姉と弟
『ご搭乗の皆様―…』

 機内アナウンスを聞き流しながら、自宅から持って来たファイルと職場で受け取った資料をパラパラとめくって行く。

 自身でファイリングした資料には、二年前に父親から受け取った『黒羽快斗』の生育歴書が挟まっている。
…出生届けが出されたのはフランス―その後、日本国籍を取得。親ばかが垣間見える彼の履歴は、たった三年分であるのに、それはそれは多岐に渡りかなりの情報を持っていた。一歳前に発語し、二歳を前に親以外とも正確な意思疎通の取れる会話をして、三歳になる前には国籍を取った日本語に、生まれの地であるフランス語、世界共通言語として多勢である英語を流暢に話したという。好きな食べ物、嫌いな食べ物。好きな色はそのまま好きな服へ繋がり、嫌いな色は使わないクレヨンの色になる。耳が良く、また声も自在に音を替え、聞いた音を再生する能力ー声帯模写が有ると推定されることや、空間把握能力の高さと瞬間数的認識力の正確さ、なにより記憶力の素晴らしさー 天才、に対する記述が続く。
 最初に読んだ時は、一体誰の事なのか本気で解らなかった。
 工藤家にやってきた弟が、そんな訳の分からない才に溢れているのを見た事が無い。たどたどしく『ねぇたん』と呼び、不器用に着替えをするのを手伝ってやっていたのだ。それでも幾分か記憶に重なる類似点。―魚はきらい。鳥が好き。青色が好き。赤はキレイ、でもくすんだ血の色みたいなのはすきじゃない。積み木が得意で、声真似が上手ー。
―『多分、快斗くんは忘れていたのだと思う』
 記憶力が良いのに?と問えば、困ったように笑った父親。もしや、と娘は呟いた。
―『記憶が…?記憶障害?あるいは改竄…?』
―『暗示、のようなものじゃないかと思ったがね、私は』

 工藤家に引き取られた時、彼女の両親が見せていた顔は悲しげだった。それを当時は、友人なり知り合いなり、あるいは親戚の夫婦に不幸があって、小さな子供が取り残されたのか、と至極ありえそうな事を考えていたと思う。彼女の両親は、その子を通し、子の親を悼んでいたように見えたのだ。愛する子供と離ればなれにならなければいけない誰かに同情を示してたのかと思っていた。
 だが、月を見て泣く子供は、親を亡くした不幸を負ってるようではなかった。どうしてか解らないけど悲しいと、しくしくと泣く弟が漏らした「いかないで」。突然己を庇護してくれる存在から弾き出されたのではなく、置いて行かれるー「別離」を知っていた子供。
 別れに悲しみがあるのなら、離れ難い執着が有る筈である。なのに、その子供は『ホントウのとーさん、かーさん』については、いつも曖昧に首を傾げていた。工藤の家に連れてこられる以前の記憶がどうもあやふやな様子だったのだ。―よくよく自我の薄い頃の子供は、虐待を受けてもその事実を見たくないと記憶を改竄なり自己をその現場から乖離させ己の心を守ろうとする、という事象があるのを知ったときは、まさかと思った。だが、それは両親の様子を思い返し、また自分にひっついてくる弟の身体にそんな痕も異様な精神状態も見受けられなかったことで早々に否定出来た。
 弟が、きちんと親の愛情を受けて三つの歳まで育っていたことは、他ならぬ弟自身を見れば一目瞭然だったのだ。衒い無く、にっこりと笑う顔。見る者に愛しさを感じさせるそれは、彼がそうされて来たからに他ならない。
―けれども、別れねばならなかった親子。
 そうする事で得られるモノがあるのだろうか?
―いや、おそらくそうではない。
 そもそも生みの親からすれば、子を失うだけのことだ。
―ならば、そうしなければ…守れない事がある?
 その場合、守りたいものなど言うまでもない。
―『暗示』をかけ、彼らに関する記憶を消してでも。
 生んだ親サイドに関わる事が無いように。

