全部あなたが
教えてくれた



真っ暗で前も後も何もかもが見えないただ闇だけが存在する世界で、アイリスフィールは小さく体を踞せ横たわっていた。
白くしなやかに伸びた手足。艶めく銀色の絹糸のような髪。瞳に映る“ヒト”とおぼしき部分を見て、アイリスフィールはまるで他人事のようにこれが私の体なのだと理解した。目覚めて間もない体の動きは未だたどたどしく、固まったまま床にゴトリと落ちた腕に違和感を感じ初めてこれが“痛み”だと知った。

「いた……い」

「喋られるんだな」

口から溢れた感情の言葉に反応するかのように何処からか声が降ってきた。聞いたことがない低い声。大爺様の声じゃない、もっと若く透き通った声だった。

「だ、れ?」

「衛宮切嗣」

「キリ……?」

「切嗣だ。アイリスフィール・フォン・アインツベルン」

暗闇でぼんやりとした視界の中で蠢く真っ黒な一つの影。ひらひらと何かがはためいていた。ふわふわと何かが柔らかく流れていた。そして何かがそっとアイリスフィールの元に伸ばされた。冷たくて固くて、けれど優しい何かが頬に触れた。

「キリ、ツグ」

「なんだい?」

「冷たい……けれど、温かいわ」

「僕の手が、かい?」

これが“キリツグ”の手。初めて肌に感じた他人の温もりにアイリスフィールは単純に感動を覚えた。温かくて優しい体温。キリツグと言うヒトがどういう人物であるのかという疑問以前に、自分以外の温度を知ることが出来てとても嬉しく思った。たった今目覚めた自分より既に完成されたヒトであるキリツグはもっと沢山の事を知っているのだろうかと、興味が湧いてきた。そしてその胸が高鳴る不思議な感情が“興味”であることをまたアイリスフィールは知った。

「キリツグの手、温かい」

「……そうか」

未だ触れたままだった切嗣の掌に自分の手を重ねた。冷たい、けれど触れてみるとじんわりと温かい不思議な手。アイリスフィールは瞼をゆっくり閉じる。トクントクンと微かに聞こえる切嗣の鼓動と自分自身の脈。初めて耳にする他人の生きている証は再びアイリスフィールに小さな一つの喜びを与え、重なる二つの音に耳を傾けながらアイリスフィールは柔らかい笑みを溢した。



× × ×



衛宮切嗣と出会い数ヶ月が経った。未だ切嗣がどうしてアインツベルンの城にいるのかはわからないままであったが、アイリスフィールは自ら知ろうとは思わなかった。事実を知ることは即ち私を知ること、私が今こうして息をして動いて笑っている意味が決定付けられてしまうようで怖かったから。生きていることに理由があっても意味は無くていいんだと切嗣が教えてくれたから。私は知らないままでいよう、きっとそれが切嗣と城で過ごす幸せな刻をより長持ちさせてくれるのだとアイリスフィールは信じていた。
そういえば、と激しさを増す吹雪の夜空を窓越しに見上げながら思い出す。“怖い”を教えてくれたのは出会って2ヶ月目を過ぎた頃の切嗣だった。
とある静かな寒い夜、青ざめた顔を隠しもせず涙を湛えた震える瞳で小さく呟かれた言葉に、アイリスフィールは首を傾げたのだ。

「“怖い”って、なに?」

「いろんな意味があるんだけど……今は、悲しいってことかな」

「切嗣は怖いと悲しいの?」

「そうだね。怖くなって逃げたくなってでも逃げられなくて。結局、悲しくなる」

「何故、切嗣は怖いの?」

灯りがない部屋にぼんやりと注ぐ月明かりに照らされたアイリスフィールは不安気な表情を浮かべていた。それを見た切嗣は一瞬だけ躊躇って、けれど意を決したようにフッと悲しげな笑みを溢すと視線を窓の外に向けたまま口を開いた。ビュウビュウと窓を激しく叩く風の音に、切嗣は何故かこの時ばかりは安心を覚えたのだった。

――僕にはやり遂げなくてはいけない約束がある。父親と母親と姉と故郷と。必ず叶えると約束した、僕にとって生きる“理由”なんだ。その為に立ち止まらず歩いてきて今こうしてアイリの前にいるんだけれど……たまにね、怖くなるんだ。約束を果たすには対価が大きすぎるから、逃げ出したくて捨ててしまいたくて堪らなくなって。そしてどうしようも無くなって、悲しくなる。きっと今日がそうなのかもしれない――

