は口止めしないといけないよね」
「手っ取り早くバラして埋めるって?オメーに出来るのかよ」

 ふんと鼻で笑う女性は、暫く見ない間に、ますます綺麗になったな、と快斗は思う。
 そっと、口を開くまでは見れなかった姿を鏡越しに伺った。
 暗い夜の中を駆ける暗い車の中、時折車窓から入る街灯や家やネオンの光が、彼女の形を浮き上がらせる。髪が伸びていた。黒くて滑らかそうな、てっぺん付近で跳ねる癖は消えていなかったけれど、肩よりも下に胸にかかる位の長い髪。一人暮らしで果たしてマトモな食事をしていたのか、幾分かほっそりとした面(おもて)と華奢な肢体。彼女の好む灰色味を帯びたモノトーンのシャツに薄手の黒いジャケット、動き易さを求めたのであろう細身の黒のジーンズ。シルエットだけでも解るその綺麗さは、快斗の好みから一分も外れていない。最後に見たのは、ネットの画面越しだったか。いくら解像度が高くたって本物の質感とはこれほどまでに、全てが違う。
 何より、鋭く、全てを暴こうとする眼の光の強さときたら!

「生憎、怪盗1412号は紳士ですので?女性にそんな無粋な真似は致しませんよ」
「…やめろ」
「ああ、失礼。この口調はお気に召しませんか」
「そっちじゃねぇ。怪盗、だ」
「―それは」
「どんな目的があろうと、やってることは窃盗だの建造物侵入だの、コソ泥と同じだ。恥ずかしい真似を、するな」
「ッ、恥ずかしい?ああ、貴女からすればそうでしょうね?犯罪を暴き立てる側の、批評家のような言い方だ。―なら、関わるな!」
「断る。馬鹿な弟が馬鹿な真似して世間様にご迷惑かけてんじゃ、こっちだっておちおちゆっくり寝られやしねぇ」

 キキッ…と軽く、車に走る衝撃。
 繁華街の海側を走って来た二人の乗った車は、とある湾岸倉庫街の一角で停車した。
 ハンドルから手を離し、快斗は身体ごと後ろを振り返る。―腕を組み、足を組んで、弟が睨め付ける眼を、姉は真っ向から受け止めた。

「もう、弟じゃない」
「いや、弟だ、快斗」

ー お前は何をしようとしている?

 弟を送り出す時に、結局しなかった問いかけ。
 訥々と彼が語った「マジシャン」を選んだ理由に嘘はなかったー筈だった。
 けれど、彼が秘めていた決意が明らかにされる事も無かった。自身の大成する未来よりも、もっと切実に、彼を駆り立てていた想い。きっと、弟は、彼でなければ出来ない、しなければならない事をしに行ったのだ。ーならば、弟の為だと思っていたマジシャンへの道もその為に打った布石に過ぎなかったのか。
 嘘をついて、彼女の傍を離れたのか。

 イリュージニスト『黒羽』が行っていたショウ・アワーにはいつも危険と犯罪が付き纏っていた。後になってから、それらの事件を調べ、その時に近くの小さな演劇場にいた人間を調べ、それで漸く、微かに、うっすらと繋がるラインを見出せるくらいの。工藤優作がそれに気付いたのは、彼の一団が半年に渡る日本公演を行った時だった。予告状なんてモノを狙った獲物の持ち主や警察に送りつける犯行スタイル。派手で華々しいショウの数々。それでいて、行っている犯罪行為に不似合いな、時に清廉ささえ持って『こちらはお返ししますー』恭しく頭を垂れ盗み取った筈の品物を返却する姿。
 結局、工藤優作が、怪盗の事情に立ち入ることは出来なかった。だが、代わりに彼の息子を託されたのだ。同じ子供を持つ親として、母親同士はとっくに仲良くなっていたが、父親達は、最後の最後までー怪盗の白い衣装が赤い色で汚れても、作家の眼鏡に皹が入ろうとも、理解し合う事は無かった。
 ただ、互いに互いを境界線の上から見下ろし合ってー決して相容れない人間が、彼自身以外誰も居ない場所で光を放つことを知ったのだ。

