机上の交換ノート(HQ/菅原) | ナノ



机上の交換ノート



その文字が目に飛び込んだのは、木曜3限、先生の授業の暴走っぷりに閉口し、視線を落とした時だった。
実験があってもなくても必ず理科室で行われる生物の授業。机が黒いため、シャーペンで書かれた線は反射してよく見えた。

『自分を破壊する一歩手前の負荷が』

もしこれを他の誰かが見たら、首を傾げて消してしまうかもしれない。だけど私は、それだけの文字に心を捕らえられた。

ニーチェ。ニーチェの言葉だ。

気が付くと手は自然に動いていた。まるで誰かに埋めてもらうのを期待しているかのような空白のスペースがそこにある。筆箱とノートを上手く配置し、熱烈に他事を語る先生の目を盗み、そこに続きとなる文を連ねた。

『自分を強くしてくれる。』

走り書きして、それから消して、もう一度丁寧な字で書いた。先生に見られないよう、教科書を重ねて隠す。
この、私の小さな出来心。それが、私達のきっかけという名の白い紙に書かれた一行目だった。






正確に言えば、返事は来なかった。

その代わり、次の生物の授業。月曜の5限。理科室のいつもの席に座り、早速机の角を見てみると、私の文字の下に、そっとまたニーチェの別の文が書かれていた。前半だけで、後半部分のスペースは残してくれている。

名も姿も知らぬ誰かとの繋がりを感じて、すごく嬉しくなった。あなたは誰?何年生?私はね、月曜と木曜に授業があるの、あなたは?そんな風に言葉を交わしてみたかったけれど、迷った挙句、後半の文だけを書いて終えた。先生は今日は普通に授業をしていたけど、黒板と向き合っている時を狙った。

返事が来たのはその次の授業、つまり木曜の3限だった。私の文字の下、

『よく知ってるね』

控え目に、それだけ書かれてあった。その文字を見た瞬間、相手も同じことを考えていたのだと気付く。思わず頬が緩んだ。

退屈なだけだった生物の授業。無駄に思えた移動教室。月曜5限と木曜3限が、とても愛おしく思えた。
早く、月曜にならないかな。
返事がスローペースなのが凄くもどかしくて、その分期待は高まって、形容しがたい高揚を感じながら、私は毎日を過ごすようになった。





しばらく言葉の交わし合いが続いた。

時間をかけて少しずつお互いを教えあう。相手は先輩だった。バレー部の副主将、と言っていたが、今だに見たことは無い。部活は早く始まって遅く終わるらしいし、私の予定もある。
でも、それとなく友達に聞いてみたところ、菅原先輩は割と有名らしい。一部のファンの中では天使、と呼ばれているとかいないとか。

菅原先輩かぁ。すれ違ったことはあるのだろうか。バレー部…うーん、バレー部に友達はいないし。
と、ふと同じクラスの男子バレー部員の存在を思い出した。拾う専門のポジションの人。よく知らないけど、とても有名らしい。
2、3回ほど話したことはあるが、まぁクラスメイトを無視したりはしないだろう、と意を決して声をかけてみた。

「あの、西谷君」
「ん?なんだ?」
「女子バレー部の副主将って、どういう人か知ってる?」
「女子バレー?さあ…大地さんは女子バレーの主将となら仲良いけど」
「大地さん?」
「俺らのキャプテン」
「あー…。先輩?だよね?」
「おう」

先輩なら声はかけられない。んんっと唸って、お礼を言ってその場を去った。菅原先輩。バレー部。きっと可愛くて勉強家な人なんだろうなぁ。文字がそんなイメージを起こさせる。別段上手いと言う訳ではないけど、丁寧で優しく書かれているのが凄く伝わってくる。

「今日時間割変更だって」
「え?ほんと?いつ?」
「あ、違った、3年だけだ」
「じゃあ関係ないかー」
「行こー」

そんな会話を耳にして、ふと気付く。先輩がいつもどのタイミングで書いているのか知らないけれど、それなら今日は返事が無いかもしれない。てことは木曜までお預けか。気分が沈んでいくのを自覚しながら用具を整え、期待せず友達と理科室へ向かう。

喋りながらだらだらと歩いていると、理科室の方から声が聞こえてきた。昼放課だというのに誰かいるなんて、珍しい。声の主は男の子2人で、察するに先輩のようだった。

「おーいスガ、急がないと予鈴鳴るぞ」
「ごめん、もうちょっと待って!あと少し!」
「いや、別にいいけど…。そんな必死になることなのか?明日も授業あるだろ」
「うん…でもいつも火曜1限なのに返事があるってことは、5、6限だと思うから」
「ふーん?執着してんなぁ」
「別にそういう訳じゃ…よし、終わったべ!ありがと大地!」
「おー、じゃ行くぞ!ダッシュな!」
「え!?」

ドタドタという音と共に一人、ガタイのいい先輩が表れて私達の横をすり抜けて行く。会話はあまり聞き取れなかったけれど、なんだか楽しそうだった。

「待てって!」

そしてもう一人も間も無く出て来た。前髪を分けてて、優しそうな先輩。私達とすれ違おうとしたその瞬間、

「っとわっ、ごめん!」

足が縺れて私とぶつかってしまった。びっくりして声もない私に、困ったような笑みを一つ残して、その先輩は 大地と呼ぶもう一人の先輩の背を追いかけて行った。
そこでようやく、大地という名前に聞き覚えを感じる。

「あ、今の人だよ?」

二人の影が完全に無くなった頃、友達が思い出したように私に言った。
前に私がバレー部の副主将について聞いた子だ。

「今のおっきい先輩が、バレー部の主将。で、ぶつかった先輩が菅原先輩」
「え?」

菅原先輩?目を瞬かせ、聞き返す。
友達は事も無げに頷いた。

「バレー部の菅原先輩だよ?」

……てっきり、女の人かと思ってた。
そういえば聞いた時、男とも女とも言っていなかった。大地さんって、バレー部主将か。西谷君が言ってた人だ。

「…そっか、男の人だったんだ」

それからふと思いつく。
菅原先輩があの人なら。
わざわざ理科室に来た意味といえば、一つしかない気がする。…なんてのは、私の自意識過剰かもしれないけど。
でも、高鳴った鼓動は抑えられない。

自分のいつもの席に着き、そっとその表面を覗く。反射した文字は心なしか慌てているようで、少しこすると指にシャープペンシルの粉が付いた。
そこには前回の私の言葉の返事と、

『どこかですれ違えたらいいね!』

そんな一文が添えてあり、私は思わず笑みをこぼす。
もうすれ違いましたよ、なんて書いたら、あの人はどんな反応をするのかな。えぇっ、と声を上げて先生に注意されている図を、勝手に想像してしまう。

ほんの出来心で連ねた文字。ただそれだけのことが、すれ違うだけの私達を繋げる架け橋となった。
それが凄く、嬉しくて。

『菅原先輩へ』

初めてきちんと宛名を書いて、菅原先輩への言葉を紡ぐ。
ただそれだけのことが、これからの私達をもっと繋いでいってくれますようにと、願いを込めて。






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