「何かあったか?」 薄く開いた扉の向こうから窺う声。 答えずにジッと見ていると、「オイ?」ドアノブは動かないままで、ドンッと大きく開く扉。 傾く水の入った手桶。 「……」 「……」 ばしゃん … カラン…・・ 生憎水浸しになったのは、先程綺麗にしたばかりの床だった。 転がる手桶を見て、それから互いに顔を見合わせ無言、数秒。 「足で開けるなよ、行儀悪いな怪盗紳士」 「いやもう、ホラ?罠臭かったし?」 上げていた足を下ろして、やや決まり悪げに俺を見た。 さっきまで確りと締めていた扉が、わざとらしく開いていて。 その扉の向こうで大きな物音。 居るのは天敵の探偵一人とくれば。 ―・・・確かに、そうか? ―いや 「箒のはダミー…コレか?」 先程台所を通りがかった時も、今も、さっと奴の眼がコチラを見ていた。 顔ではなく、もう少し下。 いつもと違うものと言えば、今朝方怪盗から受け取ったエプロンか。 「…何が」 「盗聴器」 「さぁ?」 飄々としたいつもの調子―を、装っているように見えた。 まぁいいか、と俺はソレを外す。紐を解いていったんベッドの上に投げ置いた。 「気になることがあれば、勝手に入ればいいんじゃねぇ?お得意の睡眠薬でもガスでもあんだろ?」 「いや、それやると名探偵怒るじゃん」 「は?怒るってオメー…いや…」 つくづく怪盗なんて奴の善悪判断、というか常識いや良識は世間一般のソレとは違うようだ。バレなければ良い、という事なのかもしれない。 「ホラよ、何か変ってるか」 面倒になって俺は勝手に見ろと顎をしゃくった。 怪盗は溜息を一つ吐いて―吐きたいのはコッチだ!―壁や天井をグルリと見回しながら、窓辺につかつかと歩いていく。 「…傷もなし、か」 「一点に力を加えたら、皹が走っても割れないタイプの強化ガラスぽいよな」 「ネジも?」 「ネジ穴隠してるヘッドを外して全体を取り外すのは面倒そうだったし。ドライバーもどきを作るってのもなぁ」 「面倒って…」 「だから返す」 呆れたような声に、俺は奴に向かって幾つかの小さな金具を放る。 パラパラと落下するのを、白い手袋が難なく受け止めた。 「知ってたんだろ」 「まぁ。道具の手入れと数の確認は基本だな」 「そーかよ」 「脱出用には使わなくても、部屋にトラップの一つくらい仕掛けるのかなーと思ってたぜ。もしくは飛び出す必殺兵器とか?」 「ああ」 その手もあったなーと、ワザとらしく丸めた手をもう片方の手で受け止めるようにポンと叩いた。 「レトロな怪盗には陳腐な仕掛けがお似合いかと思ったんだよな」 「バケツじゃなくて、金ダライだったらなぁ…」 だったら、敢えて引っ掛かったとでも言うのだろうか。 残念がるような口調に不審な眼差しを投げれば、奴は肩を竦めた。 「ま、何っつうか。名探偵なら、監禁なり軟禁なり動きを封じられたら隙を見つけて全力抵抗かと」 「するつもりなら、三日ものんびりメシ作りなんかしてるかよ」 怪盗は手の中で遊ばせていた釘を握って―消してしまうと、俺を見て笑った。 「俺に聞きたい事はあるか、名探偵?」 「―ないな」 「……」 「俺が出すべき答えは俺の中にしかない、んだろうからな」 「ほぅ」 「ココから出て、おっちゃんの探偵事務所に―元の生活に戻るだけなら、オメーがいて、俺がココに居る理由がない」 「そうか」 「ああ。出たくなったら俺は出て行く。…出るのに必要だってんならオメーを連れてな」 怪盗はスッと笑みを深くする。 ―それだけで夜の気配がするのだから、『月下の』なんて冠言葉は実に正鵠を射た表現だった。 「じゃあ、名探偵。今度は俺が聞くぜ」 「…オメーが?」 「ああ。正確に、答えろよ。当てられたら、俺はお前に付いてやるよ」 「付くって…」 「荒治療はヤメロって言われてんだけど。どーも、俺の見る限り、オメーにンな気遣いは不要だと思えて仕方ねーんだよ」 ―言われている ―気遣い? ―…治療… 惑わす言葉か。 しかし、笑いは本物のようだ。 「怪盗が探偵に気遣いとか、寒気がするだろーが」 「同感だ」 しみじみと肯いて。 それから、奴は口を開いた。 「 Who am I ? 」 言葉と同時に、軽い爆発音−煙幕が怪盗の周囲に降りた。 |