『眠った快斗くんを渡された時、彼は今生の別れのような顔をしていたよ』
『どこに行くのか聞いたさ。でも彼は答えなかった』
『あの怪盗には、探しているモノがある。そして同じモノを欲して攻撃してくる手合いがいる、私が知れたのはその程度だ』

ー『アイツの父親がそうしたように、アイツもまた家族を切り捨てて同じ道を歩むのかもしれない?』

『…ああ』

 彼女の観察眼や推理する能力は、間違いなく父親からの形質だった。父親のそれは彼女の物よりも数段に鋭いことを家族は知っていた。彼が口にした推理はそのまま誰かにとって動かし難い事実や、内心に秘めた真実であることが殆どだった。その父と同じ結論しか導き出す事ができないのならば、それは。

 そうならないように、彼女が口にした言葉はいとも容易く裏切られた。
ー罪に手を染めた弟は、彼自身が彼を許さない。きっと帰ってこない。

 だから、彼女はここに来たのだ。

「修行そっちのけでこんな事してんだったら、放ってはおけない。…快斗、帰るぞ」
「…なに言って」

「帰ろう、快斗」

そう言ってやる為に。
これ以上の罪を重ねてしまう前に。

 言われた言葉の意味が分からない、と言うように快斗は助手席と運転席の間から覗かせた顔をゆっくりと左右に振った。

「関わるな、って言っただろ…」
「断る」
「駄目だよ、新ねぇ…。オレは、おれは!」
「前科二犯くらい何てことねぇ。この前のは返したんだろ?そんで、今回のだって、不要な物なら返すんだろ?挽回余裕」
「…ちょっ」
「汚名は返上するもんで、名誉は挽回するもんだ。返して、謝れ。返せない品だって言うんなら、買い取るなり交渉なりするんだな」

あっさり、すっぱり、きっぱり、と。
明快にして、軽快に。
ああ、姉はこういう人だった。
深刻ぶった人間の話を、複雑に絡む思いや意図を、全て綺麗に解体してシンプルな真実だけを放り投げて来る。

それは、どうしようもなく優しい、彼女なりの思いやりで。
同時に、どうしもようもない人間にとって、残酷なくらいの手厳しさだった。

「悪いけど、出来ない」
「…何故」
「時間が、ない」

 ふっと言い募ろうとしていた彼女が、息を止めたのが解った。

「どうしても、しなくちゃいけないんだ、俺がそうしたいから」
「何故?」
「ー優作さんじゃない方の、父さんの代わりに」

 怪盗1412号は、快斗の父親に与えられた識別名だった。それを名乗る以上、それが背負って来た今までのーこれからの罪状は、全て、名を借りた快斗のモノになる。
 それを知っていて、いや、だからこそ望んで、あの白い衣装を手にした。

「…ウチの親父も追ってたってな。怪盗1412号。何か、探し物をしてたらしいが」
「ー!優作さん、が?」
「そんな格好をしなくても、目的を達する手はあるんじゃないのか?…なんだかんだ言ったって、快斗、オメーはマジックするのが好きなんだ。好きな事を、馬鹿な事に使うもんじゃねーよ」
「…いやだ」
「…なにが?」

 厳しい口調のくせ、話す内容はあまりに優しい。甘えたくなる弟の性分を見越した甘言。それに呑まれてしまいたい思いはあったが、それでは黒羽の姓に戻った意味が無くなってしまうと踏みとどまる。

「言っただろ、俺が決めた事だ」
ー巻き込みたくない
「馬鹿な真似結構。そう思うなら放っといてくれ」
ー近づかないで
「邪魔するなら新ねぇだって容赦しない。…お願い」
ーお願いだから

