日没間近の午後六時過ぎ。
彼は、じゃあなと言って学祭準備たけなわな教室から級友を残して帰宅してきた。級友達はクラスの仕事が終った後も、部活へと出るらしい。よくやるものだ、と彼は思う。一日のうち何時間をあの校舎で過ごす気なのか。だが、そんな風に学校を我が家以上の一番目の活動拠点として生活している生徒は多い。きっとそこには家にはない楽しさや大切なモノがあるのだろう。家に帰るより余程楽しいと彼等の表情が語っていた。
だが、生憎と彼にはそんな風に思えるものが何も無かった。生まれ育った場所における義務を果たす教育機関あから仕方なく通うのだ。そうでなければ、勉学など独学で事足りる。むしろ幅広い物事をかいつまんで頭に押し込めようとする学校の授業の方がよっぽど知的好奇心を奪っているのじゃないかとさえ思う。
「遅くなったなー」
自分以外の学生服姿は通りのあちこちに見える。予備校やコンビニの前にたむろっている若者からすれば、今は宵の口ですらない時間だろう。だが、彼にとっては、とても遅い時間の帰宅だった。
なにせ、この時間だと夕方のタイムセールは殆どのスーパーで終了している。やはり狙い目は午後五時前。
「ま、値引き惣菜に期待?一応電話してみっか」
同居している姉は、仕事柄不定期に家を出たり入ったりするが、それでも未成年の弟の保護者として、一日に朝と夕方に顔を合わせる旨を決めているようだった。仕事が暇でかつ食事当番があたって居る時は一応夕飯を用意してくれていることもある。新刊発売等と重なっていなければ、だが。
『快斗?』
「新ねぇ、いま家?」
『ああ。少し前に帰った。メシできてるぞー』
「マジ?!」
『事務所に絵里さんが来ててさ、デパ地下の美味いもん分けてもらった』
「お、ラッキーじゃん」
『学校遅くなるって言ってたけど―』
どうやらスーパーへの寄り道は要らないらしい。
携帯を耳元に宛てながら、商店街沿いの道から家路へショートカット出来る公園を突っ切る道へと切り替える。
「ん。すぐ帰るから」
きっと自分は今、家に帰るよりも学校が楽しいという顔をしていた友人よりも、何十倍も楽しい顔で家に向かっているんだろうなぁ、なんて思いながら、通話を切った。
「少し前に帰った、か」
だったら、今日はどんな姿で出迎えてくれるのだろう。
―エプロンでも付けてくれていたら、俺は大喜びだ。
きっと後ろの紐が曲がってるだろうから、結びなおしてやるのだ。
―ある日何気なく芽が出て蕾をつけていた俺の恋心というヤツは、始め、出来るだけ匂いが出ないようにコッソリひっそり育てていたのだけれど。
まったくこれっぽっちも相手に存在を気付かれない有り様に、勝手に苛々し始め、そうしたら、ちくちく相手をつつく為の蔦の伸びてしまって―気のせいや悪戯や思い過ごしで済ませられるギリギリのラインでの存在主張を始めていたりした。
相変わらず鈍い事この上ない人なのだが、最近は少し意識されているような気もする。
本当にほんの少しだが。
時折俺の視線を見返す顔が、何とも微妙な表情な時がある。我ながらわざとらしいな、と思いながら『何?』と言うと、大抵『いや・・・何でもない』と言葉を濁すばかりだが。
―真実を暴くのがあの人の天性の才だ。
暴かれたところで、開き直るだけだな、と諦観している俺は、いっそそうされたいと望んでいる気もする。
だって、頭の良い俺は、小賢しく考えるのだ。
彼女を手に入れたい。けれど、これまでの時間で築いてきた姉弟の絆も壊したくない。
姉と弟の絆よりも強い想いで引き結ばれるのでないのなら、気持ちを告げるのはリスクが大きすぎる。だったら、俺の彼女への想いを気付かれた上で、それを差し出せと言われた方がまだマシなのだ。出せと言ったのはそっちだろ、と責任転嫁を狙っているわけだ。我ながら狡すっからいな、と情けなくもあるけれど。
頭の良い姉は、更に賢しく考えて、俺の隠し事を暴くことはしないかもしれないが、それならそれで良い。
少しずつ、気のせいでなく気を惹かれるような、想い過ごしでなく想い寄せてしまうような相手に為るべく時間をかけて攻略あるのみ。
そして、その為には一緒の時間を増やすのは必須だろう。
