◎ 麻痺した感情
自分の部屋。なのに少し寒くて、俺は自分の身体を抱きしめるように腕を回した。
すると、キッチンの方から音がする。
この光景に覚えがあった。
思いだしたくもない記憶だ。
なんで、俺がここにいるんだと激しく脈打つ心臓を押さえながらあたりを見回す。
家具の配置も変えたはずなのに、あのときのまま。
この先に起こることを俺は知っている。
逃げなくてはと思うのに、足が動かない。
そうして、男がこちらに向かってくる。
『どうだ?具合良くなったか?』
『うん…ありがとう、夏輝』
俺の口は勝手に名前を口にして、嬉しそうに手渡された粥をとって食べ始める。
風邪で俺の舌は機能してなくて、ただでさえ薄口の粥が味さえ分からなかった。
それは、これから口にするだろう言葉を想像してからか。
でも、今の俺にはそんなの関係なかった。
せめてこれ以上口を開きたくないと思うのに、勝手に開いていく。
『あの…俺…』
『どうかした?』
『俺、夏輝が…好きなんだ』
『それって、どういう意味?』
『恋愛対象として…』
『ふぅん…』
俺が言った言葉に空気がますます冷えていく。
ヤバいと思うのに、身体が相変わらず動かない。
何もできない。
こんなのを繰り返して何が楽しいと言うのだろう。
恐怖にも慣れてしまった。
この人間じゃなくモルモットを見るような目にあの時の俺は気づけなかった。
『なら、いいことしようか』
『い、いいこと…って?』
『俺に告白したんだ。それぐらい、わかるだろ』
『…あっ…いや…あぁっ…』
服をはぎ取られ、身体をまさぐられた。
キスもなく、胸を痛いぐらい揉まれ苦しくて抵抗すれば吐息を耳に吹き込まれた。
『あっ…なつき…うあっ…』
『嫌じゃないだろ?』
『これが…セックスなの…?』
『ああ、嬉しいだろ?』
嬉しい、俺の意思とは反対に頷いた。
そもそも、なんで俺が過去の自分の視点でこいつをみているのだろうか。
手の感触も、耳を食む唇も…頭が覚えていた。
まるで本当に触れられているかのように鮮明に…。
『もっとしてぇ…おれ、を…あいして…』
自身を握られて感じて恥ずかしかった。
それをからかわれても、俺は嬉しかった記憶しかない。
愛された人間はそれだけで優位に立てるのだと、思った。
『なつきっ…イくっ、イっちゃ…』
『可愛くおねだりしろよ』
『……っ…』
『言えないのか?綱吉?』
名前を呼ばれて浮かれて、馬鹿みたいだと思うのに、加減をしらず無理やり扱く手が痛くても俺はイけた。
それだけ、愛していた。
馬鹿な…俺だ。
目を開ければ見慣れた天井。
あたりを見れば、家具の位置が元の通りだ。
あれは夢だったのだと気づいて、汗だくで泣いていたのだ頬を触って分かった。
もう、何の感情もないと思ったのに。
「まだ、泣くことができるんだな」
過去の俺は、何に対しても泣き虫だった。
でも、それは捨ててきたけれど…。
何かおかしいとおもっていたはずなのに。
それから男に身体を好き勝手に弄ばれた。
血が出て、声は出すなと脅されて、あの行為に愛情なんてものはなかった。
だた、もの珍しさに手を出しただけだった。
それを教えてくれたのは、名倉だった。
離れろと言われて、嫌われるのが嫌だった俺はそれを拒んだ。
夏輝の行為はエスカレートしていって、最終的に売られる手前まで来た。
そこでようやく俺は気がついたのだ。
それから、俺は後ろをいじられることに嫌悪しかい抱けなくなった。
もう、俺が誰かに抱かれるなんてことは…ない。
それに誰かを心から愛することも…できなくなっていた。
俺はなにもかも、壊された。
夏輝の嫌な笑顔が瞼の裏にこびりついて離れない。
もう、嫌だ。
あんな裏切りをされるぐらいなら…いや、俺は一度もアイツから好きとは聞いてなかったか…。
「したくしなきゃ」
涙と拭って俺は起き上がった。
念のため鏡を見たがそんなに気にならない程度だ。
開店は五時だ。
今日は誰が来るのだろう。
寝覚めから良い気はしないのだが、そうも言ってられない。
バーテンダー服を身につける。
まだ、閉まったままの店内へと降りれば在庫を確認する。
特に切らしたものがないとわかれば店を開けようとした時三城が入ってくる。
「遅れました」
「いいよ、今から開けるとこだったし」
「なにか気分がすぐれないようですけど…」
「あ、気にしなくていいいって」
俺の顔色を見れて心配してくる三城にそれを言わないでくれと苦笑する。
不器用な癖に他人の顔色をうかがうのはうまいのだ。
俺は窓にかかっているクローズの看板をオープンに変えて入口のドアを開ける。
今日も何も変わらない日常が始まる。
「あれ?」
「ども…」
グラスを拭いていれば入口が開いてそちらを見れば水野がいた。
今日は鴻上がきていない。
鴻上の面倒をみる水野がここに一人でくるのも珍しい。
いつもは、一緒に来ることが多い。
水野はいつもの席に座ると小さくため息を吐いた。
「ミスティアロワイヤル」
「…なにかあったのか?」
注文の品を作りながらそのため息の訳をきいてみたいと水野を見れば、カウンターを向いたまま何かを悩んでいるようだった。
水野がここまで思い悩んでいると言うことは尋常じゃない。
本格的に二人の間に何かあったのかと心配になる。
「…晶が、実家に連れていかれたんです」
「実家に?それのどこか悩みの種になるんだ?」
