耳元から聞こえる音。 案外真面目に掃除をしている様子に、俺はハズレた場合、洗濯前に上手くアレを取り除く段取りが必要だな、とか考えていたりした。 集音チップの感度は良好。 お陰でわざとらしい口調やらガサゴソと、椅子に乗り上げたような軋んだ音―水音もキッチリと拾える。 そして、耳元の機器越しでなく直接聴こえた何か―前後を考えるなら椅子の倒れる音。 「…何だ?」 一体何を仕掛けたのか。『ぅ』と痛がるような声が漏れていたが、椅子の倒れると同時にタンと軽い着地音が聞こえていたし、演技なのは明らかだろう。 興味と一抹の不安と多目の警戒心を持って名探偵のいる部屋へと急ぐ。 見えたのは、緩く開いた扉。 ああ、だから大きな音がキッチンまで届いたのだと納得しつつ。 その呼び寄せました、と言わんばかりの仕様。 なので手で扉を開けることはせずに、紳士返上なのは重々承知の上で、足で扉を大きく開けたのだった。 果たして予想は当たって、扉が開くのと同時に落下してくる水の入った手桶。 ―これは、アレか。 ド●フ的笑いを求められていたのだろうか。 名探偵の仕掛ける罠としては、甘いような。 いや、適当すぎるだろう。 好敵手たる怪盗として、この手抜きは怒るべきか悲しむべきか。 いっそ扉の上部に大きなタライが見えでもしたら、エンターティナーとして期待される定型行動を取らざるを得ない、と甘んじて受けていただろう。…いや、多分だけど。多分。 少なくとも喜べる事態ではない気はしたが、堂々と部屋を調べろよ、と言われてお言葉に甘えて検分してみる。―何も細工らしき跡は無かった。 彼がコッソリと持っていった使えそうな小道具も、アッサリと返却された。 ―そういや、今日は… 朝起きて、「コーヒーいるか?」と聞いたら「あー・・ん」と簡単に肯いていた。 昨夜なにがしかの作業でもして―真っ暗な中で手探りででも―寝惚けているのか、と疑惑を抱きつつもそんな事は悟られないように、一応聞いてみたのだ。 「何かあるか?」 「あー?和食かな」 いや、朝メシについてでは無い。 しかし、一つ欠伸をした後の名探偵はハッキリとした顔で、「メシ、今から炊くのか?」と聞いてきたのだ。 「…一応、夕べ仕掛けて置いたから炊けてるけど」 「だったら、和食でいいだろ」 「んー、わかった」 探偵である彼が、相手から情報を引き出す機会をみすみす逃すとは思えなかった。 決められた数に関係なく、俺の口から引き出す言葉から真実を自身で吟味すると決めたのか。 名探偵の口にする『監禁』を否定した事は無く、実際俺の役割はおおよそその通りであったから、怪盗との日常を受け入れた振りをして、隙を見てこの檻から出て行く算段を付けでもしたのか。 それとも―まさか情報源として不適当だと思われでもしたか。 どれも、有り得たる事態。(いや一番最後のは無いだろうと思うが) しかし、彼の口から出た言葉といえば、そのどれでもなかった。 必要なら俺を引きずって勝手に出て行くなどと言う名探偵からの宣言は、俺にとって予測の範囲外にあり、それでいて、まさに彼らしい言葉だったのだ。 故に、俺は俺の役割を一部修正変更することにする。 警戒されていることに警戒して―隙を窺いあいながら、そのクセ表面ではただダラダラと時間が過ぎていくなんてのは楽しいことではない。 時が来るまで彼を此処に閉じ込めておく役割はそのままに、彼に手を貸すことを決めた。 ** ** ** 「(私は誰でしょう?)」 張った煙幕がゆっくりと晴れて、俺の眼前には先程と同じく眉を顰めた名探偵。 さて。名探偵の眼前に現れた俺を、彼は何と呼ぶだろう。 「…キッド?」 ―残念だ この姿の俺は彼の琴線に触れないらしかった。 そこで、もう一つ パチン と指を弾いて、姿を変えてみる。 「じゃ、…僕のことはわかるかなぁ?コナンくん」 「…土井塔克樹」 「ピンポーン」 いつかの雪の中に建つ山荘で出会った医大生は正確に名探偵に記憶されていたようだ。 久しぶりだね〜などと嘯いて笑いかければ、名探偵は顔を歪めた。 しくじった、という表情だろうか。 眉を顰めて、口元が硬く引き結ばれている。 最初の問いかけを外した事を察したのだろう。 「ま、大丈夫だよ、コナンくん。別に今すぐ『さっきの答え』が必要なわけじゃない。解ったら、そう呼びかけてよ。そうしたら―」 「俺をココから出すってか?」 「いいや?さっきコナンくんが言ったじゃないか。出るも出ないも自分次第なんだって。僕の姿は、多分その手がかりになると思うよ」 「俺は、…怪盗キッドの正体を知っていた?」 「いいや?それはどうかな…。僕が知っているのは『工藤新一』が、あの姿の僕の所に訪ねて来たって事だけだよ。もっとも、その時僕は留守にしていて、後でそう聞いただけなんだけどね」 一体何の用事だったんだろうね?と、俺は『土井塔』のまま−彼の特性は医師を志すに相応しい他者への優しさと労わりの精神だ−にこりと笑った。 探偵は、片手を口元に当て深く深く、何かを考えているようだった。 |