かたん、と本を棚に仕舞う音を耳にし、久作は伏せていた瞼を静かに上げた。 青みがかった黒髪が視界の端に揺れる。 まるで渓谷に下る流水のような、潤いに満ちた瑞々しいそれは棚と棚の間に消えていき、久作は据えていた腰を上げた。
「…浦風先輩」
藤内は紙面に滑らしていた視線をついと流し、足元から上へと昇らせ久作の顔を見た。 微かに首を傾げた際、大きくうねった形の独特な前髪が揺れる。
「どうした?能勢」 「いえ、…あの」 「ん?」
手元を見ずにするすると巻物を巻き返し、棚に戻し入れる藤内へ、久作は持っていた書物を差し出した。 突然の行動に眼を瞬かせて不思議がる藤内が、それでも受け取ったことに安堵の息を吐く。 そして、装丁の題を見て取った双眸が僅かに見開いた。
「これ、」 「先日、浦風先輩がご依頼した書物です」 「…早いな、珍しいものだからもっと掛かるかと思っていた」
嬉しそうに表紙を指でなぞる仕草は愛おしそうで、胸中が熱いほど温かなもので満たされる。 それを悟られないよう声色を作った。
「…図書室は、読者に求められればなるべく早く揃えますので」
誇りだと言うような、そんな瞳だった。 何よりも雄弁に語るそれを見て、藤内はにっこりと微笑む。
「そう言われてみれば、此処で読みたい本が読めなかったことは無かったな。ありがとう、早速読ませて貰うよ」 「いえ。…失礼します」
丁寧に本を持ち直した藤内に一礼し背を向けて、久作は少しだけ足早に二つ、三つと棚を過ぎる。 五つ目。藤内から充分に距離を取り、誰もいない、誰も見ていないことを確認した久作は立ち止まった。 静かな此処では些細な音でさえ充分に響く。だから意地でも、声は勿論嗚咽でさえ漏らしたくない。 たった、一度だけ。 片腕で目元を拭い、彼は後輩に任せた受付へと戻った。
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