 だから次に調べるべき事は彼の両親についてだった。一体どんな危険な仕事をしているのか。ただ、あの頃に知れた事など本当に少しだけ。彼女の父親が話してくれた程度のことだった。
 彼らの痕跡は辿る事がとても困難だったのだ。

『あの子の父親はマジシャンの黒羽盗一。弱冠二十歳でマジシャンの登竜門であるFISMでグランプリを受賞した天才だ』
『…アイドルに子供がいちゃマズイって事か?そういう世界じゃないと思うが』
『そうだね。本人達は嫉妬と扱下ろしが渦巻く世界であるし、世界各国を飛び回る行商に子供を連れて行けないから、と言ってたが…おそらくこれは建前だ。―これを見たまえ』
『…怪盗…?』
 生育歴書の次に差し出されたのは、スクラップされた沢山の切り抜き。
―そこに踊る各国言語に共通する言葉に彼女は目を丸くした。
 『怪盗』という時代錯誤な単語。軽く驚いた後に思わず苦笑したが、実際、海外でそう形容される泥棒が複数指名手配されていることを知った。
『日本に出没していたのは、今からおよそ十二年前』
『ああ、そういや、快斗が最初にウチに来た頃、こっちに世話押し付けて、一課じゃなくて二課の刑事とよく出掛けてたよな』
 推理小説を綴る仕事をしている父親が、探偵よろしくそういった手合いと知恵競べをしていたという過去には呆れたが、少しばかりでもない羨ましい気持ちを持った。
そして聞かされる、黒羽快斗が工藤の家にやってきた理由。同時に、おそらく両親が息子を手元に置けなかった理由。
―『怪盗1412号というICPOに指名手配されている彼がそうではないか、と私は踏んでいるよ。彼のマジックはとても見事でね…滅多な者に真似はできないくらいに』
―『当時、有希子を通して知り合った黒羽夫人から、日本で教育を受けさせたい、という旨の相談を受けたんだ。夫人は夫のイリュージョンを完成させる上で不可欠な人物だったし、おそらく、『彼』と同じに二つ名を持っていた』
 いくら母親同士の仲が良くとも、そうそう相手の子供を預かる話になど普通ならないだろう、と問えば、大きな借りがあってねぇと父親は、きまり悪げに頭を掻いた。
―『…『彼』と遭った現場で、撃たれそうになった所を助けてもらったのさ。まぁ、そもそも銃弾は『彼』を狙っていたから、どう考えてもとばっちりはこちらの方だったんだが』
…それから暫くして、彼らは工藤家に新しい家族を迎え入れる事になった。

 事情を知る人間からの情報は取れるだけ取った。
 その上で、父親は姉たる彼女に弟である彼を任せる、と告げたのだ。
 一番その成長を近くで見ていた彼女に。


***


 降り立った空港から、まずは両親の元へ。それは、仕事先から預かった物を渡す相手でもあった。
 久しぶりに会う娘よりもその手に携えて来た荷物に目を輝かせた母親は、玄関ホールでくるくる回って喜んだ。日本の古美術商からある物を探し買い付けて貰ったらしい。中の物については、どちらの女性も人差し指を唇に宛てて「秘密」と言って教えてはくれなかったが。

「早速シャロンにありがとうって電話しなくちゃ!」
「あー、んじゃついでに、それで報告完了って事にして欲しいって伝えてくれ」
「え?それは駄目よう。この割り符、ハイ。ちゃんと手渡ししてねー」
「渡すっても」
「休暇を貰って来たんでしょう?」

 困った顔をした娘に「シャロンはいつでもいいって言っていたわ。面白いお土産待ってるって」母親は悪戯っぽく笑って、それから娘の肩を軽く抱いて家の中へ促した。

「おや、思ったより早かったな」
「…父さんも行くのか?」

 数える程度しか訪れたことのないこの家は、東都にある邸宅とは違い、二階建てのごく普通の一軒家だ。世界的に有名な作家が暮らすには些か不釣り合いなくらいに地味な風貌をしている。しかしそれは銃社会は何かと物騒だからと、見た目よりも内側を守るセキュリティに重点を置いた結果だそうだが。一見する限りでは防弾ガラスも防火壁も隠された暗視スコープ付きのカメラもごく普通の家の中に紛れ込んでそれと解らないようになっている。その家の玄関から真っすぐ伸びる突き当たりの広いリビングで待っていたのは、革張りのソファに座り時計を調整していたらしい父親だった。コートを羽織って大きめのボストンバッグを足元に置いている。

