「好み」
「髪、少しのびたな」
のびかけた私の髪の先に触れながら、文次郎は言った。
春夜の甘い香りが少し開いた襖の隙間から漂う。ほどよい蝋燭の明かりの中で、私は彼に後ろから抱かれている。
「うん…」
「切らないのか?」
文次郎が疑問に思うのも無理ない。山本シナ先生のような短い髪型が好きな私は、いつものびたらすぐに斉藤タカ丸のところに走っていたから。“もったいないなぁ、のばしたらもっとかわいいよ”なんてお世辞を言ってくれる同い年の後輩は、技術でも接客でも確かな腕を持っている。
「私、のばそうと思う」
「何でだ?いつもすぐ切るのに」
「気分よ、気分」
「ふぅん、そうか」
興味なさそうに答えた彼の指先は、まだ私の毛先に触れている。
「少しくすぐったい」
「●●の髪、柔らかいな。触りたくなる」
彼の胸板に軽く寄りかかりながら、私は今日の友人との会話を思い出した。
***
“私、髪の伸ばすことにしたんだ!”
“どうして?”
胸の長さまである髪を後ろで高く結っている私の友人は、声高くそう言った。私の問いかけに、彼女は頬を染める。あぁ、なんて幸せそうなんだろう。
“彼がね……髪の長い子が好きなんだって。彼女なら、彼好みの女の子になりたいって思うでしょう?”
今まで考えてもなかったことを聞かれて、私はふと思った。
文次郎の好みの女の子。
それはどんな子だろう。
私はその子に近いのだろうか、遠いのだろうか。
***
背中に彼の体温を感じながら、恐る恐る、尋ねてみた。
「ねえ、文次郎は長い髪の方が好き?」
「え、俺か?」
「嫌?長い髪」
「別に嫌じゃねぇが」
「じゃあ、短い髪がいい?」
「いや…俺は別に……」
「別にって……、好みぐらいないの?」
「何だよ。何、怒ってんだ」
「怒ってないよ!私はただっ……」
「ただ?……何だよ」
勢いで振り返ると、目の前にある彼の顔。眉間に少し皺を寄せ、私の目を見つめるその表情に、私が弱いのを彼は知っているのだろうか。
喧嘩したいわけじゃないの。あなたにずっとこのまま好いていてほしいから。自我が強い私が他人の好みに変わりたいなんて、初めてなの。
それぐらい、好きなの、文次郎、あなたが。
「ただっ、私はあなた好みの女の子になりたくて!!」
あぁ、言ってしまった。なんて恥ずかしい。彼の顔との近さと視線に耐えられなくて、思わず、前に向き直す。
「ごめん…それぐらい、文次郎が好きなの……」
「ばかたれ」
彼から返ってきたのは、聞き慣れた口癖。だが、静かな声だった。彼は私の耳元に唇を寄せた。
「そのままのお前が、
……………俺の好みなんだよ」
そうささやくと、彼はのびかけた髪に口づけを落とした。あぁ、今の私は幸せそうに頬を染めているに違いない。
(好み)
(明日、タカ丸のところに行こう)
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