「ああ、だから、お前のそういうところが俺は」



「あ、起きた?」


浅い眠りからふと目が覚めて、最初に視界に映ったのは、僕の枕元で胡座をかいているおそ松兄さんだった。


「あれ…、今何時?」

「もう昼過ぎだよー、だいぶ寝てたねえ」


間延びしたこいつの声を聞いている内に、僕がおかれている現状を思い出して、僕は思わず頭を抱えた。


よくよく振り替えってみると、ここ最近はまともな生活をしていなかった。長い就活の甲斐があってか、僕がある企業の内定をもらったのが、三ヶ月前のことである。いつも求人冊子を眺めているだけと兄弟に馬鹿にされ続けたことも手伝って、ついに社会人になれたことにひどく喜んでいたのも束の間だった。労働の経験が一般的に見て乏しい僕にも、入社して一ヶ月もしない内に分かってしまった。

この会社は、とんでもないブラック企業であると。

残業代が出ないなんて当たり前。新人は仕事を覚えさえすれば、いいようにこきつかわれて、終電を逃すことも多々あった。それでも九時までの出社を義務付けられており、朝から夜中まで働かされた。労働基準法が聞いて呆れる。ケツ毛燃えるわカスが。僕がいた短期間の中でも、大量の人が雇われて、大量の人が捨てられていった。いつぞやの工場を思い出さなくもなかった。こんなところにいたら、いつかおかしくなってしまうと、あの時のように心のどこかで気づいていたけれど、それでも、どうしても辞表を出せなかったのは、ようやく手に入れられた小さな社会的地位を逃したくなかったからだった。それに。だんだんと壊れていく僕を、他の兄弟は心配してくれたのに、何の関心も示さなかったクソ長男に対するそれこそ小さな、下らない反感もあったのかもしれない。ともかく、僕は働き続けた。ここには僕しかいない。あの時、最後の最後であの工場から逃げ出せたのは、肝心なときにだけ長男面できるあいつがいたからだ。今回、そのことに気づかされて、勝手に癪に触って、また頑なになった僕は、兄弟の忠告を聞かなかった。

結果として僕は、三ヶ月間、そこで文字通り身を削るようにして働き、体を壊した。一昨日、度重なった寝不足と過労により、勤務中に意識を失ったらしい。目が覚めたのは、運ばれた病院のベットの上だった。あんな生活を続けておきながら、風邪を引く程度で済んだことについては、丈夫な体に感謝するしかない。きちんと療養すれば大したことにはならないと医師から言われた僕は、昨日、処方された風邪薬を持って自宅に戻ってきた。そして、昨日の夜、皆と同じ時刻に布団に入れることに安堵しながら眠り、たった今、目覚めたところなのだ。



「どう?少しは楽になった?」


おそ松兄さんが僕にそう尋ねた。久しぶりに顔を見た気さえする。思わず嬉しく思ってしまったことがまた癪に触って、突っぱねるような言い方しかできない僕は、何て子どもなんだろう。


「もう、大丈夫。どっか行っていいから」


下から見上げるように見ていたあいつの顔が不機嫌に歪んだのが、容易に見てとれた。


「何が大丈夫なんだよ」


久しぶりに聞いたそのいつもより低い声は、おそ松兄さんが本気で怒ったときに出るもので、本能的に“あ、やばい”と思った。おそ松兄さんはゆっくりと立ち上がると、横たわる僕に馬乗りになった。唖然とする僕の胸ぐらを荒く引っ張り上げて、僕の上体を軽く起こさせる。僕のパジャマを掴む拳が震えているのが伝わった。


「おい、チョロ松!お前さ、ばかじゃねえの!?こんな熱い体で何がどう大丈夫なわけ!?言っとくけどお前、まだ三十八度あるから!!後さ!!黙って見てりゃ、こんなんなるまで働きづめで!!挙げ句の果てに、何ボロ雑巾みたいになるまで我慢してんだよ!!ほんっとにばっかじゃねえ!?ばかだろ!!?そんなお前のことずっと心配してた俺のことも!!何で少しぐらい考えられねえの!?」


がくんがくんと乱雑に首を揺らされながら、目の前の兄が怒鳴りながら泣きじゃくっていくのを、僕はやるせない後悔の中で黙って見ていた。ああ、この人は。僕の前では、いや、僕のことになると、兄貴ではなくなるらしかった。下らないことに固執して、大切な人にここまで心配をかけてしまったことを本気で悔やんだ。何て返せばいいのか、分からなかった。


