姉と弟
「どうすっかなー・・・」

彼女は自宅の前で、再び自問自答のような呟きを吐いて足を止めた。勤め先からの帰宅中、一体何度口にしたかわからない。そして、口にするごとに、彼女は小脇に抱えている鞄にぎゅっと力をこめるのだった。

―鞄の中に存在する危険物が気になって仕方ない。

「そうだ、志保に・・・」

結局自宅の門扉に手を掛けることなく、彼女は隣の家へ向かった。




「新ねぇ、どしたの?」

いつもよりも遅い帰宅をしてきた姉に食事を出しながら弟は尋ねた。
「隣に行ってた」と言って玄関を上がってからこっち、彼女は俯き加減で時折首を傾げたり溜息を吐いたりの繰り返しで、「ご飯?お風呂?」「冷製でもいけるけど、シチュー温める?お茶は緑茶でいい?」と声をかける相手にロクな返事もしない。
大きな事件がある状態とも些か違う様子。(そんな時は溜息一つ吐く時間すら惜しいとばかりに、とかく息さえ詰めて思考に没頭しているものだ)
とりわけ違うのは、時々あれこれ口や手を動かす弟を見ては、―そして見返されては、慌てて視線を逸らす、という不自然極まりない動作だった。
そして、今も。
声をかけられて、姉はぴくりと肩を震わせ、弟を見て―そしてやはり、顔を横に振って何でもないと口にした。
全く何でもないわけがない姿に、今度は弟のほうが溜息である。

「あのさぁ・・・気になるから!まず、仕事のこと、家のこと、どっち?」
「・・・仕事?」
「一応、仕事ね、わかった。ってことは変な依頼?それとも職場の何か?」
「依頼に関わる…職場のこと、かな」
「ってことは、上司がまた無理難題言ってきたってトコ?」
「・・・無理難題っつーか、よくわかんねぇ仕事つーか」
「ってことは事件の謎解きじゃなくて、調査の方か」
「いや、調べはついてる」
「んん?」
「相手の顔、住所、経歴、趣向、女の好みまでな」

そして溜息。
勘の良い弟は、最後の『女の好み』という言葉に混じる忌々しさに気付いて眉を顰めた。
調査の為の違法行為は最低限で、各人が職務能力を発揮できる仕事の割り振りをしてくれる所長の采配を姉は高く評価していたのだが、これは彼女に不適切な仕事を押し付けられでもしたものか。

「・・・潜入調査して色仕掛け?」
「近いな」

どういうこと?と首を捻る弟に、「誰にも言うなよ?」と言い置いて、姉は悩ましい仕事の内容を端的に洩らした。

「要は、クライアントからターゲットを引き剥がす、って事だ」
「・・・暴力男から逃げたいんなら、証拠とって裁判って脅しつけるか、ストーカーなら、普通にストーカー規制法にひっかければいいんじゃねぇの?」
「そういうのは一切なし。ストーカーもわかっててギリギリのラインでさ、しかも依頼人の仕事先の重鎮だから、とにかく穏便に離れて欲しいんだそうだ」

特異な性質を持つ彼女の勤め先は、世間的には所謂興信所として認知されている。だが、その実体といえば、殆どが謎に包まれていて、半年以上事務所に通う姉ですら掴みきれて居ない事が多いのだという。
(何しろ所員に現役のFBIやらCIAやらが変装して登録されていたり、所長が引退した美人女優だったり、始末屋と呼ばれるアングラな者との繋がりが透けて見えたり、かと思えば警察関係―時に公安と思しき組織からの調査委託の依頼があったり、と。それは、もう様々な仕事が舞い込んでくるらしい。)

「それってアレ?別れさせ屋?みたいなことすんのかよ」
「・・・・・・」

無言は肯定の証か。
弟は数瞬の間諸々思考し、呆れた声を上げた。

「痴漢とセクハラ犯の検挙率の高い新ねぇに、そりゃ無理じゃねぇ?」
「最終的には別に痴漢で逮捕でも構わないらしいが」
「・・・」
「流石に、犯罪者を自分の手で増やすわけにもなぁ・・・」

ストーカー退治、とは意味が少し違う。ターゲットの意識を、可能な限り自発的意思でもって執着している人物から逸らすという、いわゆる男女の縺れを処理する仕事だ。

「珍しい仕事振ってきたんだ、あの所長さん」

基本的に面白い仕事か金になる仕事を優先してるという事務所所長。姉への届け物を渡しに事務所に寄った時に垣間見た綺麗な人を思い浮かべ、弟は意外だな、と呟いた。
シャロン・ヴィンヤードという名を持つ麗人は、姉が学生の時分からその能力を高く買っていて、それはそれは姉向きな仕事を回してくれる、という話だったが。

「シャロンの旧い友人の娘に相談されたんだそうだ」
「それが何で新ねぇに」
「俺が『新入り』だから、さ。あんま面が割れてない」
「って、ことは・・・ターゲットはこっちの業界人?」
「の、お得意さま」