「悪いけど、ここで降りて。そこの明かりの付いてる倉庫、確か事務所になってたから。タクシーでも呼んでよ」
「快斗!」
「…一年」
「?」
「一年だけ、時間を下さい」

 追い返した所で素直に諦めてくれる人じゃないのだ、と快斗は知っていた。だから、弟は手法を変える。この姉は、実のところかなり弟に甘く出来ているから。
姉弟の繋がりを断ちたいと、そうすべきだと思いながら、その為に、姉と弟として築いて来た繋がりを利用する言葉を選んだ。

「今は、俺は、俺のする事を辞められないし、誰にも譲れない。邪魔されたくない。期限が迫ってるんだ。一年間だけ、目を瞑っててよ、新ねぇ。そうしてくれるなら、俺も約束する。俺は人を傷つけるような真似だけはしない。馬鹿な真似にも最後には責任を取る。…元々そのつもりでいたけど、新ねぇが約束してくれるなら、絶対に俺はそうするよ」
「…見逃せって?馬鹿にしてるのか、快斗」
「違う!…お願い、してるんだよ」
「駄目だな」
「…ッ新ねぇ」

「嘘つきは信じない」

 懇願する弟の目の先にいたのは、ひたすらに真っすぐ彼を見据える彼女だった。それは、肉親に向ける目ではなく、ただ断罪を告げるような、決して情に流されなどしない確固たる意思を持った眼。
「もう姉弟じゃない」「工藤じゃない」ーそう先に告げたのは快斗だったのに、血の繋がりに訴えても靡こうとしない姉の態度は、あまりに衝撃的で、そして、絶望的だった。
 ストン、と運転席に座り直して片手で顔を覆って眼を閉じる。
ーなんて、人だ。

 彼女は、怪盗を許すつもりなんてこれっぽっちもない。

 理解されなくても、少しの間だけ離れていてくれたら、などというのは快斗にとって都合が良いだけの言い分だった。
 この人は数多の犯罪を暴き罪人を捕え、虚偽も欺瞞も見抜いて生きてきた人だった。知っていたのに、甘かったのは快斗の方だった。
 言うなれば、彼女は、正しく『探偵』なのだ。
 『怪盗』を追い、暴き、捕える『探偵』。
対極にいる人。あるいは眼に見えぬ隔たりの境界線の向こう側にしかいない人。そして、決して交わることのない平行線上に在る人。

 顔を覆ったまま、快斗は腹の底から湧き上がる笑いを止める事が出来なかった。
きっと、快斗を生んだ父も、彼女の父に出逢った時、背筋を震わせ、その存在を畏れ、そして喜んだだろう。唐突にそう思った。そして、それはきっと間違っていない。

「快斗?何がおかしい」
「ハハハー…は、はは、おかしいよ。すごい。だって、新ねぇって本当に、すごい」

 ガラリ、と弟の気配が変わったのを、姉は痛い程に肌で感じた。
 こんな子供じゃなかった。
ーそうだろうか?
 そんな子供っぽさを潜ませて時折彼女を試すような真似をしていた気がする。
ーベクトルが変わった、か?
 きっと、この怪盗をすると決めた快斗は、生育歴書にあった全てを取り戻しているのだろう、と彼女は考える。
 異能の才に溢れ、天性のそれを、したい事やすべき事に惜しむ事無く揮って行く。
 天才型の犯罪者。ーあまりにも嵌っていて腹立たしいくらいだった。

「なら、俺も本気で逃げるし、抵抗するしかない」
「…逃がさねーぞ?」
「無理だね。例えば今、この場で。たった一人で何が出来る?俺を拘束できんの?大人しくアンタに着いて行くとでも思ってる?」

 ひやりとする口調と身に纏う雰囲気は白い衣装を着ていた時に酷似していた。慇懃無礼で傲岸不遜な。口元を歪めて嗤う写真越しではない『怪盗』の姿。
 しかし、今彼女の目に映るのは、運転席から少しだけ此方に目線を流して来る横顔だった。猫のように細められた眼が妖しく光って彼女を見ていた。