「君はこちらに不案内だろうと思ってね」
「移動ぐらい何とかなる。ホテルの場所はタクシーにでも案内させるさ。それに、…アイツだって、説教する人間が増えたら姿を現し難くなるんじゃないのか」
「協力する、と言っただろう?」

 姉弟喧嘩に口は出さないよ。にこりと笑う顔は、腹に一物持った時によく見るそれだった。この顔をしたら、まず周りの言う事は聞いてるようで一切聞いてくれない。はぁ…と溜め息を吐くと、キッチンからお茶を乗せたトレイを持って母親が「まずは一息入れなさい」と言って笑った。

「じゃ、新ちゃんが休んでる間に私も準備するから!」
「はぁ!?母さんまで、なんだよ」
「留守番なんていやだもーん。だーいじょうぶ、アンタ達の邪魔はしないわ」

 彼女の怪盗を追い掛ける行程は、とんだ家族旅行に変わっていた。




 ワシントン州最大の港湾都市であるシアトルには世界に名を馳せる企業が軒を連ね、最先端の宇宙科学技術から洗練されたコーヒーの味まで幅広く世界へと発信されている。その活気有る都会の一角で、工藤一家は、日本でもお馴染みのタリーズコーヒーを片手に、コーヒーショップのテラス席の机に新聞を広げて各々の推理を披露し合っていた。『予告状』とされる文面が乗った記事面。

「…で、結局この文面の頭文字を取れば『SAM』!シアトル・アート・ミュージアム、だ。もうこれで解る」
「いやいや、似たような略語になるのは他にもある。シアトル・アジアの方だとどうだい?大体この『退屈と単調を繰り返す』…その象徴になるハマリングマンは世界の七都市にあるのだからね」
「それは前提条件だろ?」
「まぁ、目的が『東洋の〜』だから、アジア美術の所蔵が多いここって事よねぇ」
「日本なら国宝級になるモンが揃ってるからな。しかも日付からして、明日からの特別展示狙い」
「東洋の神秘…ねぇ。それで時間は?わかってるの、優作?」
「ああ、それは」
「言わなくていい。父さん達は別行動だろ?」
「あら!新ちゃんの推理が間違ってたらどうするのよう」
「時間がわかったら絶対、母さん行く気だろ?」
「…だぁって、私だって、怪盗さん見てみたいわ。…ちょっと懐かしいし」

 ふふ、と笑う母の顔は芝居がかった女優の顔だ。快斗の父親にあたる奇術師・黒羽盗一に変装術を習ったという過去を持つ彼女からすれば、『怪盗1412号』には、それを追い掛けていた父同様に、ある種の思い入れがあるのだろう。それが解らない訳ではなかったが、行動を共にするのはちょっと鬱陶しいというのが娘の立場としての本音だった。
 さて、どう言って阻止したものか。だが、さらりとその役は父親が攫って行った。

「有希子は、私と行こうじゃないか」
「…そうだったわね。折角だからダウンタウン・デートしましょ、優作っ」

「……」

 仲の良い両親の姿というものは、時に子供としては居たたまれなくなる気分にさせられる事があって、この時も、彼らの娘はそっと目を逸らして新聞記事へ視線を写した。
ネット記事ではない紙媒体に映る『怪盗』。画像は荒いものだったけれど、どうしたって見間違えようがない、というのが弟を除く工藤家全員の見解。
―本当なら、ここに加わって笑っていたはずの家族。
 そうそう今日のご飯、どこにしようか〜と変わらず笑いながら一体いつのまに入手したのか、名店紹介を載せたガイドブックを開く母親。ふむ、タクシーは細い路地に待たせられないし、ホテルから近い所がいいかもしれないよ、と母に寄り添う父親。
彼らが、快斗の暴挙を―それを見逃した娘を、一つも責めようとしない事に、後ろめたさを覚えずにはいられなかった。

 あの時、引き止めていれば良かったのだろうか?
 行くな、と言えば良かったのだろうか?

