HNで呼ばないで6


「――はぁっ」
 
悪夢のような出来事から一週間。
 
未だにあの事件を引きずりながら、それでも俺は平和な日常へと身を投じていた。

 部屋から見る景色も、庭の木も人も車も、何も変わらないのに俺だけが酷く汚れてしまったような気がして気が滅入る。

 結局あの後、どうやって別れたのか全く記憶が無い。

 気がついた時には家に帰る電車の中で、ほぼ放心状態のまま帰ってきたような気がする。

 当然写メなんか撮っているはずもなく、鷲野には『相手が来なくて会えなかった』とだけメールで伝えた。

 言えるわけがない。

 男に強姦されました。なんて……。いっそ、あの日の事が夢だったらいいのに。
 なんて都合のいい考えすら浮かぶ。

 もう、忘れよう。あの男の事も、あの日の出来事も。

 もう二度と会うことはないんだから――。



「なぁ、聞いたか? 須藤センセ急に産気づいたらしくて、代わりに今日から新しい担任が来るらしいぞ!」

 学校に着くなり鷲野が大スクープとばかりに俺の元へ飛んできた。

 クラスのみんなもソワソワと落ち着かない様子で、どんな先生が来るんだろうかとそんな話題で持ちきりだ。

 まぁ、俺にしてみたら先生なんて誰が来ても同じで、産休だろうが臨時教師だろうが関係ない。

 先生が変わったところで授業がなくなるわけでもないし、この気持ちが晴れてくれるとも思えない。

 気持ちを切り替えなきゃいけないのに、心に重くのしかかったしこりが浮上しようとしている気分に蓋をする。

「なんだよ拓海〜、興味ないのか?」

「別に。どうでもいいよ」

 自分でもびっくりするくらい感情の乗らない声だった。

 鷲野はこれ以上俺にこの話題を振っても無駄だと悟ったのか、他のクラスメイトの方へと方向を変えた。

 本当にどうでもよかった。

 平和そうに話をしているクラスメイトたちの存在すら鬱陶しく思える。

「元気ないな、どうかしたのか?」

「ん? なんでもない」

 色々考えていると、隣の席に座っていた親友で幼馴染の萩原雪哉が声を掛けてきた。
 穴が開きそうなほど真剣な顔で見つめてくるから、とっさに視線を逸らしてしまう。

 だけどすぐに手が伸びてきて両手で頬を挟まれた。

「なんでもないって、顔してない」

「――っ」

 額と額がくっつき、視線が絡む。

 頭を固定されてるから逸らすことも出来なくて、思わずグッと息を呑んだ。

 いつもそうだ。雪哉には大抵なんでも見透かされてしまう。

 幼稚園からの長い付き合いだから、俺の微妙な変化は直ぐにわかるらしい。

 そう言えば中学でいじめにあった時も、目を見ただけで「何か隠してるだろ?」って言って、いじめてた奴らをボコボコにしてたっけ。

 他にも、俺がパフェ食べたいなって思ってたら奢ってくれたりとか、口に出さなくても伝わってるって事が何度かあった。

「悩み事なら、一人で抱え込むなっていつも言ってるだろ?」

 親身になってくれるその姿勢は凄く嬉しい。だけど、その気持ちが今の俺には苦痛に感じる。

 雪哉には知られたくない。

 だって、あんな事……きっと知ったら雪哉だって軽蔑するはずだ。

 真実を話して軽蔑されるくらいなら黙っていたほうがいい。

「拓海?」

「俺なら、大丈夫だよ」

「でも」

 雪哉の形のいい眉が不安げに寄る。

「大丈夫だって。たいした事じゃないし」 

 納得していない様子の雪哉に、俺は精一杯の笑顔を作って笑って見せた。

 雪哉はまだ何か言いたそうに口をモゴモゴさせていたけど、副担任が教室に入ってきた事によってそれは中断され、慌てて姿勢を正した。

 深く追求されずに済んだ事に、いつも口うるさい副担任だけど、今日ばかりはありがとうと言いたくなった。

「えー、もう知っている者もいるかと思うが、産休に入った須藤先生の代わりに今日から臨時教師として新しい先生が来てくれることになった」

 廊下にはうっすらと黒い影。

 ソワソワしているクラスメイトが酷く幼稚に思えて、笑ってしまいそうになりながら俺は一時限目の準備を始めた。

 副担任のだみ声が響き、続いて長身の男が教室内に入ってくる。

 なんだ、男か……。

 がっかりと肩を落とす男子とは正反対に、女子の黄色い声が一斉に上がる。

「あーぁ、これだから女は……」

 ボソリと雪哉の呟きが聞こえる。

「ただいま紹介にあがりました、加地彰です。教科は日本史で……」

「――っ!」

 聞き覚えのある低い声に、弾けるように顔を上げた。

 そこにはあの時出会った変態男の姿。

 スーツこそ着ているけれど、あの整った顔立ちを見間違えるはずはない。

 なんで、アイツがこんなところに?

「どうした、拓海?」

「な、なんでもない」

 ふと、アキラと視線が合ったような気がして慌てて教科書を盾に隠れた。

 なんで? どうして? 

 頭の中はそればっかりだ。

 心臓がバックバックと激しく打ちつけ動揺を隠し切れない。

「――海。渡瀬拓海! 居ないのか?」

「おい、拓海。呼んでるぞ」

 ツンと雪哉に肘で突付かれ慌てて席を立った。

「は、はい!」

 周りが一気に静まり返り、副担任がはぁ、と息を吐く。

「出席を取ってるだけだから立たないでよろしい」

「あ……すみません」

 ストンと腰を降ろした瞬間、教室中がドッと笑いに包まれた。

「……」

「大丈夫か?」

「大丈夫、じゃないかも」

 心配そうに覗き込んでくる雪哉ともう一つの視線を感じながら、俺はグッタリと机に突っ伏した。


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