 組んでいた腕に隠していた護身用の小型スタンガンを手のひらの中に握り込む。いつでも使えるように。さりげなく前方にある助手席と運転席それぞれに手をかけ、前へと身を乗り出しながら、口を開いた。

「…物騒なダウンタウンに女一人置き去りなんて真似するのかよ、紳士なんだろ?」

 左側の運転席の後ろに忍ばせた手を伸ばし、彼女は、振り返る彼の首筋を狙った。
ーだが。

「物騒なのは、アンタのほうだろ!」

 顔は彼女を向いたまま、素早く身を躱して、弟は姉の左手を取る。手首を返された衝撃で、そこからスタンガンが落っこちた。そうしてから、弟は更に彼女の身体を後部座席に突き飛ばす。瞬間、助手席の座席を倒し、後ろの席へと移動すると、斜めに崩れて座席に凭れる姉の身体を捕え、そのまま押し倒した。
 後ろの座席に撥ね飛ばされた身体を立て直す前に、座席の床面に身体を押し付けられ、彼女の両手は頭上で容易く拘束される。
 すかさず彼女は上に伸し掛かる男の身体を蹴り上げようとしたが、ガッチリと下半身も押さえられてしまった。膝上と太ももを抑えられてしまっては、足は上に上がらない。ならば腕を使おうとしたが、彼女が両手に力を入れているのに、弟は片手一つで
それも押さえ込んでしまった。
ー完全に、力では敵わないのだと、彼女は悟らざるを得なかった。

「快斗!離せよ!」
「今度はこっちがお断り、ってね!ーさぁ、どうしようか?」

 華奢な身体は、予想通り簡単に快斗の拘束によって動きを封じられていた。
 こんなに細かっただろうか?ー変に力を込めたら折れてしまわないだろうか?綽々と嗤って見せている顔の、その内側は、実に大変複雑な想いでこんがらがっている。
(どうしよう)
 身体に力を入れてどうにか快斗から逃れようと力んでいる姉の顔はすでに赤くなっている。荒く吐く息の音が車内に満ちてきた。
(マズイ)
 膠着状態になれば、体力で劣る女性の方が絶対的に不利になる。それなのに、追いつめられるのは快斗の方になるだろう。長年想ってきた相手を組み敷いている状態に、平静で居られる筈が無いのだ。そして、彼女は相手の動揺を見抜いてすかさず反撃をしてくる人間だった。

「…どうする気だ?強姦でもして口封じか。最低だな」
「してみようか?それで黙ってくれるってんなら試してみる価値はあるよな」
「ーハッ!いい度胸だ、快斗。やってみろよ」

 売り言葉に買い言葉。兄弟喧嘩が過熱する最大の要因は、互いに引く事が出来なくなる点にある。
 相手に言われた言葉に、相手に言ってしまった言葉に、自らが煽られるーそれはお互い様だった。
 快斗は、吐息がかかる程に顔を近づけて、遠く距離を置いて暮らしている間ずっとずっと夢にまで見たその人の青い瞳を覗き込む。こんなにも近く目の前にいる、想い続けている、唯一の、その人。相対する青い瞳の持ち主は、強く烈しい意思を込めて睨みつけていた。浮かぶ感情は、純粋な怒りだ。怒っている。とても、とても。
(怒られてんのが嬉しい、とか。本当に、どうしようもねーや)
 身の危険を感じていない訳でもないだろうに。虚勢を張っているでもなく、逸らされる事無く快斗を睨む曇りの無い目は、下卑た笑いを浮かべている快斗自身の姿を鮮明に映し返していた。まるで、透明なガラスが夜の闇で鏡面になり全てを照り返すような。快斗の懇願も隠しきれない欲望も、ただ怒りでもって跳ね返す、その強さ。
(…きっと)
ーここで抱いてたら。きっと。
(ずっと追い掛けて来る。ー来てくれる。オレがどこに墜ちて行ったって)
 嫌悪と侮蔑、あるいは恐怖を植え付ける行為をしたとしても、彼女は、自身の誇りを傷つけた相手から逃げ出そうとする人じゃない。むしろそれに対する断罪や報復を叩き付けにー叩きのめしに来る人だ。
ー勝手にしろと呆れて去ってくれる事はないだろう。
 余りに甘美な誘惑だった。恐ろしいくらいに。
 目の前のこの人は、無意識で全てを計算しているんじゃないかと快斗は思う。ぞくり、と背筋が震える。強気で睨む眼と裏腹に紅潮している頬と、悔しげに引き結ばれた紅い唇。記憶にあるより一層綺麗な肌が目の前にある。押さえ込む手に再度力をかけながら、快斗は上体を倒して彼女の耳元に囁いた。