―早く帰りたい。
そう思ったら足が駆け出すのはごく当然のことだった。
だが、その時。
俺は走りぬけようとした公園の、通り道の脇に軽く盛り上がっている芝生の上に立つ人影に気付いて、ふっと足を止めた。
強い強いオレンジ色がその人の形を浮き上がらせた。
「---」
その人は、俺の方を向いて、音を立てずに唇を動かした。
ほんの一瞬の小さな動き。
どうしてか、その人を凝視してしまっていた俺は、俺には、瞬き一つ分もない聞こえない音が見えていた。
『かいと』
―覚えている
朝日の中、白いエプロンを着けて。
俺が呼べば、振り返って微笑む。
―『おはよう』『おかえーなさい』
闇色に同化し『行ってくるわね』と囁いて枕元から消えるとき、白い長い布切れが顔を覆って。
けれども、俺はその声に笑って応えていた。
―『いってらっしゃー』『おやすみ』
「・・・か」
―思い出せる
『アナタはお父さんにそっくりねぇ』
『そうかな?君のように愛らしいよ』
『・・・そんな所が似たら、困るわ』
『君には私がいるじゃないか』
記憶の蓋が開かれる。
薄いマジックミラーで封されていた記憶の中。
透けて向こうが見えるようでいて、目の前の己を写し返すだけの、目隠しされていた過去、記憶…感情。
「かあ、さん・・・?」
―いかないで
―そばにいて
唐突に頭の中で開けられ広がり溢れてくる様々なものの中から、目の前のその人を現す単語だけ、辛うじて捻り出す。しかし、それは先ほどのその人と同じくらい音にならぬ囁き。
俺は一回だけ息を吸って、吐く。そして。
「母さん!」
俺の声に瞠目し、彼女は今度こそ声を出して俺を呼んだ。
「快斗」
「ど、して・・・」
問いかけは俺自身に向けた言葉。
どうして、こんなにも大切な人を忘れていられたのだろう。
そして
どうして、この人は、俺に逢いに来たのだろう。
「ごめんね。本当は、今、逢いに来る予定じゃなかったの。私と、あの人と二人揃って貴方の名前を呼ぶつもりだった」
「あのひと」
聞いてはいけない、と本能的な危険を感じた。
『おまじないだよ。とおさんとかあさんが、君の名前を呼んだら、それが合図だ』
『忘れてしまっても構わないさ。君にはこれから素晴しい家族が出来る。これは君を置いていく私達の我侭だからね』
だけど、もし
君の名前を呼んで、君が思い出してくれるのなら
『それはきっと、私達が何よりも君を愛していることを、君が信じていてくれるという事だ。だから、その時は―全ての真実を、君へ渡そう』
パラパラとトランプの札が舞う。ハートのエースが翻り、一瞬でクローバーの模様を浮かべる。
パタパタと白い羽が暗闇で白い円を描く。彼らの羽があの人の広げられた腕に舞い降りた瞬間、彼らは一枚の白いマントに早変わり。
生き物のように動いて喋る棒人形。お気に入りはあの人の手の中。覗き込んでも、ほら、恥ずかしがって消えてしまう。
どうして、忘れていられたのだろう。
こんなにも、鮮やかに、あの人は心の中にいる。
そして、その人に寄り添い笑っていた人は目の前に。
「母さん…!」
俺の再度の呼びかけに、彼女は目を細めて笑おうとして、…失敗した。
***
「快斗?」
顔を上げる。
心配そうな、気遣う目がすぐ近くにあった。
ああ、好きだな。
呼吸をするように、恋を覚えた瞬間から、繰り返し繰り返し思うこと。
油断したら、きっと直ぐに呼吸と一緒に漏れてしまいそうな程。
「何かあったのか?ずっと変な顔してる」
オメーの嫌いなアレは混ざってない筈なんだけどな、と。頂き物のおかずの品々を見る姉に、俺は何でもないと首を横に振った。
「んー、じゃ、ホラ。こっちの食えよ」
「いいの?やりっ」
好きだよ。
俺の中にあった秘密の箱。
上手に隠されていた記憶の箱。
けれどそれは今日空っぽになった。
全部、俺の中に戻ってきたから。
「ほんと、甘いモン好きだな」
「うん、好きだよ」
―大好きだよ
その日俺は、空っぽになった箱に、今日出来た新しい秘密と、いつか彼女に手渡せると思っていた想いを、そっとそっと仕舞いこんだ。
ひみつのかくしごと
15×24:SIDE・K