はっと目を見開いた三次郎が虎若の名を小さく呼んだ。
「な…―――っ!」
何? 訊こうとしてそれは途切れた。気付いたのだろう。 自分達を囲む、幾つもの眼。赤く黄色く、不気味に光っている。 一歩前へ踏み出そうとした仲間の腕を、三次郎と虎若が掴んで引き止めた。
「ダメ」 「三ちゃん…?」 「今動いたら、餌食になる」 「え…」
生物委員だからこそ聞こえる、潜められた小さく密やかな、委員会活動を通して慣れている筈の二人さえ耳を塞ぎたくなるような蠢動。 十中八九孫兵の使役する毒虫達の中でも特に優秀な、致死猛毒を有する子達だろう。主の危機に気が立っているのだ。 それでも、さっきから随分と動いている滝夜叉丸と喜八郎に襲い掛からないのは三之助と藤内がいるからか。
せめてもの幸いはジュンコがいないことだった。 普段は滅多に毒を出さないし大人しいからあまり知られていないものの、ジュンコは孫兵の有毒生物達の中で最も強い猛毒を持っている。 地面に垂らした一滴を踏み、服に沁み込んで肌に触れでもしたら一巻の終わりだ。
動けずにいる3はの面々を背に、滝夜叉丸と喜八郎は静かに深呼吸を繰り返す。
守れるのか、背後にいる歳の若い後輩たちを。 引き留められるのか、目の前の手負いの獣たちを。 委員会の繋がりに絆されて、本気が出せない分だけ自分達が不利。 本当は不安でたまらないけど、それをおくびにも出さないのは、「最上級生」としての「アイドル学年」としての矜持である。
―喜八郎と滝なら大丈夫だって― ―頼んだぞ―
何があっても、違えるわけにはいかない約束があるから。 最優先は何だろう。 任務を完遂させること?…それはもう終わらせている。 彼らを連れて帰ること?…それ自体は大した目的ではない。 …無事を確認することなのだ、誰よりも排他的で臆病な後輩たちの。 滝夜叉丸と喜八郎は一瞬だけ目配せをし合うと、あからさまな溜息を吐いた。
「全く、世話が焼ける」
戦輪を懐へと仕舞い、踏鋤から手を離す。
「…先輩?」
かすれた声が背後から聞こえた。
「兵太夫、その『部外者』を黙らせておきなさい」 「他の奴らも、兵太夫を手伝え」 「…え?」 「そこの教育実習生。連れてくるべきではなかった」
それだけ口にした二人は、二匹の獣との間合いを一気に詰めると、そのまま地面へと引き倒した。 三之助と藤内の上に、それぞれ滝夜叉丸と喜八郎が乗っている。 ―手負いの獣に手を出すときは、たとえ爪を立てられても、牙を剥かれても、恐れず怯まず抱き締めること― 恐いなんて思っている余裕はない。そんな自分は認めない。
「…お前達は何を脅えているの」 「案ずるな。無理に引き離したりしない」
帰れないことを一番気に病んでいるのは本人たちなのだ。 ”いつだって六人”で。それを彼らが望んでいるなら、全力で叶えるのみ。
「委員会のことだってお前らが気にする話じゃない」 「保健も、用具も、生物だって3年生でも十分に維持できる…それはお前達が一番知っているでしょう」
歯を食い縛って、必死で先輩を追いかけ続けて そんな保健や用具や生物の同級生を同じくらいの必死さで支え続けた姿を、滝夜叉丸も喜八郎も知っている。
「何を勝手な事を…」
背後で、教育実習生が口を開く。
「君達、今の用具委員会や保健委員会の状況を分かっているだろう」 「…兵太夫、私は『黙らせろ』って言わなかった?」
作法委員長特有の全く温度を感じさせない声で喜八郎が言い放つ。
「一昨年は、出来てたな。委員長が留守だろうが、寝こもうが、委員会活動を滞らせたりはしなかった」
滝夜叉丸のその言葉に、後ろで口を開けずに、話を聞いていた3はの面々の肩が跳ね上がる。 確かにその通りだった。 プロ忍に最も近い忍術学園の6年生。自然とこなす実習も過酷で、期間も長いものとなっていく。 一昨年の6年生だって学園を空けることも多かった。
「それは、委員会の他の上級生が…」 「用具も、保健も、生物も、委員長や委員長代理のすぐ下は3年生だったね」
口を止めない教育実習生の言葉を、喜八郎は容赦なく遮る。 あのときは、用具も、保健も、生物も、たった一人の3年生が支えたのだ。
「寧ろ、3年生の人数が少なかった分、今より余程過酷だったな」
