ふいに頬に冷たい雫が伝い視線を上げると、暗い空から糸のような雨が静かに降り注いできた。
ついさっきまで誇らしげに輝いていた太陽の姿は分厚い雲に覆われ、強い日差しに晒されて粉を吹いたようになっていた道もその乾いた面積を刻一刻と減らしていく。
いくらもしないうちに雨脚が強まり、視界はくすぶるような白に遮られたーー。
「菅原さん、こっちです」
玄関のドアを勢いよく開けて飛び込んで来たのは、烏野高校バスケ部期待の新人影山飛雄と、副キャプテンの菅原孝支だ。長い距離を走ってきたのか二人とも息が上がり、ずぶ濡れになっている。
「ツイてないっすね」
影山は雨で濡れた前髪を掻きあげ、恨めしそうに空を見上げた。
「仕方ねーべ。季節の変わり目は天気が変わりやすいんだから」
「それは、そうですけど……」
今日の天気は晴れだと朝の予報では言っていた。だから、信用して傘を持たずに家を出たのに本当についていない。
突然降り出したスコールのような雨は当分止んでくれそうにもないだろう。
濡れたシャツを脱ぎ、部屋から持ってきたタオルで頭を拭きながら影山は短く息を吐く。
その姿に、菅原は思わず魅入ってしまった。いつもはシャツを着ているので見えないが、厚みのある胸板や、程良くついた筋肉、引き締まった腰まわり。どれをとっても良いからだ付きをしている。
「菅原さんも脱いで下さい」
「えっ!?」
すっかり影山の肢体に釘付けになっていた菅原は、突然降って沸いた言葉に目を丸くした。
「え? じゃないですよ。早く」
そういいながら影山の手が伸びてくる。
「やっ、ちょ……待てって! いきなりそんな。オレ、まだ心の準備が出来てねーし……!」
肌に張り付いたシャツを胸元まで捲り上げられて、菅原は慌ててそれを止めた。
「なに言ってるんですか。そのままだと風邪ひきます。服を乾かしたいので早く脱いで下さい」
「かわ、かす……? あぁ、なんだ。そうか」
「……なにを想像したんですか?」
くすっと笑いながら訊ねられて、言葉に詰まった。勘違いしてしまった事実が恥ずかしくて居たたまれない。
赤くなってしまったであろう頬を俯いて隠したかったのに、影山がそれを許してくれなかった。長い指先が頬を撫で、顎を持ち上げられて視線が絡む。視界いっぱいに写り込んだ影山の端整な顔立ちにドキリとさせられかぁっと体温が上昇するのがわかった。
試合や練習中にみる鋭い眼光は気配を顰め、代わりに真っ黒な双眸が愛しげに菅原の姿を捉えている。
視線を何処に置いたらいいのかわからずさまよわせていると、突然眩いばかりの閃光が走り、激しい雷鳴があたりに響きわたった。
「うわっ」
突然の轟音に驚いて咄嗟に影山の胸元にしがみついてしまった。勢い余ってソファに倒れ込む。
「いってぇ」
「わ、悪い、影山! すぐに退くから。……!」
影山を押し倒すような形になってしまい、慌てて上から降りようとしたけれどそれより早く腕を引かれバランスを崩して胸元に突っ伏する。そのまま肩と腰を抱き寄せられ心臓が一際大きく跳ねた。
「菅原さん、もう少しこのまま……」
甘さを含んだ囁くような声と共に、つむじにキスが降りてくる。
髪に頬ずりされ、たまらず視線を上げるとちゅっと言うリップ音と共に軽く唇が触れ合う。
啄むような口付けを受けるたびに鼓動が跳ね、どうしていいのかわからなくなってしまう。
(ど、どうすっべ……なんか、変な雰囲気になってきた)
少しずつ角度を変え、口腔内に舌が進入してくる。どんどん深まってゆく口づけに動揺を隠せず、心臓が物凄い勢いで脈打ち息が苦しくなってしまう。
「ん……ふ……」
唇を甘く噛まれ、歯の裏を丁寧になぞられた。舌を絡め取られて軽く吸われると、ぞくんと下半身に甘い痺れが生まれる。
どうしよう。このままじゃ、流されてしまう……。
「……菅原さん」
「み、耳元でしゃべんな……ッ」
耳に息を吹きかけるようにして艶っぽい声色で名を呼ばれ、無意識のうちに身体が震えた。
恥ずかしくて顔を背けた菅原の頬や顎にキスをして、ゆっくりと影山の唇が首筋を伝い降りてくる。
「あ……んんっ」
慌てて身を捩って逃げようとしたけれど腰をしっかりと固定されてれていて身動きが取れない。
どうしよう……どうしよう、どうしよう……。
