露日9
「――おいっ、何やってんだよ菊っ!」
「!?」
突然耳触りのいい声が響いて何かが浴室に飛び込んで来た。そして、真っ先に勢いよく流れているシャワーのコックに手をかける。
「アーサーさん……? どうして……」
茫然とする私の頬に触れ、こんなに冷たくなって……と呟くと、自分が濡れるのも構わずにギュッと強く抱きしめてくれる。
「こんなクソ寒い日に頭から水なんて被ったら風邪ひいて死んじまうだろこの馬鹿っ!」
真剣な表情で怒鳴られて身体が反射的にびくりと跳ねた。それと同時に、今度はお湯が私達を包むように降って来る。
「あのっ、アーサーさんも濡れてしまいますよ」
「俺の事はどうでもいい。まずはこの冷えた身体を温めるのが先だ」
私の事を抱きしめたまま、馬鹿な事しやがってと呟く。
「す、すみません……」
私はこの人に抱きしめて貰う資格なんてない。私は彼を裏切ってしまったのだから。頭では拒絶しなければとわかっているのに、身体が全く言う事を聞いてくれない。
それどころか、一番会いたかった人物の登場に胸がグッと詰まって、目からとめどなく涙が溢れてくる。
「く……っ、ぅ……うっ」
「……何が……あった? って、聞いても無駄だろうな」
溜息混じりの声が響き渡る。私が何をやっても話す気が無い事はお見通しのようでアーサーさんは多くを聞かず、ずっと私の震えと涙が落ち着くまでずっと背中を撫でてくれた。
その心使いが嬉しくて、その優しさについ甘えてしまいたくなる。
私がイヴァンさんと関係を持ったと知ったら、アーサーさんはどう思うのでしょう。
考えるのは恐ろしくて、出来ればその現実から目を背けてしまいたい。だけど、そんな事は出来ません。
浴室を出た後、新しい衣服に着替えて戻って来たアーサーさんに、私は思い切って声を掛けた。
「……あの、アーサーさん……」
「なんだ? まだ、寒いのか?」
「いえ。お陰でだいぶ温まりましたから大丈夫です。そんな事より……私と、別れてくれませんか?」
「はぁっ!?」
言った途端、アーサーさんの立派な眉毛が怪訝そうに寄せられ眉間に深い皺が出来た。
「何言ってんだ、いきなりそんな事言われて納得出来るわけないだろ!」
「そう、ですよね……でも、きっとこれ以上貴方の側に居ると迷惑がかかってしまうので」
「……それは、お前の本心なのか?」
「……はい」
そう答えた瞬間、顎を掴まれ貪る様に口を塞がれた。息をする暇もないほど激しく口付けられてゾクゾクっと身体が震える。
「嘘を吐くな。別れたいって言ってる奴がキスしても抵抗してこないなんておかしいだろ」
「……っ」
「俺の事嫌いになったんなら諦めもつくけど、そうじゃないなら絶対に認めないからな!」
真摯な目で見詰められ、不謹慎だと思いつつもドキッとしてしまった。嫌いになんてなれる筈ありません。
「で、でも。私はもう……」
「もう、なんだよ? ……他の誰かにキズモノにされたから俺とは一緒にいられないって言うのか?」
グッと手首を掴まれて、息が止まりそうになった。
鋭いアーサーさんの視線が痛くて、私は思わず視線を逸らしてしまう。
「こんな痕、昨日は無かった筈だ。お前は変な所で頑固だから、聞かないでおこうと思っていたけど……こんなの何かあったとしか考えられないだろ」
「……」
「悪かったな、お前が辛い時に気付いてやれなくて……」
ギリッと私の耳にも聞こえるほど歯噛みして、拳をギュッと握りしめる。アーサーさんは何も悪くないのに、謝罪しなければいけないのは私のほう。
胸が痛む。
「俺は、菊が俺の事を好きでいてくれる限りどんな事があっても、お前を手放すつもりなんてない。だから……簡単に、別れるなんて言うな」
「アーサーさん……」
いつになく真剣な表情。真っ直ぐに見詰める瞳に迷いは無く、暗闇のどん底にいる私に手を差し伸べてくれる。
チュッと額に唇が触れ、ソレがゆっくりと首筋、鎖骨、胸へと降りてくる。強く吸いつかれて甘い痺れが下半身に生まれる。
「んっ、だ、駄目ですよ、痕が……」
「馬鹿、所有のしるしだ。お前は俺のモノだからな。もう二度と誰にも触れさせたりしない!」
「私は、アーサーさんの……」
「なんだよ、嫌なのか?」
ベッドに腰掛け不安そうに尋ねてくる。私の為に本気で怒ったり、笑ったりアーサーさんは色々な表情を見せてくれる。
「いえ、いいです……」
イヴァンさんの事全てが解決したわけではないけれど、それでも受け入れてくれるアーサーさんがいるなら私はきっと大丈夫な気がします――。