―いいや、きっと何回同じ場面に立っても、そんな事は言わない。
 そう、彼女は確信している。

 父親から預かった彼女の知らぬ『快斗』を知った。そこから彼の願いを探り出すのはあまりに容易だったのだ。彼が凄いと絶賛したイリュージニスト。公表されている事実は曖昧な物が多かったが、師匠候補を見たいと望んだ姉に弟が見せてくれた動画は、確かに謎を解明する眼をもつ彼女をも唸らせる内容だった。
 では、そこまでしてマジシャンに焦がれる理由があるのかと問うと、弟は―彼は、ひとこと「わからない」と言ったのだ。

―だから、解ってることだけでいい?新ねぇ
カードを切る所作が好きなんだ。
手品で誰かが喜んでくれるのが面白かった。
種も仕掛けもあるマジックを、まるで魔法のようだと言われた時、それを扱える人間になりたいと思った。
ヒトの出来る事にはさ、きっとどこかに限界があって、でも不可能は無いんだ、きっと。
あり得ない事象を、易々と笑いながら叶えてしまう奇術師という人。出来ない事は無理なことだ、ってどっかで思ってた俺に、想像した時にはそれは既に不可能じゃなくなってる、って気付かせてくれたんだよ。

 眼を伏せて、静かに自分の内側の声を形にして伝えようとしてくれた弟に、その道へ進むなと言う事は出来なかった。彼の天賦は、ともすれば彼を孤独に追いやりかねない程の際立った才能に違いないのだ。万人の眼に同じように在る世界を見ながら、誰も知らぬ言葉や数字で世界を語る人間は周囲の大多数を占める凡人に理解されることはない。それでもヒトを知りたいと望み、人間の不条理や謎を解く事を選んだ己のように、関心が向くのであればまだ救いも見いだせる。だが―もう少し幼い時分に弟が口にした「仲、悪くない」と他者との関わりに一線を引いた態度を思い返せば、それは困難ではないかと思っていた。
 それが、マジックを通してなら、誰かを喜ばせ、その才を余す所無く使えるのだと言う。そう言われてしまえば、そこに弟にとっての最良の道があるのだと思うのは当然だった。
 止める理由が無い。弟の為を思うのならば、それは。

―本当に、それだけが理由だというのならば。

『勝手に、決めて。ずっと言えなくて、ゴメン』
 申し訳無さそうに言われても、責めることはしなかった。
『お前が謝る事じゃない。…だた、弟の相談にも乗ってやれなかった自分が情けなくて、八つ当たりしてただけだ。こっちこそ悪かったな』
 そう返した時、快斗は首を横に振った。俯いて、肩の力を抜いて、緩慢に。―静かに見つめる青い瞳を見え返す事無く。隠し事がある時、いつも弟は「ホームズみたいに鋭くてスゴい」姉の顔から逃げるのが常だった。
『ううん。俺が我が侭だから…やっぱりゴメン』
『―そうだな』
『…へ?』
『オメーがいなくなるとこっちは不便になるわけだから。有る意味迷惑になるな』
『ちょ、不便って!気楽な一人暮らしってヤツになるだけじゃねーの?散々人の事口煩いだの言っておいて』
『快斗』
『…なに?新ねぇ』
 苦笑いして、笑ってこの話を終わりにしようとしていたから、彼女も笑って、一言だけの忠告に留めたのだ。賢しい弟は、姉の言いつけに背くような事は決してしない、―筈だったから。

『オメーがいないと迷惑だ。…だから、さっさと一人前になって、帰ってこい』

 笑った顔を伏せた仕草を、肯定だと取る気はなかった。だが否定の言葉も無かったから『いいな?』と念を押して、姉は弟を異国へ送り出したのだ。

(名前を替えたのは、身内の迷惑にならない為、だとしても、だ。どっちにしろこんな真似すんのはいろんなトコに大迷惑だろーに、バーロ)