「ごめん、おそ松兄さん。ほんと、ごめん…僕、何も、何も分かってなくて、兄さん…ごめん…」


絞り出した自分の声は、思った以上に涙声で震えていて、何だか情けなかった。ああ、僕は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。おそ松兄さんは。おそ松は。ずっと、待っててくれたのに。

おそ松兄さんが、僕の胸ぐらを掴む手を離した。ぱふん、と、僕の全身が布団に沈んだ。


「に、兄さ……」


おそ松が、覆い被さるように僕を抱き締めた。


「お前のことだから、俺が言ったって聞かねえと思ったの」

「うん」

「自分で気がつかないと納得しないじゃん、チョロ松」

「そうだね」

「心配しないと思う?普通さあ」

「ごめん」


二十歳を越えたいい大人の男二人が、子どものように泣きながら、布団の上で抱き合っている光景は、控えめに言っても見苦しいものだと客観的に思う。それでも、口では罵るように叱りながらも、僕の体を上から包み込むように優しく抱き締める彼の手を、やっぱりたまらなくいとおしく感じて、僕もこいつの背中に腕を回すのを抑えられなかった。


「ねえ、チョロ松」

「…何」

「やっぱ拗ねてただろ?俺に構ってもらえなくて」


あからさまに黙秘を決め込んだ僕に、笑い声が聞こえる。


「長男様にはお見通しだからなあー」


それすら見抜けてた上で、無関心を演じてたなら、もはやそれは同罪ではないかと思わなくもないが、文句は言わないことにする。そうだとしても余るほど、こいつは僕のことを考えてくれていたらしかった。


「違うよ」


僕は言った。


「拗ねてた部分も、確かにあったけれど。でも、少し、僕はお前に頼りすぎてたところがあったから。僕だけでも、ちゃんとできるってどこかで…意地を張っていたんだと思う…」


“まあ、結局、無理だったんだけどね”と、最後に小さく付け足すと、返ってきたのはやはり、明るい笑い声だった。


「いやあ、チョロ松、お前ほんとばかだねえー」

「今回のことは僕の非が大きいからこれ以上は何も言わないけど、さっきから馬鹿に馬鹿って言われんの不服だからな!」


僕のそんな返しに、“お、いつもの調子戻ってきたじゃん”なんて茶化しながら、おそ松は続けた。


「別によくね?俺だってお前なしじゃ嫌だし。チョロ松のことだから、俺たちがこんな関係になった上にニートとか救いようがないとか思って焦ったんだろうけど、関係ねえじゃん。それはそれ、これはこれだよ」


突然、彼が切なそうな表情を見せた。


「…おそ松兄さん?」



「だからさ、ずっと俺と一緒にいてよ」


耳元で優しく囁かれた。その甘さに頭が真っ白になる。



ああ、だから、お前のそういうところが俺は。


どうしようもないくらい好きなんだよ。



自分の頬が風邪の熱とは違う熱でじんわりと熱くなるのを感じながら、僕はそう思った。だめだよ。そんな風に僕を留めようとしないでよ。この風邪が治ったら、あのクソみたいな会社に辞表を叩きつけて、今度こそ社会保障完備のいい会社を探しに、またハロワに通わなきゃいけないんだから。そりゃあ僕だってお前とずっとこうやって一緒にいたいけど、それは。それはあまりにも。望みすぎている話だから。なんて、頭の中でつらつらと言葉を並べたのに、口からは一文字も出てこなかった。

おそ松兄さんは耳元から口を離すと、両手で僕の顔を挟んだ。いとおしそうに微笑まれる。おそ松兄さんはずるい。本当にずるい。こんな風にこいつにほだされていたら、僕はだめになってしまう。こいつから本当に離れられなくなってしまう。だけど、こいつは底無しに僕を受け入れてくれることは分かりきっているから、それでもいいと思い始めているらしい自分には、気がつかないふりをした。


あーもう、好きだ。お前が好きだよ、おそ松。



でも、こいつの思い通りになるばかりなのは何だか気にくわないから、僕がおそ松兄さんの胸ぐらを強く引いてキスをしたのは、それに対する些細な抵抗だ。目を瞑る瞬間に見えたこいつの驚いた顔に内心ほくそ笑んで、身に余る熱を送り込むように舌を絡めてやった。




「わかったよ。ずっと一緒にいるよ、お前と」




[ 3/4 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]