肌に張り付いたシャツをたくし上げ露わになった胸元に影山の息がかかる。
「ひぁっ」
熱い舌が絡み、そっと吸いつかれて、菅原は声にならない声を上げた。
「ご、ごめっ。オレなんか変な声出て……」
「菅原さん、もっと聞きたい」
「……ッ」
慌てて口元を押さえようとした手を掴まれ、狭いソファの上で体勢を入れ替えられて言葉に詰まった。
呑みこまれそうな熱い視線に耐えられず、堪らず顔を背けてしまう。
「でも、オレまだ……」
「怖い、ですか?」
不安そうに訊ねられ、コクリと頷いた。
影山の言いたい事は痛いほど理解している。彼のことは嫌いではないし、いずれはこういう行為も受け入れたいとは思っている。
けれどまだ、心の準備が出来ていないのだ。
部活の帰り、突然影山に告白されたのは青葉城西に負けた後。3年生全員が春高を目指すことを決めてからほどなくしてからだった。
中学の大会で初めて彼のプレイを目の当たりにした時から一種の憧れに近い感情を持っていたし、凄く求められているような感じがして、それに応えてやりたいと思った。
それから数週間。キスをする事にはだいぶ慣れてきたけれど、そこから先に進むには圧倒的に覚悟が足りないのだと思う。
「――今夜、家に泊まって行ってください」
「!」
頬を撫でながら顔を強制的に影山の方へと上向かされ、漆黒の瞳にぶつかって思わず喉が鳴った。
泊るって事はつまり、一晩を共に過ごすと言う事だ。
「つーか、帰したくないッス」
色気の滲むような声で耳に息を吹きかけられるように囁かれ、背筋がぞくぞくと震えた。
胸の飾りを指で押したり摘まんだりしながら、空いている手で顎を持ち上げられ幾度となく唇を塞がれる。
逃げるように巻いた舌を絡め取られ、舌を吸われてぞくんと腰が疼いた。甘い口付けで頭の芯がボーっとなる。
じわじわと広がってゆく甘い疼きに自然と腰が揺れ、影山の膝が竿の根元の柔らかい部分を押し上げるように刺激してきた。
「ぁッ、や……っ」
はっきりと快感が勝ち始めたのを見て取ると、影山の手がボトムの上から太腿の付け根に触れた。いやらしい手付きで撫でまわされ大きく身体が跳ねる。
「あ……っ! ソコは……! や、やっぱ駄目……っ!!」
ベルトを外す金属音に我に返り、菅原はいよいよ慌てて影山を両手で突っぱねた。
「駄目って、……こんなに反応してるのに」
スッと閉じた股の中心に手が伸びて既に自己主張をし始めているそれをズボンの上からなぞられる。
慌てて隠そうとして止められ、軽く扱かれてびくんと反応してしまった。そんな自分が恥ずかしすぎて顔を真っ赤に染めながら腰を引く。
「や……ッ、ごめっ、オレやっぱり……」
「…………」
思わず逃げ腰になってしまった菅原をジッと見つめ、影山は何か言いたげに二,三度口を開きかけたが結局口を噤んだ。
そして小さなため息と共にのし掛っていた身体を離し、キッチンへと消えていってしまう。
「風呂、使ってください」
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターに口をつけながら戻ってきた影山は肩に掛けていたタオルを菅原の頭に被せ、
「どのみち服を乾かさなきゃダメっすよね」
と、苦笑混じりにそう言った。
「えっ? えっと……?」
「がっついてすみませんでした。菅原さんが嫌がることはしたくないんで、安心してください」
「あ……」
戸惑う菅原の背中を押し急かすようにシャワールームへと連れて行く。
「しっかり身体温めてください。菅原さん風邪ひかすようなことあったらきっと怒られるんで。澤村さん怖ぇーし」
それだけ言うと影山はパタンと扉を締めてさっさと出て行ってしまった。

ちゃぷん、とバスタブの中で湯が跳ねる。
――はぁ。思わず洩れた溜息が、狭い浴室内に木霊する。
どうして、拒絶してしまったのだろう。
影山の事は好きだし、相手が自分をどういう対象として見ているかも理解している。
勿論、それが嫌なわけではない。ただ、自分が組み敷かれると言う事にどうしても抵抗があるのだ。
だが、いつまでもそんな事を言っているわけにはいかない。
さっき拒んでしまったから、きっと影山も呆れてしまったに違いない。
どうしたらいいんだろう。一体、どうやったら受け入れられるようになるんだろうか?
