No title

「高尾。今日はもう帰っていいのだよ」

部活も終わり、いつもどおり自主練を始めようかと準備をしているところで突然、緑間からそう声を掛けられた。

「え? 何、今日は自主練やんねぇの?」

「あぁ。コンクールまで時間がないから、ピアノの感触を確かめに行くのだよ」

「へぇ、すげー熱の入れようだな」

緑間の言葉に、そんなにピアノが……噂の彼女が大事なのか。と、僅かに苛立ちを覚える。

嫌味たらしく言ってやると、緑間の眉がぴくりと跳ねた。

「昼休み毎日練習してんじゃん。必要なくね?」

「肝心な所で失敗しない為にも人事を尽くす。それは当然の事なのだよ」

「当然のこと……ねぇ」

緑間が何事においても人事を尽くす主義なのは知っている。以前は軽く受け流せたそれも、今は何か他に裏があるのではないかと思わざるを得ない。

「……音楽室行ったって、部長しかいないって話じゃねぇか」

「あぁ」

「二人で練習してんのかよ。合唱って二人でするもんじゃねぇだろ」

「……高尾には関係のない事なのだよ」

「!」

眼鏡を押し上げながら冷たい声でぴしゃりと言われ、カチンときた。

「そんな言い方すんなよ。冷てぇな……ちょっと聞いてみたかっただけじゃん」

確かに音楽とか合唱とか正直どうでもいい。だけど、全く無関係だとぶった切られるのは結構堪える。

「合唱部の部長とお前、付き合ってるんじゃないかって噂になってんの知ってるか?」

「いや知らん。噂話などに興味はないのだよ」

眼鏡を押上げ、くだらん。と、吐き捨てるようにそう言って緑間はくるりと踵を返した。

そのまま迷いのない足取りで出入口へと向かう。

「――なんだよ。もっと他に言い方があんだろ……つか、否定しろよ」

高尾の言葉は、緑間の耳には届いていない。彼は一度もこちらを振り向く事なく、体育館から出て行ってしまった。

「……否定、しろよな。馬鹿」

ボールを握っていた指先に力が篭もり長い溜息が洩れた。

ここまで言ってやっても、弁解しないということはやはり噂が真実だと言う事なのか。

曲がりなりにも恋人という位置関係にあるのなら、きちんと緑間の口から真実を説明して欲しかった。

なんだか目の前がクラクラする。

自分がこんなに不安になっていると言うのに、緑間にはそれが理解できないらしい。

もしも噂が事実であるとするのなら、今の自分は彼にとって一体なんなのか。

確かに、好きだと言われたことは無いし、きちんと付き合おうと言って付き合い始めたわけでもない。

普通の恋人同士のような甘い関係は望めないとわかっているから余計に不安が大きく募る。

一体、何を考えているのか。つい先日までは手に取るようにわかっていた彼の考えが今はさっぱりと掴めないでいる。

自分の存在が酷く曖昧になってしまったように感じて、今日何度目かわからない溜息が洩れた。

頭が混乱して胸が……痛い。



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