「俺、抱けるよ?解ってる?」
「ー…っ」

 暴れようとする脚を押さえ込む為に細い身体に乗り上がっている腰をわざと彼女の身体に押し付ける。ひゅっと息を呑む気配。愉しくなった快斗は殊更ゆっくりと目の前の白い耳朶を噛んだ。跳ねる細い肩。びくりと全身を震わせる反応に気を良くして、耳に頬に彼女の唇ギリギリ近くに幾度か口付けて、更に首筋に吸い付く。
 言葉無く動揺し身体を強ばらせる彼女が、微かに「ゃ、め…」と声を出した所で、その鼻先にーぷしゅ、とスプレーを吹き付けた。
 思わぬ攻撃にー咄嗟に息を止める事も出来ず、噴霧されたソレを吸い込んでしまった彼女は、あっという間に、意識を失った。

「…やべーって、もう、ホント」

 起きないよな?効いてるよな?快斗はこわごわ身体を起こして、くたりと身体を座席に沈ませている姉を検分する。武器は先程左手に握られていたスタンガン一つだけのようだった。もう片手の手首には拘束用と思われる太い天蚕糸が巻かれていて、ジャケットの膨らみには、手錠と小ぶりの薬瓶。クロロホルムだろうか。
 スタンガンで動きを止めたら薬剤を嗅がせ人事不省にし拘束…という手順だったのだろう、と快斗は推測した。まったくもって、相変わらず物騒に生きている人だ。

「しっかし、寝ちまったら送るしか無いんだよなぁ…」

 まさかアジトに連れて行ける筈も無い。だからといって目を覚ます前にどこかに捨て置くなんて真似だって快斗には出来無い相談である。おそらくこの市内に宿を取っているとは思うが、一軒一軒あたるのと彼女の親元に連れて行くのとどちらが早いものなのか。
 困った、と溜め息を吐いた時ーpipipipi…携帯の呼び出し音が鳴った。


***


 電話で指定された場所は、湾岸倉庫から再びあの繁華街に戻った先の、とあるホテルの駐車場だった。入場ゲートを潜って、ホテルへと伸びる石畳の傍の停車場に停止する。既にそこには彼らが来ていた。
 育ての親と顔を合わせるのはおよそ半年ぶりになる。合わせる顔が無いので、快斗は運転席から降りないぞ、と決めていて、内部から後部座席の扉を開くだけにした。その態度に肩を竦めながらも、優作はそこから車の中を覗きこんで、おやおやと娘の姿を見て笑った。

「喧嘩に疲れて寝てしまったのかな?」
「まぁ…疲れてたんじゃないですかね」

 時差をモノともせず、思考し行動しまくっていれば、簡単なきっかけで眠りに落ちる事もあるだろう。だが、彼女が『ひっぱたく』と宣言していた弟は無事なようだ。文言不履行をする娘ではないので、これは喧嘩の軍配が弟に上がったか、はたまた喧嘩自体が成立しなかったのとどちらだろうかと優作は素早く背後を見ようとしない元・息子と、不自然な程深く眠っているらしい娘を見比べる。

