「い ろ い ろ」


油絵をやった日は服が油臭くなるから好きではない。だが、黒板に書かれた呪文のような白い文字を追うよりは、自由に絵筆を動かせるからゆるい美術の授業も嫌いじゃない。

鼻につく独特な匂いの中で、紙パレットに色をいろいろ出していく。混ぜれば混ぜるほど違う顔を見せる絵の具に、私は一人、うなっていた。


「なぁに、一人でうなってんだ」

「あ、三郎」


後ろから声をかけてきたのはクラスメイトの鉢屋三郎だ。こいつとは幼稚園からの付き合いで、その腐れ縁は高校になった今でも健在である。おい、肩に寄りかかるな、重い。


「どうしてもすぐ色が変わっちゃう」


筆を置きながら、私は言った。


「どれ、貸してみ」


彼に紙パレットを渡す。


「どこの色、作りたいんだ?」

「えっ、あ、ここの青と緑っぽいところの色と……」


私が自分のまだ途中のキャンバスを指差しながら注文すると、彼は慣れた手つきで絵の具と油を混ぜ始めた。黙って見ていると、私が初めに気紛れで作り出した、青のような緑のような微妙な色合いが再びパレットの上に現れた。


「え、すごい!この色が欲しかったの!」

「まあな」

「さすが美術部っすね!」

「当たり前」


その後も、私が出したかった色を作り出してもらった。その間、やれそこの絵の具を取れだの、やれ油が足りないからもらってこいだの、散々こきつかわれたが、手伝ってもらっているため文句は言わない。今度、何かで返してやる。


「次は?」

「ここの朱色っぽいところの色、お願い」

「了解」


見ただけで何色をどのくらい混ぜ、どれぐらいの油が必要かだいたい分かるらしく、彼は簡単にいろいろな色をパレットに残していった。そのため、今、そのパレットはまるでいろいろな色の花が咲いたかのように、鮮やかに染まっている。そんなパレットを片手に、彼はその色をキャンパスに乗せていった。

「三郎」

「ん?」


呼んでも、彼の目はキャンバスにあった。


「三郎、こっち見て」

「は?」


鉢屋は私を見た。彼の目の中に、不安げな私が映った。


「どうした?」

「分からない、怖くなった」

「何が」


ころころと、いろいろな色を作り出す鉢屋三郎を見ていて、なぜか怖くなった。まるで、鉢屋三郎が彼以外の人物にころころと変わっていくような、不思議な感覚を覚えた。それが怖かった。彼がいろいろなものに変わっていくのが、知らない彼がいるようで怖かった。


「三郎は三郎だよね?」

「●●は、私が私以外、何だっていうの」

「分からないけど、今、何か、三郎が三郎じゃなくなってく感じがした。いろいろな人に変わってく、みたいな」


不思議そうに、怪訝そうに彼は私の話を聞いていた。私自身も不思議でたまらない。何で急にそんな感覚を覚えたのか、それが何を表しているのか、ただの気の迷いなのか、何も分からなかった。



「私は私だよ。例え、姿が変わったとしても」

「え…?どういうこと?」

「気にすんなってこと」


そう言って、彼はにっと笑った。昔から変わっていない、いたずらをするときの顔。その顔に何だか安心して、さっきのは幻覚に似たものなのかな、と思った。


「何だよ●●、そんなに私が恋しい?」

「ばっ!!ばかじゃないの!?」


さらに口角をあげて彼は言った。口では反射的に抗うようなことを言ってしまったが、私の頬が熱いところをみると、彼が言うこともあながち間違っていないのかもしれない。


「ほら、●●も少しは自分で塗れよ」

「えー、いいよ、三郎がやった方がうまいもん」

「だからだよ。私が全部やったらお前のだと信じてもらえないだろ」

「うるさいわ」



彼からパレットと筆を受け取り、しぶしぶ、またキャンバスに向かい始めた。だから、三郎が何か小声で言ったのに気づけなかった。





「大丈夫さ。ここは平成だから」

「え?今、何か言った?」

「いや、何も」









(い ろ い ろ )

(何重にも重なったそれは、もう剥がれた)




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