 夫婦はガイドブックを眺めているから、もういいだろうと新聞を独り占め。ニヒルに嗤う顔を眼の高さに合わせてジッと見る。
 こんな顔で笑うような子供だっただろうか。

 後悔しているとしたら、何故もっと早くこちらへー弟の様子を見に来なかったのか、ということ。
 連絡が取り難くなる、という言葉に、もっと怒ってやれなかったのか。
 どんなに近い存在だとしても、生きる道が違うのなら、遠くなって行く事は仕方ないことなんだと『ごめん』と謝る言葉に『そうか』としか返せなかった。
 ネット越しの対面で、あっさりと謝罪を受け入れた姉を見る弟の目に浮かんでいた感情を、知ろうとはしなかった。

―今更、ってわかってる。

 それでも、彼女は彼に会いに来た。
 いや、迎えに来たのだ。


***


―PM6:50

日本時間であれば、日付が明日へと以降しそろそろ昼にさしかかる頃だ。しかし、今なお日暮れの遅いこの場所は、夕闇が落ち始めたばかりの夜の入り口。
長く伸びる影が幾重にも重なって、ビルの群れにストリートの石壁に複雑な模様を描いていた。

「日の入りの時間から逆算して?尤も『彼』の影が伸び、あのハンマーが打ち下ろされる時間…うん」

 日の高い時間から、何度もシアトル美術館の内外を確認し、もう一度怪盗が現れると予告してきた文面を脳裏で確認、更に腕時計を確認して、さてどうするかと美術館ロビーのソファに腰をかけた。特別展示室を見てはきたが、不審な細工を見つけるには至らなかった。唯一怪しいな、と感じたのは天井だったが、生憎と確認する術がない。密かに持ち込んだ小型PCを使い、内部構造や警備室の映像をこっそり閲覧した結果、警備体制はそれなりに敷かれていたが、『怪盗』に狙われているにしては大人しい印象だった。あの予告状は放置されているのか。―あるいは、警備が緩いのだと見せかけている可能性もある。展示室の屋根部分を隣のビルから望遠レンズで覗いたが、そこには高圧電流が流れる網が張り巡らされていた。網はごく最近設置されたような綺麗さ。前回の犯行時、白い翼で逃げたという鳥が舞い降りるには物騒な足場に見えた。

 この場において、観光客に過ぎない自分に出来る事は限られている。
 最良なるは、犯行前に怪盗を見つけて、犯行を辞めさせ話し合いのテーブルに付かせることだが、侵入経路が読めないのではこの手は難しい。逆に、犯行を行った後の逃走ルートは幾つか思いついたモノがある。排気ダクト、排水口、天窓、あるいは―…。

「気になるのは、やっぱアレなんだよな」

 この美術館の特徴的な展示の一つに、彼女は目を向けた。



―PM7:45

 本日の閉館時間は八時。予告時間まであと15分。
入場者の受付は閉館30分前に閉め切られているとあって、館内を観覧している人影はまばらだった。入る者はいなくなり、あとは退出していく人間しかいないので、そんなものだろう。
 だが、逆に警備の人間は増えていた。同じく、周囲を伺う目をした人間もだ。おそらく、怪盗の予告を読み解いた者達と思われた。先日突然世間を騒がせた怪盗なる者が本当にここにも現れるのか。もっとメディアが詰めかけるかと思いきや、意外に騒がれていないなと拍子抜けしてしまう。彼女でさえここで良いんだよな?と不安になるような扱いだ。これが犯罪者の多様性において世界でも突出しているお国柄というものなのか。駆け出しの泥棒への対応などこの程度で構わない、とでも言うような。
 それでも既に特別展示室への立ち入りは出来なくなっていた。
 閉館前にもう一度見たかったのに、と不満げな観光客の態度を取れば、すまないね、お嬢さん、今日はちょっと日が悪いのさ。明日また来ておくれ。もしかしたら、もっと面白いものが捕まってるかもしれないよ、と半笑いの警備員に返された。
―先日、怪盗にまんまと盗まれた品が、既に所蔵者の手元に戻っていることも大きいのかもしれない。大した相手ではない、そう思っていそうな案配だった。