「一応、念のために聞くが、悪さはしてないだろうね?」
「!ーし、てません!」

 よいしょ、と優作は娘を座席から引き寄せて両腕で持ち上げる。ペンより重いものを持ちたくない、という難儀な作家にありがちな職業病は持っていないので、久しぶりの子供の重さと体温が愉しい。フロントミラー越しに一瞬だけ気遣わしげな視線が向けられたが、「有希子より軽いものだね」と言うと、運転手はほっと息を吐いたようだった。ここで無理を言えば、工藤家が取っている部屋まで連れて行けただろうが、優作にその気は無かった。

「送ってくれてありがとう。後で、この子からも御礼をさせよう」
「ー結構です」

 にべの無い返事に肩を竦めてから、優作は車に背中を向けて後ろを振り返り「お迎えですよ黒羽さん」と背後に居た人物に声をかけた。
ー快斗にここへ来るように電話をしてきた人物だ。

「寝ちゃってるのね。お話出来なくて残念」
「また、今度にでも」
「…そうですわね」
「今日は、お会い出来て良かったです、黒羽さん」
「こちらこそ」
「楽しかったわ、千影さん」
「私こそ、有希子さん」

 アイドリング中の車の外から聞えて来る会話は実に何気ない遣り取りで、そこに何を含ませているかを伺うのは容易ではない。各人各々狐狸妖怪の類いを身の内に飼っているような人間だから当然だ。よって快斗は聞き流すことにする。

ー バタン

 車の助手席のドアが閉められると、直ぐに快斗は車を発進させた。コツン、と一度窓を叩いた養母の視線にただ首を横に振って、窓は開けなかった。
 遠ざかるサイドミラーに映る一家三人の姿に、胃の底あたりがきしりと痛みを訴えてくるが、あくまでも顔だけは平静を装って、助手席の実母に声を掛けた。ついでに懐から出した今日の怪盗の戦利品を渡す。

「…いつ、会う約束なんてしたんだ?」
「それがね、聞いてよー!今日の舞台の真上の補助ルートがおかしな事になってるってアンタに伝えた後ね、声、掛けられちゃった。隣のビルに誰かいるだろうって当たりを付けてたみたいね。相変わらず鋭いわ、優作くん」
「マジかよ。その時点で連絡してくれよ!そしたら、絶対、あの車使わなかった!」
「連絡させてくれる暇なんてくれなかったわー。有希子さんったら相変わらず可愛くて」
「理由になってねぇし」

 ぶつくさと言ってる間にも、母ー千影は小さなバッグから取り出した小型の通信機器に快斗が今日盗ってきた獲物の画像を取り込んで行く。ついでに今夜の月に本体を翳す。手にした『東洋の碧』は、ただ美しい碧の世界を彼女の目の前に差し出すだけだった。

「ハズレだろ」
「ええ。元々確率は半々だから仕方ないわ。でも『パーツ』の一つだと思うから、解析待ちね。で?久しぶりのお姉さんと、ちゃんと色々話したの?」
「…何を話せって?もーね、頑固なのあの人。俺の言い分全然聞いてくれねー。ヤメロ、ってそんだけ。辞める気ないから、寝かした。実のところ連絡くれて助かったよ。泊まってる場所とか聞く前に落しちゃったから」
「ふ〜ん?それだけぇ?ホントに〜?」
「…なんだよ」

 口元を片手の指先だけで軽く覆いつつ、眼を愉しげに細めてちろりんと運転している快斗を眺めやる千影に、快斗は一体何を言って来るのか警戒した。
 こういう顔をしている時は大概ロクな事を口にしない女性だ、と十年以上のブランクを経て母子に戻ってからの数ヶ月で思い知っていた。

