全部あなたが
教えてくれた



時は刻々と過ぎていった。
年中雪が吹き荒れるアインツベルンの城では季節の感覚がどうしても薄れてしまうけれど、それでも時計の針は目まぐるしく時を刻み続ける。いつの間にか切嗣がアイリスフィールの元にやって来て、もう1年が経とうとしていた。

「私、切嗣に出会ってから少し欲張りになったみたい」

何の前触れもなく含み笑いを浮かべながら呟いたアイリスフィールが手元の写真集から視線を上げた。大量の書類に囲まれていた切嗣は黙って続きの言葉を促す。

「海が見たいし、色んな国に行きたいし、乗り物にも乗ってみたいし……前はこんな風に思わなかったのよ?」

「興味を持つことは良いことだよアイリ。僕もそろそろ体が鈍りそうだ」

優しく微笑んだ切嗣がわざとらしくコキコキと首を慣らす仕草をする。それを見てアイリスフィールは少しだけ寂しそうな表情を見せた。

「……お城は退屈?」

恐る恐る訊ねるアイリスフィールが何だか無性に愛しく感じた切嗣はそんなことはないと首を振る。まだ1年しか過ごしていない、ただ広いだけで常に寒いアインツベルンの城が切嗣にとって不思議と居心地が良いのは、傍らにアイリスフィールがいるから。そう理解したのはつい最近のことだった。くるくる表情を変えては朗らかに笑う彼女は、僕が忘れていたものを取り戻してくれた。自分が生きていく上で切り捨ててしまったカケラを、彼女は一つ一つ拾い集めはめ込んでいってくれた。それが僕にとって良いことなのかどうかはわかりきっているけれど、今、こうしてアイリスフィールと二人で過ごす静かな一時には必要なものだった。

「いつか二人で見よう。海も色んな国も乗り物も全部」

そう言って切嗣は手にしていた書類を伏せて徐にアイリスフィールの頬を優しく撫でた。陶器のような白く滑らかな肌、とても美しいと思った。この肌の下には切嗣と同じ赤色の血が流れ胸の中では心臓が脈打っているのだ。それ故に、アイリスフィールが体内に宿す本来の意味に痛みを感じずにはいられなかった……切嗣がここにいる理由である筈なのにも関わらず。矛盾した行き場の無い複雑な心境に小さく舌打ちをしながら、1年でこうも僕は変わってしまったんだなと切嗣は悲しい笑みを溢した。

「約束よ、切嗣」

アイリスフィールは初めて会った時のように切嗣の手に自分の掌を重ね合わせる。瞳を静かに伏せて慈愛に満ちた優しい表情を浮かべていた。何も言わず何も聞かず、ただ切嗣の不安定に揺れる心を感じたのか頬を擦り寄せ「大丈夫、私は信じているから」と繰り返し呪文のように呟くだけだった。



× × ×



激しく窓を打ち付けていた風が止んだ静かな夜更け。濃紺の夜空を斑な雲が足早に流れていく様を見ながら切嗣は思う。今腕の中で安らかな寝息を立てているアイリスフィールをこの手で殺すその瞬間、僕は迷うことなく手を下すことが出来るのだろうか。彼女のお腹の中に新たな命が宿ったと聞いて、幸せな気持ちとは裏腹により心は荒んでいくようだった。守らなくてはいけなかった大切な存在を切り捨てでも叶えたい理想は、今、もうすぐ手の届く所に舞い降りる。それを手にする時が来たら、果たして僕は愛しい妻と産まれてくる子に銃口を向けることが出来るのだろうか。

(……否、出来るかじゃなくて、出来なくちゃいけない)

あの日、父親にナイフを突き刺したその瞬間から誰も悲しまない世界を創るためだけに真っ直ぐに歩いてきたんだ、僕はどうして今更躊躇うのだろう。
アイリスフィールが教えてくれたものはとても大切なものであってかけがえのないもので……今の僕には必要の無いものだ。そう、いらないもの。そうでなければ衛宮切嗣というヒトの形をした人形は成り立たなくなる。人形には心も感情もあってはならないのだ、決して。

「……アイリ、君だけは美しいままでいてくれ」

ヒトならざるも、アイリスフィールこそが人間の本来の美しさだと切嗣は思った。悲しみに涙し優しさに微笑み愛する者を信じると言ったアイリスフィールが絶望しない世界を創る、それこそが僕の生きてきた理由なのだから。切嗣はこれから始まる悲劇を物語のエピローグにするためにと胸に刻み付け、ゆっくり瞬きを一つして、そして一層アイリスフィールを抱く腕に力をこめた。どうか僕がこの温もりを君が教えてくれた愛を忘れぬよう、美しいままの変わらないアイリでいてくれと、切嗣はただ強く祈った。



夢の中で切嗣は少し悲しげな表情でそっと呟いた。美しいものは直に朽ちてしまうと。花は枯れ海は汚れ人は死ぬ。だから美しいんだと言った切嗣は私に無言で銃を突き付けた。

――アイリ、君だけは美しいままでいてくれ。

そう言って苦しそうに顔を歪め涙を溢しながら切嗣は引き金を引いた。

切嗣はいろんな事を私に教えてくれた。楽しいことも悲しいことも私がわからないことを全部教えてくれた。だけど一つだけ、切嗣に聞かずに自ずと知ったことがあった。

――信じてと、頻りに言っていたでしょう?切嗣。勿論、私は貴方を信じているわ。でもね、貴方が信じてと言う時は何かを隠す時だということを私は知っていたの。貴方はどんな時でも真っ直ぐで眩しくて……でもとても優しいから、だから少しだけ嘘が下手だったのかもしれない。
ねぇ切嗣。私の手を引いて歩く道が花が咲き誇る綺麗な歩道でなくていいの。畦道でも獣道でも、ただ貴方が居てくれればいいの。ただ、冷えきった貴方の手を握っていられるだけでいいのよ――

ふと目が覚めたアイリスフィールが瞼を開けてみると、視界いっぱいに切嗣がいた。普段と違い幾分か幼くも見える安らかな寝顔だった。アイリスフィールは何か悲しい夢を見ていた気がして無意識に目元に手を伸ばす。するとほんの少しだけ触れる湿っぽさに、これが“涙”であることを初めて理解した。流れることはないと思っていた涙。一体どの感情が溢れ出したのだろうかとぼんやりする頭で考えて、アイリスフィールは徐に目の前の切嗣に擦り寄った。この涙が愛しさから来る涙でありますように。そう願いを込めて、至福を噛み締めながらアイリスフィールは再び瞼を閉じた。

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テーマ「人外ファンタジー」
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