 ディナーの予約時間まで閉館ギリギリまで待たせて欲しいんです。と、ダウンタウンに不慣れな様子の東洋系女性が言えば、受付番も仕方ないわね、と笑って許してくれたので、彼女は座ってジッと周囲を観察している。

 怪盗が指定した時間の幕が上がる五分前ーにわかに特別展示室のほうで大仰しい声があがった。何だ何だとそちらに掛けて行く人々。受付番は掛かって来た電話の対応に迫られる。入場ゲートを監視する警備員も、無線機から何がしか出ている指示に従い、忙しなく『場』が動き出した。
 
 その様子を冷静に―己の気配を消しながらー見つめー彼女はそっとソファから立ち上がった。


―時間が、来た。



ジリリリリリリ…


 館内に鳴り響く警報音。反響良く、煩い程に。
 ただならぬ騒音に、一体何だと来場者が見渡せば、館外を取り囲むパトロール・カーの数々。夜の空気を揺らすヘリの羽音は、警備の一環かはたまたマス・メディアの中継機か。

「…そうか、そっちは変化無し、なんだな?父さん」

―展示室には向わずに、彼女はある場所にて息を潜めていた。

 こっそりと掛けた電話の先は、この美術館の隣のビルで人と会う約束をしていると言っていた父親だ。おそらく隣には母親がいて眼下の景色を中継してくれているのだろう。『大騒ぎね〜』と目に映る情景を楽しむ声が電話の向こうから聞えて来た。

「…なら、ここで正解」

 身を潜めた場所のすぐ上方には、天井に張られている通気口の一部出入り口がある。普通に出口までこの道を使うのは危険な賭けだ。それに『怪盗』なんて名乗る人間が地味に逃げ出すとも思えなかった。

 何台も天井から吊るされたオブジェに混じった『本物』。

「さぁ、どこに連れてってくれるんだ?」

 カタリ、と天井の一角が揺れた。
 彼女は素早く、後部座席の影に隠れた。


***


 アメリカ映画で外せないアクションシーンがあるとすれば、それは確実に、車を使った派手な逃走劇ーカーチェイスだろう。逃げる者と追う者が、スピードとテクニックを競い合う、他の公道を走る人間にとってこれ以上無いはた迷惑な捕り物劇。逃げる者が追いすがる相手を振り切って走り去るか、もしくは相手を抜き去り行く手を遮って追う者が相手を取っ捕まえるかのその勝負。

―今宵のシアトルの繁華街を駆け抜けて行った一台の白い車と複数のポリスカーによるカーチェイスは、結果として、逃げる者の一人勝ちだった。

「へっへーん、らっくしょう」

 運転席で呟いた声は、まだ若い少年のもの。
 美術館の展示品のなかに紛れていた本物と同じに動く白塗りの車は、おいかけて来るポリスカーを振り切り、空から見え難いある路地裏を抜け、長さ数メートルの架橋の下を抜けた時には、ありふれたブラウン色の車体に変わっていた。ハンドルを握っていた人間も、座ったまま早着替えを行い、シャツにジーンズの軽装になって、先程の白い姿をした者とはさっさと身に纏う布に合わせて雰囲気を替えている。まるきり紳士からやんちゃな少年へ。
 しかもその後、白い車を追いかけ封鎖された道路の前で停止して、警備をする人間に「えー?イキナリ行けなくなったんですかぁ?」と話しかけたのだ。身分提示を求められ、「学生か。日系人は若く見えるな。夜遊びはほどほどにしろよ。今夜この辺りは警備だらけだ」と忠告されて肩を竦めてみせた。

―だが。念の為にと車内を覗き込んで来た警備員が発した言葉に、運転席の少年は目を見開いた。

「彼女をさっさと家に送ってやるんだな」

「…ーは?」
「こんばんは。ご苦労様です」

 少年が後ろの座席を振り返る。
 そこには、にこりと笑って、警備員に愛想笑いを浮かべる女性がいた。





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