姉と弟
「…ファントム…No.1412?」



 工藤家に引き取られてきて以来、頑に彼女の傍にいた弟が、彼自身の為に日本を離れて、およそ二年後の朝の事だった。
 ウィークリーで取っていた英字新聞をデイリー購入や電子版に替え、弟を含んだ離れて暮らす家族の生活に大きな異変が起きていないかをチェックする事は、彼女にとって日課の一つになっている。
 仕事上、多くの情報を得る事が求められるという事もある。だが、彼女はごく私的な感情から―彼女の家族の暮らす地域でテロや暴動が起きていないかを気にして―それらの情報を掴むようにしていた。

 その日の朝も、地元日本の東都新聞にざっくりと目を通し、アジア版としては即日で手に入るフィナンシャルタイムズを開く。それから、ネットを立ち上げNYタイムズにアクセス。時事情報に迅速さを求めるならば、不本意だが紙媒体ではない電子情報の方が何倍も速いのだ。
 そして、画面に速報記事として上げられていた写真に、彼女は大きく目を見開いた。

「これ…って、まさか…?!」

―『俺、見込みあるって!弟子入りが決まったよ』
―『二年間は、みっちり修行になるって言われた』
―『やっぱり、スクールは止めにした。ま、こっちは二年後に飛び級使って大学入るつもりだから。とにかくさ、若いうちでしか習得できない技術っての先に手に入れてから、考えたいんだ』
ー『公演のアシストさせて貰ることになった!いちお、俺もステージに出るよ。演るから、見に来ない?』
ー『また駄目なの?!アシストつっても第一助手だぜ?…もーなんだよ…折角チケット送ったのにー。もう。…うん。わーった、補佐じゃなくてメーンになったら絶対来てよね!』
―『ごめん、巡業期間中は、独り立ちの修行だから、家族に甘えたら駄目だって…その、今度からネットも駄目になる、かも。下手すりゃ電話も』
―『デビューが決まったら、ちゃんと招待するから!待ってて!』

「快斗…?」

 もう、半年以上、彼女はネット越しでさえ弟の顔を見ていなかった。
 だから、まさか、という言葉ばかりが頭に浮かんで、真偽が解らなくなる。
―否、己の直感の真を彼女は信じている。いつでも危機的状況から彼女自身を助けて来た揺るぎない推察能力と観察眼を。
 だが、ソレが正しいのだと言うならば、この紙面を飾る犯罪者は。

「嘘だろ…?!」

 白いシルクハットを目深に被ってはいるが、耳から顎のラインと、口の端を上げて笑う形はともかく、僅かに緩められている唇が描く輪郭に見覚えがあった。帽子の裾からはみ出ている癖のある柔らかそうな黒い髪も。遠目のものを無理に拡大したのであろう、ピントが合っていない画像であったが、それらが読み取れる近影の他に、もう一枚。
 どこかの塔のバルコニーの欄干に立つ全身が映っている。ひらめくマントに月が落す光が反射し白さ際立つ衣装と陰影のフォルムが対比して、背景のネオンの色が無ければモノクロームにしか見えない写真。
―その姿にダブって見える、彼女の記憶にある弟の姿。

「違う…いや、」

 あの頃よりは、幾分か背が高くなって、身体に厚みが出ていると思う。記憶に有るものとは違っている。だから、体躯の違う別人なんじゃないか、と思いたくなる。けれども、どうしても、一目見て、浮かんでしまった近親者の顔がある。この位の成長をしていてもおかしくない、年下の者の。

「間違いない、な。…この為に、お前はその道を選んだのか?」

 彼女が投げかけた疑問に答えてくれる者はこの場にはいない。
 一縷の望みをかけて、ヘッドマイクを装着し、そのままネット回線を彼女の両親の所へと繋いだ。



―結果は、最も悪い予想を裏切ってはくれなかった。


『…早いね。まだ日本の新聞には載らないと思ったが』
「いや日本のじゃねーよ。そっちの電子版。なぁ…もしかして」
『多分君の思っている通りさ。…快斗くんはね、きっちり家の子を辞めて行ってしまったよ』
「いつから」
『打診されたのはこちらに来て直ぐだった。十五歳を過ぎれば、本人の意思が重視されるのは仕方ない』
「だからって!」
『当然、反対したよ。何より代理人が不在だったから、一旦保留の形になっていたんだ。だが―』

