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やっと時間が出来た。


そう言って自分を迎え入れた左吉に、伝七は端正な顔を顰めた。

「ダメだ」
「…伝七?」
「左吉、疲れているだろう。暫く一人で休んでいた方が良い。僕はすぐそこで待ってるから。じゃあな」
「な、……っ伝七!」

追い留める左吉の声を無視して、どことなく不機嫌そうに言い募るだけ言い募った特徴的な赤が扉の向こうへと消える。
ぱたん、と無情にも隙間なく閉ざされた出入り口に、左吉は、ドアノブに掛けようとした手を静かに降ろした。

落ちるように体の横に垂れ、振子のように微かに揺れて止まった両のそれらを見下ろす。そこで初めて、左吉は己の腕を満足に動かせないことに気付いた。不甲斐無さに乾いた笑いが喉の奥から吐き出される。なんて様だ、情けない。
自覚してしまえば不思議なもので、途端に重たくなった体をどうにか動かしてベッドへ寝転がった。目許に左腕を置き、視界を閉ざす。疲れきった今の瞳には部屋の照明すら眩しすぎるのだ。
あんな表情(かお)をさせてしまったという事実が重く圧し掛かる。

不安か、焦燥か。苛立ちか怠慢か。心臓が五月蝿く循環を速めて指先が痺れていく。



―――…しんどい…。


張り詰めた糸がふつりと切れるように、左吉の意識は沈んだ。





素早く閉じた扉に背を預け、一拍の後、くるりと身体を反転させる。扉越しに中の様子を探れば、制止の声は簡単に途切れ、間を置いてベッドのスプリングが聞こえ、そうしてやっと息を吐いた。
さり気なく掠め取っていた左吉の携帯電話を取り出し(この事にすら気付いていなかったら、本当に末期だ)、マナーモードに設定する。バイブレータも切り、そっと床に置いて、身体を丸めた。


月に一度だけ抱えの技師を迎える広い庭園に面した縁側。

靄の立ちこめ始めた雨景色を上の空で眺める。糸のように細かな雨が心を波立たせ、そして不自然なほど凪がせていく。

(…左吉は、バカだ)

出ていくまでに見ていた左吉の姿を脳裏に思い描く。嫌というほど網膜に焼き付いたそれはすぐに浮かんだ。
思わず鏡を見ろと言いそうになるくらい、顔色は最悪で隈は濃い。左吉自身は気付いていないようだったけれど、僕の手を優しく握る指先が震えていた。
……あんな状態で僕の相手をするなどと、よく思えたものだ。
左吉の身体を壊してまで一緒にいたいとは思っていないのに。無理された方が卑しい気分になる。そこまでして構って欲しいだなんて思うわけがないだろう。

(…僕の想いは)

そんな浅ましいものなんかじゃ、ない。



胸の底に蟠るモノが嫌で仕方なく、燻るような湿気が窮屈に感じて、伝七は額を膝に当てながらゆるゆると息を吐きだした。だるい瞼は半分しか開かずにただ緩慢と瞬きを繰り返しては、結局視界に何かを映さなければ落ち着かない。
板敷きに跳ねた粒は小さな雨水を作って少しずつ大きくなる。だからか距離は近く、避けるように足を抱えた。
重く圧しかかるような雨天の空を仰げば、暗灰色の遠く先に淡い光と青が揺れ、この雨垂れがそう長くないと知るも少し名残惜しい。

――…凪いだ俄雨だ。
感覚を鋭利にすれど風は感じず、ただ洗い流されて澄んでいく濡れた空気が服をしっとりと湿らせる。


伝七は静かに立ち上がり、雨戸を閉め切った。
掻き消されると知りつつも足音や呼吸を抑えて、もう一度一つ奥にある扉を背に座り込む。

露出している肌がひどく冷えていることに、二の腕へ頬が触れたことによって知り、今更ながらに鳥肌が伝った。対照的に熱い掌で摩ると、摩擦の熱が瞬間的に暖めてまた引いていく。
雨の音が籠もって聞こえる廊下は冷え切り、雨戸をたたく水が不躾な音を響かせる。

(…ムカつく)

たった一つの隔たりが何だ。
こんな薄い木の板で僕らの仲を断つなんてこと出来やしない。現にこうして僕は君のことが時間を追う毎にもっともっと好きになっていっている。
たった一つの別離が何だ。
人は誰しも独りでいたい時間が必要で、左吉の時間を奪う権利なんて誰にも、勿論僕にもないというのに、何で無理をするんだ。
恋人がいた方が休めるとはいうが、そんなもの状況次第で幾らでも変わる。

(…苛々する)

それが嫌だと思っているなどとは、よくもまぁ見縊られたものだ。







冴えた聴覚が捉えた鈍い雨音に、左吉はゆっくりと瞼を押し上げる。
意識が酷く重苦しいのは、過労だからか。そこまで体調を崩しておいてよく自覚しなかったものだと自分に呆れる。同時に、それを察して行動してくれた伝七に、嬉しさと申し訳なさと……寂しさ。
雨音に閉じ込められた部屋は不思議な圧迫感を伴い左吉の精神を蝕みはじめ、理性は疲労にほぐれていく。
軒から流れ落ちる雨垂れを窓越しに見詰め、いっそのこと――、そう紡ぎかけ、口を噤んだ。





食い縛った唇が、爪を立てた皮膚が、じくじくと悲鳴を咽ぶ。

足りない言葉を補う術を知らず、瞼を伏せれば眦から零れるなにか。
痛みも雫も構わずに、ただ揃えた膝に顔を伏せた。





雨神よ、隠しておくれ

埋めようのない隔たり最後の境界線


すれ違い、的な何か。
24で呟いた、一人が安心する左吉の為に唯一の出入り口である扉に凭れかかりながら廊下で膝抱えてその時間を作って守る伝七。
実は【涙雨よ、止みなさい】の没。

12/01/31.