「狂界線」
その境界線はどこにあるのだろう。私はわからない。
冷たい鍵穴に自宅の鍵を差し込めば、鈍い音を立てて戸を開けた。
「ただいま」
この小さな言葉に、誰からも返事はない。こんなことも、成人してから5年間一人暮らしをしていれば慣れたものだ。なんとなく時計に目をやれば、午後11時を示している。私はため息と共に堅いスーツを脱ぎ捨てると、ソファーに崩れた。だが、すぐにむくりと起き上がって、鞄からスマホを取り出した。慣れた手つきでネットを開き、これまた慣れた手つきで“鉢屋三郎”と検索した。溢れる二次創作の中で、お気に入りのサイトを貪るように飛び回った。私は鉢屋三郎が好きだ。ただ単純に、好きだ。
平面といわれればそれまでの世界。姿は見えても、触れることはできない。声は聞こえても、会話することはできない。私は平面の彼に、一方通行な思いを重ねている。いい大人にもなって、アニメのキャラクターに恋をしているなんて馬鹿げているだろう。故郷の母親に縁談の話を持ちかけられる度に、私はこんな自分に嫌気が射す。でも、それと同時に、三郎との新婚生活の夢小説を探している自分がいた。
「三郎……、鉢屋三郎…」
彼の半目が好きだ。彼のアイデンティティーが好きだ。不破雷蔵に依存に近い友情を抱えて、彼に化けている鉢屋三郎が好きだ。何にも化けられる彼が好きだ。彼の少しひねくれているようなところが好きだ。彼の冗談なのか本気なのかわからないところが好きだ。
鉢屋三郎が、好きだ。
***
感じたのは、昼下がりの日の光だった。日の穏やかな温かさに当たりながら、私は学園の縁側に座っていた。隣には、同じ藤色の制服を着た三郎がいた。二人で他愛ない話をして、悪態をついて、笑いあった。何も珍しくない、ただの日常だった。
それなのに、私はこれが夢だとわかった。三次元の私が見ている、夢だとわかった。突然、先程まではっきりと感じられていた日の温かさが浅ましく思えた。
「●●?どうした」
表情が曇った私に、三郎が問いかけた。
「わかったの」
「何が」
「これが夢だって」
「…は?」
意味がわからない、彼はそんな顔をした。“ついに本当の馬鹿になったか”なんて言ってくるから、“うるさい"と頭を軽く叩いた。
「夢ってなんだよ」
「だから、今私たちが話してるのは、私が見てる夢なんだって」
「何言ってんの本当に」
「いや、本当なんだよ」
困惑している彼の顔がおもしろくて、くすりと笑った。すると、先程の仕返しだとでもいうように、彼は私の頭を軽く叩いた。
「痛っ」
「じゃあ夢じゃねえよ」
「いや、夢なんだって」
「なんでだよ」
「私が三郎を好きだから」
夢とわかってしまえばもう自棄になって、日頃抱えている思いをぶつけた。“好き"のひとことから、隣の彼が真剣な表情になったのが、何だか新鮮だった。
「三郎が好きだから本当の私はこの夢を見てるの。三郎に会いたくて、話したくて」
あなたがいるだけで、こんなにも私は満たされている。それなのに、夢なんだね。やっぱり会えないんだ。当たり前だけど、私という線とあなたという線が交わることは不可能なんだね。次元ってそういうことなんだね。
「私も好きだ」
「えっ…」
「私も●●が好きだ」
三郎が私をまっすぐ見て、はっきりと言った。少し、彼の頬が赤いように見えた。頬が熱くなって、左胸が大きく波打った。嬉しかった。
「顔、真っ赤だぞ」
「うるさい、お互い様でしょ」
「照れてんの?かわいい」
「きもい」
「ちょ、酷くね」
そう言って、笑い合った。
「夢でも嬉しい」
「まだ言ってんのか」
「覚めないでほしいなぁ」
三郎が、私の右手に彼の左手を乗せた。彼の手の平と私の甲が触れて、体温を感じた。温かかった。彼の顔を見た。
「●●」
三郎が私の耳元に口を寄せた。
「寝るときはちゃんと布団で寝ろよ」
その声を聞いた途端、目が覚めた。
「んん…」
スマホを片手に、いつの間にかソファーで寝てしまったようだ。なんとなく時計に目をやれば、午前1時過ぎを示している。右手に違和感を感じた。なぜか人肌を感じた。まじまじと右手の甲を見つめる。少し湿っているような気がした。そこには、三郎の手の平の感触と温かさが、鮮明に残っていた。まるで、つい先程まで触れていたようだった。
私は青ざめた。夢でここまで感触が残るものだろうか。何だか気味が悪かった。私は、狂ってしまったのかもしれない。現実と夢の境界線がわからなくなるほど、私はおかしくなってしまったのだろうか。彼に会いたかったはずなのに、2次元に行きたかったはずなのに、怖くなった。その線が怖かった。
先程まで聞いていた彼の声が頭の中で鳴った。
“寝るときはちゃんと布団で寝ろよ"
何でそれを知っているの?
(狂界線)
(私はもう、越えてしまったのかもしれない)
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