 渡米する際に、パスポート発行に必要だからと取得した戸籍謄本を余分に請求し所持していたのだという。そして、先日工藤優作の手元に届いた在外公館からの知らせ。文書の偽造を訴えれば、無効に出来ただろう。だが、同時に届けられた息子からの手紙に、父親である男は訴えを起こす事を諦めざるを得なかった。

「あんの、馬鹿!」
『どうしても、『黒羽』の姓に戻りたいのなら、姉である君の許可を取るように言ってあったが、…なにか彼から言われたかな?』
「ぜんっぜん!絵はがき一つ来ちゃいねーよ!修行中は連絡しないでくれって言われてたしな!?電話だって繋がりゃしねぇ」
『そっちもか…』

 画面の向こうの遠い距離にあるはずの娘にも届くかのような、大きな溜め息を一つして、工藤優作は、彼の娘に問いかけた。

『君はどうする?』
「まず、ひっぱたく。勝手な真似したのと、馬鹿な真似したのと、全部、叱り飛ばしてやる」
『…それから?』
「はぁ?そんなん、あとの事は、その時に考えるに決まってるだろ!」
『… …っ』
「笑い事か!」
『いやぁ…素晴らしい姉弟愛だと思ってね。解った。私も些か反抗期の息子にはお灸を据えてあげたかったから、協力させて貰おう。ああ、私の分は君のお説教の後で良いよ』
「珍しいな。だったら遠慮しねーぞ。まず、今からそっち行きの便押さえてくれ。日本時間で昼以降。こっちは今直ぐ職場に行って、休暇取って来る。あ、寝床も見繕って欲しい。この…次の犯行予告?の近くの安宿でいい。多分これ…シアトルの…美術館のことだろ」
『了解』

 言うが早いが画面を閉じて、彼女は次の行動を起こすべく急ぎ自室に戻った。
 クロゼットからスーツケースを引っ張り出し、最低限の荷造りをする。仕事場へ行く前に、出国準備もある程度しておかねばならない。海外で使えるカードはあるが、やはり両替もいくらかはしておく必要があるだろうし。
(いきなり休ませてもらえるかってのも、問題だけどな)
 だが、駄目だと言われても彼女はもはや行くことを決めている。無断欠勤でクビになるのも覚悟しなければならないだろう。
 ガザガザと向こうへ持って行く服や靴―書類の詰まったファイル・ケースを床に出して行く。
(そういや…父さんに「任せた」、って言われてたんだ)
 ぽい、と放り出した青色のファイルを見て思い出すこと。

―二年前。
 弟が、突然姉の傍を離れ海外へ行くとその決意を聞かされたあの時。




***

―コンコン

 扉の向こうからの呼びかけに、工藤優作は手にしていた資料から目をあげた。

「なんだい?」
(「今、いいか?」)
「…どうぞ。入ってきなさい」

 親しき家族の間柄であっても、それなりに大人として相手への気遣いが出来るようになったのか、と。少しばかり感心しつつ、同時に少しばかり寂しい心地になりながら入室を促す。
 入って来たのは、工藤家の長女だった。
 結局その日彼女は家族と一緒に夕食を採る事なく、ふらりと帰って来たのは六時を過ぎた辺りだった。どこへ行っていたか聞いてもはっきりとした返事をする事無く自室へ引っ込んでしまい、彼女の様子をちらちらと気にしていた息子も無視されてしまっていた。彼は可哀想なくらい悄然としていて、大丈夫?と聞く母親に、仕方ないから…と言いながらも大分落ち込んでいた。それでも俺がちゃんと新ねぇに話通して無かったせいだから、変な空気にして御免なさいなどと逆に親側を気遣ってみせたのだ。全く、姉弟揃って、良い子に育ってくれたものである。

「聞きたい事がある」
「…なんだい?」

 先程と同じ言葉で、けれども先程とは違う声音で、父は娘に問いかけた。
 探る者としての道を進んでいる彼女が、単刀直入に聞いて来る事とは一体なんであろうか。なんとなく当たりは付いたが、工藤優作はただ静かに彼女の言葉を待った。