ほうほうと肯いた後、弟は最も気になる事を尋ねた。

「で?色仕掛けってできんの?」

「・・・・」

この無言は肯定ではなく、回答不能状態であると、弟は正しく読み取る。
ぐっと黙り込んだ後、姉はドンとダイニングテーブルを叩いた。
食後の緑茶の水面が揺れた。

「大体!別れさせ屋ってなんなんだ?!そもそも依頼人とソイツは付き合ってもねぇ」
「俺に聞かれても。所長は何て?」
「『いい?On ne na t pas femme:on le devient.貴女もそろそろ女という武器を磨きなさい』って!好きで生まれたわけじゃねぇのに、何でならなきゃいけねーんだ!」
「シモーヌ・ド・ボーヴォワールかぁ」

―人は女に生まれるのではない、女になるのだ
という訳だったか。
『人間』を相手に、『お仕事』をする職種ならばこそ、人間に付属している性も武器になるよう使いこなせという指令かな、と弟は考えた。確かに、姉の持つ武器は磨けばかなり強力なモノになるだろう。
だが。

「弱み掴んで脅す材料探すんならまだしも!」
「即行でそっち選ぶ人に、色仕掛けしろって・・・ホント無茶ぶりだな」

トラップを見抜く慧眼の持ち主が、果たしてトラップ(しかもいわゆるハニートラップ)を仕掛ける手腕を持っているかといえば、まず間違いなくこの色気皆無の姉には無いだろう、と弟は思う。それでもだ、男に不慣れな天然の武器を前に陥落しない男なんかいないだろうな、とも容易く想像がついて―腹の底でザワリと黒く淀んだモヤモヤが蠢くを感じた。
仕事とはいえ、姉の綺麗な笑顔だのをその価値も録に知りもしない人間が眼にするのか、と思うと、大変に面白くない気分になる。

「どうすんの?」
「行きつけの店はわかってる。ごく自然な出会い?を演出して、その気?にさせて、適当なところで姿を消して終了…する頃には、依頼人は大きいプロジェクトを成功させて大手を振って国外栄転してる、って予定らしい」
「それって・・・ソイツがいると栄転の阻害になるってヤツ?」
「そ。だから、仕事にかこつけた接触を減らしておかないと何を要求されるかわからない。かといって不穏な要求を逆手にとって警察沙汰だのしてるとプロジェクト自体に支障がでかねない」

うんうんと姉が唸っていると玄関の呼び鈴が鳴った。
ひとまず弟が来客に対応しようと席を立つが、そこでパっと姉の方が顔を上げて、「多分志保だから、俺が出る」と言って、玄関に向かった。
その態度に何となく、―先ほどの話もあって、妙な印象を受けた弟も後に続いた。




「これ、適当に見繕ってみたわ。今あわせてみる?」
「サンキュ。あとで、自分で着てみる」

大きな紙袋を姉に手渡す隣家に住む友人。
話から察するに洋服の類が入っているものと思われた。

「靴はここに置いておくわね」
「ああ」
「わ、ヒール高い!新ねぇ、履けんの?」
「あ、快斗」
「あら、こんばんは」
「こんばんは、志保さん」

挨拶をしながら、しげしげと玄関のタイルに置かれた靴を見てしまう弟である。15センチは踵が上げられているであろうピンヒール。

「こんなんで走ったら、転んで怪我するよ、新ねぇ」
「歩くから大丈夫だろ」
「ホントかしら」

まぁ私は頼まれたものを用意しただけよ、と言って、最後に数冊の雑誌を差し出した。

「これも返しておくわね」
「え!いや、それは参考にしてくれれば後は処分してくれって、」
「でも、職場からの借り物って言ってたじゃない。返しておくわ」

ゴソゴソと紙袋を確認していた姉が、慌てて渡された雑誌を手にしようとして―片手で別の作業をしていたせいか掴み損ねて、バサッと床に散らばった。

「!」
「っと・・・」

手が塞がっている姉に代わって、弟が拾う。

「ああああ、いいか、ら」

慌てる姉に不審を抱きながら、どうやら弟には触れさせたくないらしい雑誌を素早く手にする。
所々に付箋紙の付いたファッション誌に、飲み屋街マップのついた街情報系マガジン、それから。

「ば、それは子供が見るもんじゃねぇ!」
「・・・いや、子供って」
「貴女、慌てすぎよ」
「だって、それ」
「エロ本ぐらい、今日び中学生にゃ珍しくねーから・・・つか、なんで?」

『大解説!女のコの必勝テク☆』という見出しのついた肌色過多な女性写真が載ったエロ系雑誌。汁飛び過多なアニメ絵の娘が表紙の中綴じの薄い漫画雑誌。これまた付箋紙が付いていた。