水野の口から出た単語になんだかわからず、作ったミスティアロワイヤルを目の前に置いてやれば首を傾げた。
そういえば、鴻上は水野の家に居ついているとだけしか聞いたことがなかったなと今更ながら疑問に思う。
プライベートはあまり聞かないようにしているし、気にならないから。
鴻上について考えてみると何もかも不思議だった。
どうやって水野と出逢って、今の生活になったのかとかなんであんな彼氏をとっかえひっかえしているのかとか。
「晶のオヤジさん、病院の院長やってるんですよ」
「え…?」
「まぁ、よくありがちな親の過度な期待に応えられず反抗してしまったと言うやつで」
「ああ、あるよなぁ」
「俺は晶と一緒の学校で、半分巻き込まれた形なんですけど俺は嫌じゃなかったんですが…一緒に暮らして。前もこんなことがあったんです。あのときは晶があまりにも嫌がるから止めさせようとしたら俺が殴られて」
「……」
「それを見た晶は怪我させるぐらいだったらって、あのとき以来オヤジさんが迎えに来る度なにも言わず戻って行くんですよ」
何をさせられているのかは水野も知らないらしい。
ただ、帰ってきた晶はいつも顔にあざを作っていて殴られたのは明らかなのになんでもないと強がってみせるのだという。
「俺は…アイツを守りたいはずなのに、何もできない」
「家の事情なら、仕方ないことだろ?」
「あいつは、俺に助けを求めたことなんてないんですよ」
「あんなにお前にべったりなのにか?」
「…べったりなのは、酒に酔ってるから…普通の時は普通です。バイトに行って飲んで帰ってきて部屋の掃除をしたりして俺が帰ってくるのを待ってる」
酒を飲みながら水野も頭で整理して話しているようだ。
こうやって誰かに話して自分の気持ちも整理したいのだろう。
「何もかも俺に任せてると思わせて、なにも寄りかかってなんかない。あいつは、いつも一人だ」
「……でも」
「一人なんですよ、俺が何言っても聞きゃしない。何度俺が強姦されそうになったところを助けたか。何度危ないって注意したか。そのたびに繰り返すんですよ。心配させるにも度が過ぎる…」
煽るように半分を一気飲みして大きく息を吐いた。
水野も相当滅入ってきてるみたいだな…。
それでも、この二人は離れることはないのだろう。
「でも、戻ってくるんだろ?」
「…はい」
「だったら待ってればいい、ここでも家でもアイツは何があっても水野のところに帰ってくる。それって、水野を信頼してるってことだろ?疑ってやるなよ、何をやっても戻ってこれる場所があるって心強いんだ」
どうしても不安になることがある。
けれど、ここにきて話して少しでも楽になればいい。
ここはこういう場所だ。
もう一杯飲むかと聞いた時だった。
水野はようやく俺をまっすぐに見てきておかしなことに気づいたのか手を伸ばしてきた。
「マスター、どうかしたんですか?」
「…いや、なんにもないよ?」
「俺にはわかるんですから、嘘はつかないでください」
消えたはずの涙の痕をなぞられて慌てて顔を離した。
すると、入口が開いてやってきた男に俺は目を見開いた。
「三城…あと、お願い」
「え…マスター?」
俺は心臓を押さえて隠れるようにして奥へと戻った。
水野と三城から戸惑う声が聞こえたが俺の頭は逃げることしか考えられなかった。
ドアを閉めて、足が竦んでたっていられずずるずるとドアを伝い座り込んでしまう。
「なんで、ここに…」
ドア一枚を隔てて向こうから聞きなれた声が聞こえる。
夢でみた、夏輝がここに来たのだ。
アイツは女の恋人を作って俺を捨てて行った。
ここに来る理由が見つからない。
怖い、もう目を合わせることはおろか向き合うことすらもできないだろう。
呼吸が苦しくなってきて、必死に肺に空気をいれようとした。
それなのにだんだん吸うことができなくなってきて、まずいと力の抜けた足を立てた。
なにか…袋。
自分が過呼吸に陥りかけていることに気づいて何かないかと周りを見るが、三城が掃除をしたあとだから何も見当たらない。
ヤバいと思った時にはすでに遅くひっと途端酸素が遮られる。
俺はそこに倒れ込み必死で抑えようと掌を口元にあてた。
「マスター、今音がしましたけど……マスターっ」
「ば、か…みせ…」
「もうあの人は帰しました」
音に気づいて三城が入ってくれば俺の状態に慌てて紙袋を出してくれば俺を支えて口元に当ててきた。
だんだん落ち着いてきて、普通に呼吸できるようになればどっと疲れた。
いつまでも三城に寄りかかってるのも悪い気がして起き上がろうとすれば手伝ってくれて椅子に座る。
「今の、夏輝さんでした…気づいたんですね」
「気づくとか、そういう問題じゃない…」
「丁重にお帰りいただいて、水野さんはまだ待っていてくれてます。出れそうにないなら、お帰りいただきますが?」
「頼む、ちょっと今日は俺出られないから…」
「……だ、そうですよ?」
「え…?」
三城が後ろのドアを向いていて、何か嫌な予感がすると振り向けば俺は息が詰まった。
そこには、リボーンがいたのだ。
夏輝と入れ違いになったか、同時ぐらいに来たのかは分からないが…俺を見つめるその視線の強さに責められているようで泣きそうになった。
何もかも俺の中では固まって
何もかも過去になって
何もかも忘れていた…
そんな気がしていたのに…。