08

「あれー?椿かー?」

腰にタオルを一枚巻いた恰好で恐る恐る浴場の引戸を開け中の様子を伺っていると、何処からかともなく聞き覚えのある声が響いた。
その声を頼りに湯気が立ち上る浴場へとゆっくり足を踏み入れ濡れた床をペタペタと歩くと、そこには湯船に肩を浸からせ笑顔で手を振る世良さんがいた。

「世良さん、お疲れ様ッス」

「椿もお疲れー!風呂これからってことは、さては早速残業かー?」

「う、そ、そうッス」

「なっさけないなぁー」

まぁとりあえず椿も入れよと世良さんに促されるまま、俺はそっと湯船に体を沈める。
ふぁー、やっぱ気持ちいい。
通常業務初日なのに残業やらキスシーンの目撃やら主任からの逃亡やらで余計に疲れた心と体を優しく包み込む、ちょっと熱い位のお湯が今はとても心地良く感じた。

(全部が全部夢だったらって思っちゃうな…)

いろんな出来事が一日でいっぺんに起こりすぎて、処理能力が高くない俺の思考回路は未だに悲鳴を上げている状態。
もうこのまま記憶諸とも何処かへ消えちゃえばいいのに、なんて下らない現実逃避を考えながら湯船の揺らめきに身を委ねていると。

「なぁ椿、皆から色々言われただろうし何を言われたかは大体想像付くけどさ…」

徐に世良さんが口を開いた。
その声は日中とは違う、少しトーンダウンした世良さんらしからぬ口調の様に感じた。

「単なる歓迎会っつーだけで本当に何でもねぇんだよ、本当に」

だから余計なこと考えないで普通に楽しめよな!
そう言って世良さんは日中と同じ明るい満面の笑みを浮かべた。
さっきまでの真剣な雰囲気は一瞬で消え今朝見た様な朗かな雰囲気を醸していて、俺は内心で首を傾げつつもきっと勘違いだと自分に言い聞かせる。

「赤崎は何か言ってた?」

「え、っと、逃げんなって」

「はははっ、逃げんなか!」

あいつ去年の歓迎会、皆の忠告を無視して逃げ出して後々酷い目に合ったらしいからなぁ。
そう言って苦笑いを浮かべて俺の肩をバシバシ叩いた。

「まぁ椿にはコシさん付いてるし?俺もいるし赤崎も何だかんだで助けてくれるだろ!」

あいつあんなぶすくれてっけど実は世話焼きなんだよ以外だろ?
世良さんはお湯の中に沈んでいた腕をぐっと前に伸ばして、そのまま俺の肩に回した。
急にぐいっと世良さん側に引き寄せられた俺の肩は世良さんの肌にペタリとくっついて、何だかむずかゆいような変な感じがする。
だけど不思議とそれは不快じゃなくて、更に言うと世良さんにぎゅっと抱かれた肩がほんの少しだけ痛くてそれが何処か必死な気がして、俺はただ黙って世良さんに身を委ねることにした。

「椿って何か落ち着く…何でだろ?良く言われねぇ?」

「言われたこと無いッスよ?」

「えー俺だけなのかなー何か抱き枕とかにしたい、お前マイナスイオン出てそうだもん」

「マイナスイオン…?」

「うん、癒しだよ癒し」

その自製マイナスイオンでさ、あいつも癒してやってくんないかな?
そう呟いた世良さんの台詞にハッとして、でも表情は見ちゃいけない気がして。
咄嗟にそう自分なりに判断した俺は俯きながら小さな声で「あいつって誰すか?」と尋ねる。
表情は見ちゃだめだと思っておきながらも無意識に世良さんの核心に触れようと口を滑り出た疑問に、内心で舌を打った。
興味本意で聞いてはいけない、見てはいけない、踏み込んではいけないということは数十分前に身を持って学んだことじゃないか。

「…ん、やっぱいいや!椿に抱きつくのは俺の特権にしときたいしな!浮気すんなよー?」

「え、浮気!?」

ニカッと清々しい程の笑みを浮かべた世良さんは、戸惑う俺の肩を再びバシッと一度叩いて立ち上がった。
そして短く互いに言葉を交わした後、もうもうと立ち込める湯気の向こうの出口へと姿を消して行った。





――カポーン

一人になった浴室、何処からともなく落ちてくる雫が水面や床を跳ねる音が木霊する中、俺は真っ白の天井を見上げて目を瞑った。

(あいつって結局誰だったんだろう?)

上手くは無かったけれど笑ってはぐらかされた、世良さんが癒して欲しいと願う人。
その声色はとても優しく、情を孕んでいる様に聞こえた。

(きっと大切…というか、仲が良い人なんだろうな)

…そういえば。
世良さんは気付いてたのかな?
笑ったり、真剣になったり。
マメにスイッチを切り替えながら喋っていた話の半分以上に、ザキさんの名前が出ていた事を。

(…大切なのは、ザキさん?)

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テーマ「人外ファンタジー」
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