「未来逃避」


「もう逃げたいなあ」

「逃げちゃいなよ」


気がつかない間に、重い心の内が口からぽろっと出てしまったらしい。寝転がって漫画を読んでいるおそ松が、私の独り言にそう返事をした。


「簡単に言わないでよ」

「でも逃げたいんでしょ?じゃあいいじゃん。逃げちゃいなって」


おそ松の言葉は軽い。現実問題、地球がひっくり返ったってできそうもないことを、まるで簡単なことのように言ってのける。軽い。そして正しい。


「無理だよ、逃げたくても逃げれないの。それが大人。社会人ってものなの」


社会人という言葉を少し強調して、含みを持たせずにはいられなかった。二十歳を越えた大人として、向き合わなくてはならないものから一番逃げているだろうニートに、一体何が分かるというのだ。私のそんな八つ当たりを、“ふーん、大変だね”とそれこそ軽く流したおそ松は、にやりと笑って私を見た。


「でもさ。●●、そうやって自分のこと縛るの好きだよね」


まっすぐに私を見据えるおそ松の目を、反らさないように私もまっすぐ見つめ返した。

なるほど。彼は十分すぎるほどに私を熟知しているらしい。


例を挙げればたくさんある。例えば、肩書きや世間体。常識や道徳。そういうものに縛られていなければ、私は私ではいられなくなってしまう気がする。そうやって、自分で自分の首を締めていくようにしなければ、私は全うに生きていくことすらできないのだ。


「別に好きじゃないし。そうしなきゃならないからやってるの」


そうしなければならない

こうでなければならない


思うままに息を吸ったらどうなるのだろう。何にも縛られず、何にも妨げられず、管を通った空気で肺をいっぱいにする。そうしたら、私は何を失ってしまうのだろうか。それでも私は、私として生きていけるのだろうか。分からなくて、変わりたくなくて、私はまた、自分の首に自分の手をかける。




「●●。おいで 」


読みかけの漫画を閉じて、おそ松が私の前で胡座をかいた。両腕を広げられる。


「無理すんなよ」


にかりと笑った彼の赤い胸が目の前に広がった。自分の手を離して私があなたの胸に飛び込んだら、私はきっとだめになってしまう。私が私でなくなってしまう。怖い。怖いよ、おそ松。


「いらない。おそ松の助けなんて、いらないよ」


可愛げもなく、彼からテレビに目線を移して言った。


「まあた、素直じゃないねえお前は」


おそ松は呆れたようにため息をつきながらそう言うと、広げた腕を縮めた。



ねえ、おそ松。

私が自分の手で自分の首を締めて、殺しながら生きていった先に、ついに息ができなくなって、今までみたいな強がりも言えなくなったら、そしたら、ねえ。



そしたら、助けて。






「当たり前だろ」


ちゃぶ台に頬杖をつきながら、おそ松が笑った。

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