「かわいそうな人」


「……じゃあ」

「うん」


いくら男の人が女の人と比較的に荷物が少ないとはいっても、実家から自立するために旅立つには明らかに荷物が少なすぎる、というか無さすぎる兄を見て、私は少しだけ苦笑した。そのことを指摘すれば、“別に…持っていくもんないし。これから増えるでしょ”と、面倒臭そうに答えられた。


「●●」

「ん?」

「おそ松兄さんのこと、よろしく」


いつも気だるげに開かれている目が、突然、真剣さを帯びて私を映した。この兄の前に家を出た他の四人の兄も、同じ事を私に残していった。これで五回目だ。

わかっているくせに。

私じゃあ、どうしようもできないことも、

兄さん達しか、どうにかできないことも。


それなのに、同じ事を分かっていながら同じ事を言う同じ顔は、決まって同じ目をしていた。だから、私も同じ事を返すしかなかった。



「わかった、大丈夫だよ」

「…ん。じゃあ、行くから」

「いってらっしゃい、一松兄さん」


肩越しに一瞬だけこちらを見た彼は、優しく目を細めて出ていった。戸が閉じる音が響いた後に、一松兄さんのサンダルが残っていたことに気がついて、思わず目頭が熱くなった。馬鹿みたいだ。私も、兄さん達も。今までが異常だったのだ。今やっと、正常になっただけのことだ。そうして感情を理論で丸め込んで、寂しいという気持ちにをしながら、私は、声ひとつ、物音ひとつしない居間に戻った。兄がいるはずの二階からも、何の音も聞こえてこなかった。

夕飯ができたから兄を居間に呼んでくるように母に告げられたのは、まだ夕日が明るい午後6時過ぎのことだった。居間の食卓に並ぶ煮物や焼き魚を見て、昼前に出ていった一松兄さんのことが自然に思い起こされた。ちゃんとご飯、食べているのかな。おそ松兄さんじゃないけれど、私も正直、兄の中では一松兄さんが一番心配だ。路地裏のどこかで野垂れ死んでなきゃいいけれど。そんなことを思いながら、二階の部屋の襖を開ける。私の目に映ったのは、窓の桟に頬杖をついて、ぼんやりと外を眺めるおそ松兄さんだった。


「おそ松兄さん、ご飯だって」


そう、声をかけるも、彼は何の反応も示さなかった。ここ最近、彼はずっとこうだ。


「ねえ、聞いてるの?」


ずんずんと足音を立てながら近づき、背後から兄の顔を覗き込んで、私は思わず口を告ぐんだ。炎が揺れるような夕焼けを映した彼の目が、静かに濡れていたのだ。


「ん、ごめんな」


驚きで立ち退けないでいた私に、兄は笑ってそう言った。ここ最近は見ていなかったこの兄特有の笑顔があまりに自然だったから、先程の彼の目に見たものは、夕日の錯覚だったのではないかとさえ思った。気にしなくていいのに。そう思った。この人は、かわいそうなくらい、兄だった。元は六人の内の一人だったのに、今となっては、自分より下の者の前では泣けないほどに兄になってしまった。


「あ、そだ。●●、見てて」


窓に背を向けてこちらを向いた彼は、パーカーのポケットから徐に煙草とライターを取り出した。


「え、ちょっと!これからご飯だって!」


そう呼び止めても、“いいじゃん”と軽く流され、兄はいつものように煙草に火をつけた。ゆっくりと彼の肺を膨らませた煙は、彼の口から静かに吐き出され、周りにゆくらゆくらと漂った。何をするつもりなのかは分からないが、もう抵抗するのは無駄であると長年の経験から察した私は、兄の目の前に座った。


「んで?何?」

「まあ、見ててよ」


そう言うと、彼は薄い笑みを浮かべて両の掌を広げた。くわえた煙草を左手で口から離すと、彼は煙草を隠すように右手を翳した。無駄のない素早い手さばきで右手を移動していく。しかし。