そう言って遠くを見つめる切嗣は今にも消えてしまいそうで、アイリスフィールは咄嗟に切嗣の手を握り締めた。最初に出会った時と同じでとても冷たい手だった。切嗣がアイリスフィールと出会うまでどれ程の悲しみを乗り越えて来たのだろうかと思うだけで、不思議と胸がぎゅうっと締め付けられるようだった。冷たくなったままのこの掌を温めてあげられる人になりたいと思った。

「切嗣が怖くて悲しくなるなら、私が溶かしてあげる」

「アイリ?」

「切嗣の手、温かくなってきたでしょ?こんな風に怖いも悲しいも私が全部温めて溶かすから」

だから、怖いって言っていいのよ。

その夜の切嗣はまるで少年のようだった。アイリスフィールの言葉に最初は目を見開き、次第に何かを堪えるように歪ませ、そして静かに涙を溢した。声を上げず雫を拭うこともなくぽたりぽたりと頬を伝い落ちる切嗣の涙。瞳は伏せられたまま、いつもと違って不安定で小さく見えた切嗣の肩をアイリスフィールはそっと抱き締めた。もしかしたら今やっと切嗣の中で何かが少しだけ変わったのだろうかと、そうだったら嬉しいなと、背に月明かりを浴びながら思った。



「ねぇ切嗣、涙は嬉しくても流れるの?」

パチパチと燻る火種の音と少し焦げた匂いが包む暖炉が焚かれた暖かい部屋で、切嗣が城に持ち込んだ数多の本を片っ端から眺めていたアイリスフィールがふと切嗣に問い掛ける。手にしていたのは美しい装丁の絵本で、開かれたページを覗いてみると少女が笑顔で涙を流している挿絵が描かれていた。

「涙は悲しい時に流れるものでしょ?」

何故この少女は笑いながら泣いているのかしらと、不思議そうな表情で真剣に考えるアイリスフィールを見て、切嗣は思わず笑みを溢した。彼女の純粋さには温かくて柔らかな気持ちになるから困る……とうに忘れたと思っていたのに。日々黒く淀んでいた心がアイリスフィールと出会ったことで俄に浄化されていく気がして、切嗣は束の間の幸せだと心に強く刻みながらアイリスフィールの小さな疑問に応えるべく口を開く。

「涙はね、心にある感情の器がその気持ちでいっぱいで溢れてしまった時に流れるんだよ」

「感情の、器?」

「そう、誰もが持っている器。きっと彼女は幸せでいっぱいになったから泣いたんだろう」

切嗣はそう言って絵本のページを指差した。人々に囲まれて満面の笑みを咲かせる少女は幸せだから涙を溢していたのか。アイリスフィールはそう理解してもう一度絵本を読み返してみると、それはとても優しい物語だった。

「私の器はきっと、神様の杯よりずっと大きいわ」

「何故だい?」

「涙は、流れないもの」

断言したアイリスフィールの口調は少し投げやりで、けれど語尾は弱々しかった。アイリスフィールには何か思う節があるのだろうか、それとも自分を成す“システム”を少しずつ認識しだしているのだろうか。切嗣は表情を変えずに思案して、その本意を聞かずにじっと見つめる。いずれ知ることになるであろう彼女の運命。君が生まれた意味と僕がここいる意味が同じ直線上にあることを知ったら、アイリは果たしてどう答えるのだろう。

「……きっと流れるさ、その時が来たら」

「本当?」

「ああ。僕を信じて」

言葉を発した途端、良く言えたものだと誰かが僕を嘲笑う。幾度となくそうして救世主の真似事をしては闇へ葬り去ってきた命があるじゃないかと。その度に切嗣は自分に言い聞かせる。これは世界を救うための蕀、心を殺して今まで通りに普通にしていればいい、それだけだ。
アイリスフィールは難しい顔でじっと床を見つめる切嗣を覗き込んだ。私は切嗣を信じる、切嗣は約束を守る人だから。だから私もいつかの切嗣のように涙を流すことが出来ますようにと祈ろう。そうすれば今よりもっと切嗣に近付けるかもしれない、そうアイリスフィールは胸の内で小さく頷いた。

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