「快斗の、本当の親御さんについてだ」
「…名実ともに、現状、彼の本当の親は私と有希子のはずだが?」
「養子縁組の許可書が裁判所から発行されているのは知ってる。戸籍の記載もな。悪いが、聞きたいのは生んだ方の親御さんについてだ。―法定代理人に指定されている『黒羽』さんが実の親だな?」

 一切逸らされぬ強い瞳は、言い逃れも誤摩化しも、はぐらかす事さえ許してくれそうにないな、と工藤優作は思った。

「そうだね」
「今、その人達はどこにいる?」
「…さて。あの子を預かって以来、私は会ってはいないから、知りようが無い」
「…会って『は』ない?連絡はあるってことだな、母さんの方にか?」
「そう思うのなら有希子に聞いてごらん」
「―いや、父さんと母さんの間が筒抜けってことは確認するまでもなかったな。つまり手紙や電話、メールなど証拠の残る遣り取りはしていないってことか」

 煙に巻くのも無理そうだ、と父は娘に向って嘆息した。全く手強くなってくれたものである。妻の旧来の親友が務める仕事場に放り込んだことを(正確には飛び込んで行くのを放置したことを)少し後悔した。これでは、この先一体どんな女性になっていくというのか。親の欲目ナシでも、顔かたちは母譲りの美しさに秀でて来たように思うのに。クリスマスの歳までには結婚を、などと時代錯誤な事を言いはしないが、この様子では男っ気の無いまま年を食って行きそうな案配だ。それはそれで安心するような、いやそれは不味いのではと焦燥にかられるような。娘の父親の気持ちとしては大変に複雑だった。

「海外の、どこにいるんだ?」
「…おやおや」
「父さん達が、向こうに渡る前に、…ちょうど、小一になった快斗が居なくなったことがあっただろ」
「よく覚えているねぇ」
「図書館にいた快斗を見つけた時、アイツの傍にあった本。…それとトランプ。あれは誰かが快斗に向けて置いたものだ。あるいはメッセージ」
「…私は何も、彼に与えてはいないよ」
「だろうな。あの夜の帰り道、父さんは単純に嬉しそうだった。誰かの無事を知った、みたいな」
「……」

 一つ一つ、父の反応を確かめながら、娘は言葉を繋いで行く。
 
「ロスへ快斗を誘ったことがあったよな?」
「いや?確か、日本の教育カリキュラムが合わなければ海外はどうかと提案しただけだった筈だよ。お前も一緒にね」
「その後の春休みに行った先―」
「家族旅行の事かな?それは」
「観光先にラスベガスを選んだのはなんでだ?」
「ごく普通のチョイスだと思ったんだが、二人とも楽しんでいただろう?」
「ハリウッドでもユニバーサルでもないのが不思議だった」
「行きたかったのなら、言ってくれれば良かったのに」
「…あの時、行き先もチケットも、全部父さん達が準備してくれてたんだ」

 家族として過ごして来た年月の中で、小さく引っ掛かっていたほんの些細な出来事。それぞれだけなら、そんなものかもしれないと見過ごしてしまえる程度の。

「快斗を、見せに行ってたんじゃないのか」
「…そうかもしれないね」

 工藤優作は、何一つ、彼女の言葉を否定しなかった。
―する必要がなかった。

「今、その人達はどこにいる?」
「残念ながら、私には解らない」

 両手を彼女に向って開き、隠している事は無いと示した。

「―そうか。解った」

 邪魔したな、父さん。そう言って退室しようとする娘に工藤優作は問いかけた。

「知ってどうするというんだい?あの子の進路を、考え直させたいとでも?」
「まさか!自立結構、だろ?でも、その道が本当に快斗の為になるのかぐれーは知っておきたいんだよ。姉としては」
「ふむ。それは、何とも…弟思いに育ってくれて嬉しいものだね」
「散々、こっちのこと放っといてよく言うもんだよな」

 にこにこ笑って姉弟の絆に喜んで見せる父に、ふんっと娘は鼻を鳴らした。

「ああ。だったら、あの子の事は、君に任せよう」
「…なんだよ、それ」
「もっと先だと思っていたんだよ、私も有希子も…おそらく彼らも」
「口を割る気になったのか?」
「放っておいても調べるつもりだろう?それとも尋問しにいくのかな?」
「快斗が答えを知らないなら、尋問しても意味がないけどな」