「あれっ!?え、煙草は!?」

「すっげえだろ〜」


現れるはずの煙草は跡形もなく消えて、左手で右手を包むように握って口元に近づけた。


「ん!」


顔の前で両手を広げる。一瞬で口にくわえられた煙草から煙が天井に小さく伸びていた。


「え、すごいね…」


私の率直な感想に、“へっへ〜”なんて、人差し指で鼻の下を擦るいつもの癖をしながら自慢気に笑う兄を、私は呆然と眺める。子どもの頃から変わらないその表情は、いつも六人の真ん中にあったもので、それが今は、私だけに向けられていることが妙にむなしく感じられた。笑い顔の彼に反して私が神妙な表情をしていたからだろう。兄は“どうした〜?”と間の抜けた声で私の顔を覗き込みながら、煙草の火を消した。


「どうもしないよ。ほら、もう終わったんなら早く下行こう」


兄の目を見ないようにして私は立ち上がる。この人は、何でも読み取ってしまうから。兄弟のことなら何でも感じ取ってしまうから。


「●●」


襖に向かって踏み出した足が止まる。兄が私の手を後ろから掴んだからだった。掴んだ?いや、そんな確かなものじゃなかった。私の右手の中指と薬指を力なく握っていたのだ。私の名前を呼ぶ声が、先程の雰囲気とはうって変わっていたから、私は何も言えずに、ただ彼の次の言葉を静かに待つことしかできなかった。


「お前は大きくならないで」


小さく、小さく放たれたその、その大きすぎる願いに、私は胸を裂かれたような痛みと息苦しさを覚えた。ああ、この人は、この人は、兄弟の中でしか生きることができないのだ。世の中は変わっていくものなのに、皮肉なことに変化することのみが不変なのに、そんな中で当たり前のように変わらなかったこの人は、きっとこの変化の中では息ができないのだ。死んでしまうのだ。かわいそうに。ああ、なんて、かわいそうな人なんだろう。

彼が望むのは、私ではない。そんなことに気づかないほど、私は伊達にこの兄の妹をやっているわけではない。血が繋がっている母や父、妹では彼の穴を塞ぐことはできない。おそ松兄さんが望むのは、同じ血が流れている彼らだ。血が繋がっているとか、そんな次元ではないのだ。同じ血。同じ身体。同じ顔。かつて、一人として産まれるはずだった運命を、六つに割って産まれてきた、彼の半身。彼自身だ。

私がここに残り続けることで、彼を慰めることができるのならば、喜んで私はこの兄と共にこの狭すぎる世界で生きよう。しかし、六人で生きていた彼にとって、この世界は私と二人では残酷までに広すぎる。そして彼は、私という存在を通して、いつまでも昔の変化を意識せざるを得なくて、弟に溺れて死んでいく。そんな不幸なシナリオなら、私はこの兄を見捨てた方がよいのではないか。全てを失った兄から、さらに私が私を奪ってしまえば、彼は一人で生きられるように変化できるかもしれない。別の世界へ踏み出せるかもしれない。果たしてそれは、幸せなシナリオなのか。今までおそ松をおそ松と足らしめてきた彼らを捨てて、新しく構築し直すことが彼にとって幸せなのか。そもそも、彼は変わることができるのか。

分からなかった。どうすれば、このかわいそうな人を助けることができるのか、どうすれば、この兄が以前のように笑うことができるのか。私は笑ってほしかった。妹に涙を隠すための笑顔ではなくて、心の底から安心しきったように、子どもの頃から変わらない笑顔。五人と共にあった、あの笑顔だ。

ああ、ごめんなさい。ごめんなさい、おそ松兄さん。このままおそ松兄さんを抱き締めて離さないであげる残酷さも、繋いだ手を振り払って一人にしてあげる優しさも、私はどちらも持っていない。あなたが本当に望んでいることが分かるから、どちらもしてあげることができないの。


「ご飯、食べよう。母さんが待ってる」


私が振り向くこともできずにそう言うと、彼は“そうだな〜、そろそろ行くか”と、何事もなかったように立ち上がった。浅く弱く繋がっていた手は離れ、彼は私を残して先に階段を下りていった。その赤い背中を見送って、残された私は自分の視界が潤んでいることに気がついた。


ああ、兄さん。おそ松兄さん。あなたはなんてかわいそうで、なんていとおしい人。

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