滝夜叉丸は、そっと三之助の額に手を当てた。
「…そのために、鍛えられてたから」
滝夜叉丸の手に促されるように、三之助の口から、ポロリと言葉が零れおちる。 喜八郎の手が、藤内の頬を滑った。 委員長の不在時、学園の生活において多少の違和感があったことは否めない。 しかし周りが「不便」だと感じるほど、委員会活動を滞らせたりはしなかったのだ。
「作も、数馬も後輩に甘いから、まだちゃんと委員会の仕事を教えきってないんだと思います」 「あの先輩方は、確かに随分と個性的であったし、後輩に甘い方々ではあったが、向上心のない人間に技術を教えるほど酔狂ではなかったよ」
確かに、用具と保健の委員長コンビは、二人して後輩にスパルタで委員会で必要な技術を叩き込んでいた。 けれど、それは、作兵衛と数馬がその想いと同じだけ「学ぼう」という意識を持っていたからである。 それに引きづられるように、他の四人も忍びの技だけでなく、委員会活動で必要な技術を習得するようになった。 孫兵が、有毒生物以外の生き物にもちゃんと目を向けるようになったし、三之助の体力も左門の計算能力も驚くほど向上した。 藤内の「作法の良心」という二つ名さえ、時には先輩を諌めることが出来るほどの実力があったからこそ付いたものである。
「私達も、お前達には楽させてもらったな」
トラブルメイカーとアイドルの衝突はそれは派手であったけれど、当時の4年生が6年生の不在時も、委員会を成立させられたのだって一つ下が、何だかんだ言いつつ、しっかり支えてくれたからだ。
「お前達の優秀さは、私たちがちゃんと知っているよ」
手負いの獣たちの眼に、光が戻り始めた。 あと一息。 にも関わらず、空気の読めない人間というのはいるものである。 は組が必死に口を塞いでいたのを振り切って、教育実習生は口を開いた。
「話がついたなら、さあ、帰ろうじゃないか。他の子達はどこ…」
滝夜叉丸と喜八郎の目の前で殺気が膨れ上がりかける。 ひゅうんと、小さな音を立てて、刃物が口を開いた教育実習生のもとへと飛んできて、頬を掠めていく、 戦輪だった。
「…今の言葉は無視していい」 「言ったでしょう、無理に引き離したりはしない、と」
触れる手はどこまでも優しく、その仕草はどこまでも温かく。 滝夜叉丸と喜八郎の言葉は本心である。 彼らを引き離したりする気は更々無い。
「作兵衛達は…全員、生きているな?」
それは、疑問ではなく、確認である。 手負いの獣二匹は、その言葉に頷きだけを返した。
「それともう一つ。この忍務、もともとの期限は?」 「…あと五日」 「ならば、それまでに帰っておいでなさい」 「…分かりました」
その言葉を聞いて満足げな笑みを浮かべた滝夜叉丸と喜八郎は、ふわりと立ち上がる。 後輩二人は地面に伏したままだ。
「じゃあまた学園でな」
そう言って、踵を返した滝夜叉丸と喜八郎は、そのまま学園へと向かって歩き始めた。 喜八郎は、先程手放した踏鋤を手にするのを忘れない。 あまりに呆気ないその様子に、は組と教育実習生は眼を見開いた。
「何をぼうっとしているんですか、帰りますよ」 「5年が抜けている今、学園は基本人手不足ですからね」 「それなら、彼らだけでも連れて…」 「勘違いしないでください」
喜八郎は、いつも通り表情の読めない顔で教育実習生の顔を覗き込んだ。
「彼らは、自分達の力で帰れないほど幼子ではないし、委員会の為に生きているわけではない」
確かに、委員会の仕事を誰よりも真面目に取り組んではいるけれど。
「まだ、期限までには時間がある。…なら、期限まで待てばいいだけです」 「それでも帰ってこなかったら?」 「さっき、帰ってくると言ってましたよ。あの子達はトラブルメイカーだし、生意気だし、排他的ではありますが」
滝夜叉丸と喜八郎は、一瞬だけ目を合わせるとふっと微笑む。
「先輩や後輩、『忍たま』との約束は決して違えることはしないですから」
まだ襲い掛かっていないのは、三之助の放った手裏剣に仕込んだ虫達の嫌いな匂いをばら撒いたから。
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