今夜は帰したくない――。熱っぽく囁かれた言葉が今も耳に残っている。あの声を思い出すだけで鼓動が速くなり息苦しくなってしまう。
次に先程のような雰囲気になったらどうしよう。
そんな事を考え、自然と赤くなった顔を隠すように鼻先まで湯に浸かり、膝を抱えながら菅原はブクブクッと息を吐いた。

風呂から上がると、脱衣所には見慣れないシャツが用意してあった。恐らく影山の服であろうソレからはほんのりと柔軟剤のいい香りがする。
(影山と同じ匂い……)
ドキドキしながら袖を通しリビングへ行くと、影山はソファに座り雑誌を読んでいた。
「着替えサンキュな」
「うっす」
雑誌に視線を移したまま答える影山には先程のような性的なニュアンスは一切見られない。
その事に安堵して、ほんの少し肩の力を抜くとソファの端にちょこんと腰を下ろした。
そんなに離れて座るなよと、言わんばかりの視線を感じたが、自分から隣に座るなんてそんな心臓に悪そうな事は出来そうにもない。
「お前の母ちゃん達は?」
「ウチの両親、遠方の結婚式に出てるんで今日は帰って来ません」
「へぇ〜、そっか」
休みの日に勉強を教えて欲しいから家に来てください。なんて言い出すから珍しいこともあるもんだと思っていたけれど、最初からそのつもりだったのか? 
まぁ、仮にも恋人同士なのだから可能性はなきにしもあらずといったところだ。
緊張が伝わってしまってはいけないと思いつつ、やはり何処か緊張してしまい居心地の悪さに苦笑が洩れた。
「そういや、勉強してねーじゃん。そろそろやるべ?」
「そーっすね」
気まずい空気をなんとかしたくて声を掛けたら影山はハッとしたように顔をあげ、小さな溜息を吐いた。
「お前、忘れてたろ」
「ちゃんと覚えてました」
「嘘吐け! 今、そ〜いえばそうだった。って顔してた」
「……してません!」
「本当か?」
「ほ、本当っす。……一応、覚えてました……」
「一応かよ」
なんて会話を交わしながらテーブルの上を片付け、勉強の準備を整える。
途中互いに目が合って、気恥かしさから失笑が洩れた。

勉強は夕方近くまで続いた。途中で飽きるかと思っていたが、予想に反して影山の集中力は途切れる事はなかった。
お陰で試験範囲のほとんどは見直しできたのではないかと思うほどだ。
ふと気付いた時にはもう日もとっぷりと傾いていて、帰る時間が刻一刻と近づいてくる。
今夜は泊まって行って欲しいと、もう一度言われたらどうしよう。
帰宅時間が差し迫るに連れて、先ほどの言葉が蘇ってくる。
誰もいない家で一晩過ごすなんて、さっきは未遂で終わったけれど、その状況で迫られたら流石に途中では止めて貰えないような気がする。
ちらりと視線を上げて影山の様子を伺って見ると、影山はうつらうつら船を漕ぎつつ睡魔と戦っているところだった。
「ハハッ、今日は頑張ったもんな……そろそろ辞めにすっか」
肩を揺すって起こそうとすると、寝ぼけ眼の視線とぶつかった。
それと同時に腕を掴まれ引き寄せられて、床に押し倒される。
「って、ちょっ! 影山っ」
目の前にはがっしりとした影山の胸元が迫り、服の隙間から覗く胸板に男の色香を感じて菅原は固まって動けなくなってしまった。
ど、どうしよう。今度こそ先に進んでしまうんだろうか?
そう考えるとドキドキして瞬きも出来ない。
大体、男同士ってどんな事するんだろう? 影山はそう言う経験あるんだろうか?
色々な事がぐるぐると頭の中を巡り息を詰める。心臓が壊れそうな程早く脈打ち影山に気付かれてしまうんじゃないかと気が気じゃない。
だが、影山がそれ以上何かをしてくる気配はなく、不思議に思って見てみれば規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……寝た、のか……?」
はぁ、とガチガチに緊張させていた身体から力が抜けた。
……何も、されなかった。
その事は圧倒的な安堵と、ほんの少しの別の気持ちが入り混ざって複雑な気持ちになる。
もしかしたらと、期待してしまっていたのは自分の方だと気付いてぶわっと羞恥心が込み上げてきた。
(べ、別にシたかったわけじゃ……)
自分に言いわけをしながらゆっくりと影山の下から抜け出した。
机の上を片付け、部屋に運んでやろうかとも思ったが、そもそも影山の部屋がどこにあるのかわからなかったのでそれは諦めた。代わりにその辺に置いてあったタオルケットを掛けてやる。
影山の寝顔は初めて見る。白い肌に濃く長い睫毛がくっきり影を落としている。烏の濡れ羽のように真っ黒でさらさらとした柔らかそうな髪。眼光鋭い双眸も今はしっかりと閉じられてほんの少し開いた薄い唇からは規則正しい寝息が聞こえてくる。
起こさないようにそっと頬に触れてみた。次に唇――。
甘さの滴るような仕草はまるで自分の指先じゃないみたいだ。
「……ごめんな……オレまだ……」
彼の事が好きだという気持ちは変わらない筈なのに、一歩を踏み出す勇気がどうしても出ない。
自分には多分、覚悟が足りないのかもしれない。
「……好き、だよ……」
声に出して言いながら触れるだけのキスを唇に落としたら、胸がきゅんと甘く疼いた。