「眠らせて何かしたんじゃなくて?」
「してません」

 先程養父にも同じ事を言われていたので、今度こそ、きっぱりと動揺せずに言い返した。

「つまんないわねぇ」

 反応の薄さについてなのか、男としての甲斐性の無さについてなのか。どちらにしても快斗からすれば大きなお世話だった。
 はー、とわざとらしい溜め息を吐いてから気になっていた事を聞く。

「あの人達と何話した?」
「ほぼ近況報告だったわね。スゴいのよー、優作くん、マカデミー賞にノミネートされてるんですって!」
「…へぇ。ナイトバロン映画化のヤツか。んで?」
「そうね。相変わらず色々察してて、でも、…貴方がしている事については、何も言わないで二人とも笑ってたわ」
「……」
「私の方が気になっちゃったから、言ったわ。『快斗がご迷惑かけました』って。そしたらね、…ふふ」

 話の途中で何を思い出したのか、千影は笑ってそのまま暫く言葉が途切れる。特に促す事もせず、快斗はジッと待った。丁度、信号は停車せよと点滅をしている。

「『快斗くんの事は殆どあの子の姉に任せてきましたからね、多分これからもあの子に任せるでしょう』」
「『快ちゃんは、結局、新ちゃんの言う事なら何でも聞くと思うのよー』」
「『この先、ご迷惑を掛けるのは姉の方かもしれませんから、覚悟してくおくように、伝えて下さい』」
「『頑張ってね、って言っておいてねー』」

 見事な声帯模写で再現された音声は、快斗の脳裏に二人の養い親がどんな表情でそう言い放ったかを素晴らしい正確さで浮かばせた。

「やっぱ丸投げなんだ…!」

 ハンドルに額を打ち付けて呻く。途端、車外の背後からパッパーとクラクションを慣らされて、快斗は慌ててアクセルを踏み込んだ。
 予想はしていた。手紙一つで親子関係を解消させた不義理な息子に何も問わないあの
態度。嫌われていたとは思わない。勿論無関心に放置されていた覚えも無い。姉と同じに実の子供として大事にしてきてもらった、と理解している。
ーだからこそ、姉が動くのなら、あの両親は動かない。だって、それならただの姉弟喧嘩だからだ。本気で姉を害していたら、事情は違っていただろうが、そんな事が出来る訳が無いと知られてしまっているのだ。

「どうするの?快斗」
「…そのうち日本に戻るだろ。警告はした。」

 そうかしら?と首を傾げる千影に、そうであってくれないと困るから、とは言えずに押し黙る。暫くして、チリリンと電子音が千影の手元で鳴った。先程送ったデータの解析結果がきたのだ。素早く眼を走らせ、それから「あらー…」と感嘆とも呆れともとれる声を上げた。

「たーいへん。快斗…」
「なに?」
「ボレー彗星の軌道決定から、位置推算した結果が出たんだけど…」
「けど?」
「パーツの産出係数からみても、アジア圏だろうって言ってたけど…」
「…けど?」
「位置推算による地球最接近軸が、推定だと東経135度・北緯35度なのよねぇ…」
「はあああああ!?」


 かくして、「一時撤退」を決めた姉を追い掛けるようにして、怪盗1412号という仮初めの姿をとった弟が、日本の地を踏むのは、ここから一ヶ月後のこと。

 徹底無視か徹底追及かを迷っていた姉が、己のテリトリーたる日本の地で怪盗なんてモノを野放しにする筈がなく、あのクソガキ!と毒づきながら追いかけっこを開始する。また、その言い草に感銘を受けた彼女の父親ー日本が誇るミステリー作家である彼が、「1412…この数字を崩して眺めているとKIDと読めますね」と、発言したのがきっかけになり、怪盗1412号が「怪盗キッド」と呼ばれるようになるのは、シアトルの事件から三ヶ月後の事だった。




「怪盗」と「探偵」という名に隠された姉弟喧嘩は、一年の期間をもって、東都をー日本を舞台に、それはそれは盛大に繰り広げられたのであった。



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