 この怒りを漲らせた娘の相手をさせるのは可哀相だな、と。女性の―殊この娘の怒りには滅法弱そうな義理の息子の顔を思い浮かべる。彼は、あの男に段々と似て来た。海外に留学したいと打ち明けられた時は少々驚いたが、息子が娘に何も告げていない事の方が大きな驚きだったものだ。娘の前では全く隠し事など出来る筈が無いだろうと勝手に思っていたのもある。それなのに、少し見ない間に、彼は己の感情にヴェールを上手に掛ける術を身につけていた。―その内側を覗き込むのは、彼の事情を知っている親側にも計り兼ねたのだ。

「私が知っている事を君に渡しておくよ」
「……」
「知った上でどうするかは、お前に任せる」


***


『―へご出発のお客様へご案内致しますー…。…ただいま搭乗ゲート…番、』
『―行き、…時…分ー。到着口…』
『お客様にご案内…ー』

 複数のアナウンスが飛び交い、行き交う人間が次々と交差していく空港内。
 雑踏を掻き分けながら、手配されたチケットを発券し、少し離れた場所で手荷物の受付に並んでくれていた同僚に彼女は頭を下げた。

「すいません、赤井さん。送って貰った上に荷物まで」
「構わないさ。半分はウチの荷物だろう。ほら、チケットを出して」

 カウンターで預かり証をチケットに添付して貰い、もう一度搭乗ゲートを確認してからそれをショルダーバッグに仕舞い込んだ。そうしてから、赤井が小脇に抱えていた箱を丁寧に受け取った。
 それでは、行ってきます。と、剣呑な雰囲気を纏って見せているのに、時にとても親切にしてくれる同僚に挨拶をする。

「向こうで『荷渡し』が済んだら、直ぐに連絡して、割り符を郵送します」
「…帰国して届けにこいと、あの女も言っていただろう?」
「いつになるか、わかりませんから」
「―向こうで家族と暮らすのか?」
「いいえ。ただ、場合によっては、馬鹿な身内を躾け直す必要がありますので」

 『馬鹿な身内』という言葉にかかる不機嫌さに、赤井はこれは面白いと小さく笑う。この娘があの仕事場と関わるようになってから、何くれと面倒を見たり時にはパートナーとして付き合ってもきた。稀なる慧眼と推理力と、容姿の良さ以上に内包する能力の高さと頭脳の良さを赤井はとても気に入っていたが、身内に対して忌々しげに口を尖らせる様子は普段の冷静さや大人ぶった部分が引っ込んで妙に可愛らしい。
 これは、あの所長も手放すのを惜しむ筈だな、と納得する。見ていて飽きないのだろう。

 様々な案件を手がける彼女の職場は、急遽休みを取りたいと願い出た社員に―例え拒否されても出て行くと決意し強ばる顔をする彼女に―あっけらかんと「あら、向こうへ?丁度いいわ!ちょっと仕事頼まれてくれないかしら」と言ったのだ。昨日までの仕事も今日明日の仕事の予定にも穴を開けると断言している不届き者を叱るでも諭すでも嗜めるでもない言葉に、彼女は「へ?」と毒気を抜かれてしまった。
 仕事の内容は簡単なもので、壊れ物を一つ、手荷物にして大事に運んで欲しいという事だった。郵送の出来ない品だから、あっちへ行かなくちゃと思っていたけど、なかなか時間が取れなくて、と。渡した相手から連絡が来たら、仕事は終わり。そこまではお仕事扱い。あと、溜まっていた有給もついでだから使って良いわよ、とりあえず二週間でどうかしら?―有り難い言葉に、首を横に振る理由など無かった。
 そして、更には。

「ふふ、向こうで面白いことがあったみたいね?」

 彼女と同じ否それ以上に世界の情報にアンテナを張っている上司は、彼女の向かう先に出現した人物についても興味があるようで、一冊の資料集を貸してくれた。その昔、とてもお世話になったという人物についての。似た内容の本を彼女の母が出版していたが、その他大勢の中に埋もれていないその人物についてのみ集積された中身は、とてもとても彼女にとって興味深かった。





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