「・・・シャロンが!少しは研究してみなさいって、」
「研究…」
「今日び中学生でも読むような本で?面白い人もいるものね。てっきり作中人物の服や下着を見繕って欲しいって事だと思ったわ」
「色気がないのは、知識不足なのかしら、って」
「知識…」
「貴女の場合・・・色気がないのは、男を意識しないこと以上に女性であることを意識していないからよ。そんなセックスのバリエーションについて詳しくなったところで、到底色気が増えるとは思わないけど」
「・・・・と、とにかく眼に毒だ。快斗」

返しなさい、と手を出す姉に、弟は何ともいえない顔で雑誌の束を渡す。
真っ赤な顔をしている姉というのはちょっと珍しい。
しかも、怒りとかではなく、ひたすら羞恥に頬を染めている。

「読むの?」
「!?」

手渡す瞬間に、そう言って首をかしげて弟は姉を見遣った。―無論わざとなのだが、あくまでも何気なく聞いてみた、とでもいう口調で。

「・・・・職場からの借り物だからな」

思いっきり眼を泳がせて、眼は通す、多分・・・と蚊の鳴くような声で返事がきた。
稀に見る態度に、弟は面白くなって更に聞いた。

「あとで、俺にも貸してよ」
「?!!ば、駄目だ!!」

にっこり笑ってオネダリしたところ、今度は大声が玄関に響いたのだった。




ダンダン!と足音荒く階段を登る友人。
彼女の衣装合わせに付き合うことにした志保は溜息を吐いた。

「そんなに怒る、いえ照れることかしら?いい年でしょう、貴女だって」
「別に…!」

慌てて、自室の扉を開ける。「中に入ってから話そう」という事だ。
あんな本を持っている、という状態が落ち着かなくて、思わず近くに弟がいないかと確認してから扉を閉めた。

「弟さんだって、えっちな本くらい持ってるんじゃない?」
「・・・え。中学生だぞ、まだ。大体買えないだろ、禁本なんか」
「年上の兄弟がいる友人や親のモノをこっそり回し読み…というパターンが多いらしいわよ」
「・・・読んでる、かなー?何か、快斗は全然、そういう感じしねーって思うんだけど」
「貴女の弟だけあって、確かにそういう雰囲気は薄いけど。健全な男の子なら興味くらいあるでしょう」
「持ってんのかなー」
「そんな本?」

バサッと床に乱暴に「そんな本」を置く彼女に友人は苦笑いだ。

「ホントは、『弟がいるなら、見せてもらいなさい』って言われた」
「・・・女の兄弟に素直にエッチ本を見せる男の子はいないと思うのだけど」
「男の大事なものの隠し場所を暴くのも女の仕事よってさ」

実に彼女の職場らしい提案だ。

「・・・探すの?それとも聞いてみる?」
「出来るか!って言ったら、それ押し付けられたんだよ・・・」
「出来ないの?」
「・・・・・・」

楽しげに聞いてくる友人に、職場でニコニコ笑って提案してきた上司の顔が重なった。

『弟がいたわよね?自分の魅力を一番身近な異性で試してみればいいじゃない!』
『彼が暴走しそうになっても、家族を盾に拒めるし、良い練習相手だと思うわ』

自身の能力を磨くことを厭う気は無い。だが、そのために他の誰かを利用しようなんて思わない。家族なら、大事な人間なら、尚更。
―それだけのことだ、と彼女は思う。

「アイツはまだガキだ」
「・・・そうかしら?」

プイと機嫌を損ねたと言わんばかりに横を向いてしまう彼女。悪戯な目で「そんな本」を貸してと言って笑っていた彼。
さて、一体ソチラの方面に関してガキなのはどっちなのかしら、と彼女と彼の隣人は密やかに笑った。




***   ***


工藤家の長女が、歩きなれない靴を履いて着慣れない煌びやで艶やかな服を纏って夜の街へ入り込んで数日後。
朝刊に目を通していた弟は、ある記事に目を留め「ありゃ」と声を上げた。

「おはよー快斗」
「はよ。新ねぇ」

折り良く起きてきた姉に、その記事を上に新聞を差し出す。

「これ、やった?初日に相手が勝手に引っ掛かってきて、次は別会社の同業者に尾行付けられて、依頼人がターゲットだって吐かせたトコまでしか聞いてないんだけど」
「そこまでのトコで、あんま堅気じゃねぇってわかったからな」
「ま、その業界と親しかったら、割とそんな感じだよね」
「叩けば埃がでるなら、掃除してやればいいじゃないか、ってこう、方向転換をだな」
「・・・所長さんは?」
「社内横領どころか機密漏洩があったから、こりゃ依頼人の利益に関わるって事でGOサインは貰ったし。重鎮なんて重石は大概嫌がられてるモンだから早かったぜ。依頼人も伸び伸び仕事してる」

悪が滅んだ清々しい朝だなぁ快斗!と笑う姉。

ほんの三回しか拝めなかった、モテメイクや露出過多な服装の出番は暫くなさそうだなぁ、と弟は思ったのだった。






家族と仕事の相関関係



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